7.春の芽吹き
ユリウスが往診に出掛けてから1ヶ月経った。帰ってきた姿を見て驚きはしたが、翌日はいつもと変わらぬ様子で仕事をしていたので、思ったより切り替えが早くて安心した。ユリウスが話したがらないのならこちらも聞くつもりもない。
「いたたっ」
一段と大きくなった腹の重さに最近腰が痛むようになった。ユリウスはもうあまり仕事をしなくてもいいと言ってはいるが、少しは動かないと身体が鈍るし、子も降りては来ない。
「元気か? レン」
受付の掃き掃除をしていたところに見慣れた来客が現れた。
「ジルバ。珍しいな港に来るなんて」
「用事で来たんだ、ユリウスは?」
一応この施設の主である(と言っても形だけだけど)リベルタの隊長が顔を出した。まだ若い上に生まれたときから知ってるので隊長と言うより弟のような気分だ。
「今は調薬してる。で、後ろの奴は?」
「あ、ルーです。この前ユリウスさんに助けてもらって」
「はぁ、ユリウスが?」
血の通った奴ではあるが、そんな誰でも助けるような男でもないので、思わず間抜けた声が漏れた。
「とりあえずどこかで待たせてもらえるか?」
春に近付いたがまだまだ冷たい空気に鼻先を赤くしたジルバが笑う。帝都からここまで歩いてきたんだ。身体は冷えきっている。それに少しちらつく雪が癖のあるうねった黒髪にちらちらと乗っかってよく映えていた。客間に案内しようと廊下を歩いていると調薬を終えたユリウスが診察室から出てきた。
「ジルバ。――は? お前なんで」
「お久しぶりです、ユリウスさん」
「ユリウス久しぶりだな。ちょっと相談があるんだが」
ユリウスはその言葉に客間で待ってろと言ってまた部屋に戻っていった。まだ少しすることがあるのだろう。とりあえず客人である二人を客間に通すと何か温かい飲み物をと火を入れた暖炉にやかんをぶら下げた。
やかんの水が沸くか沸かないかの頃にユリウスが入ってきた。
「座ってていい。それくらい俺がやる」
「いいよ、ジルバも忙しいんだからさっさと用件聞いてやれ」
今でも2日に1回は(前はもっと多かったけど)ユリウスの過保護で言い争いになる。不快そうに眉をしかめるので納得はしてなさそうだが客人の手前ジルバの向かいの席に腰を下ろした。
「相変わらず過保護か? ちょっとは動いた方がいいんだろ?」
「こいつがちょっとで済むかよ」
ユリウスの過保護が過剰だから嫌がってるんだ。ユリウスは出産の現場を見たことがあってもそれは死の匂いの漂う現場でしかなく、それもあって出産に対して畏怖を抱いてる節がある。だからってこうやって縛り付けるように何もするなは腹立たしい。そんなわけでその気持ちが籠もったユリウスの紅茶だけが置く時にガチャンと大きく揺れて波紋を作った。
「どうぞ」
隣に腰を下ろして息を吐き出すと、ジルバが色々察した苦笑いを浮かべた。
「あー……実は朝から彼がリベルタに訪れてユリウスと話がしたいって言うから連れてきたんだ」
「あぁそう、どうした?」
「あ、突然押し掛ける形になってすみません」
こちらの意図を感じ取ったユリウスが素っ気ない声を上げる。申し訳なさそうに言葉を始めたルーが背筋を伸ばしたまま続ける。ちょっとは愛想を良くしろとテーブルの下、膝を軽く小突くがユリウスは無視した。
「アストロ家の当主様、少し前にお亡くなりになられて」
「あぁ、みたいだな」
思わぬ名前にドキリとする。それはジルバも同じでどう言うことかと言った顔だ。ユリウスだけが何も気にしないと言った顔をして紅茶に手を付けた。
「ユリウスさんに感謝されてました」
落ち着いたルーの声に誰も言葉を発さない。パチパチと暖炉の中の薪が爆ぜる音と強く吹く風が窓を揺らす音が響く。
「ユリウスさんが調合された鎮痛剤もよく効いて、いつもは辛そうに日長過ごされてたんですけど、起き上がって笑うこともできて、天文博士のお役目も、ベッドの上でですけど、久しぶりにできるようになったと」
「そうか。効いたか」
「はい、最期はご家族に見守られながら安らかに逝かれました。ユリウスさんのおかげです。僕では到底あんな処方は思い付かなかった」
ルーが一息吐き出す。あの日のことは聞かない方がいいかと思って触れずにいたが、きちんと医者として診察をしていたようでどこかホッとした。
「それで、僕を雇って欲しいんです」
「「は――?」」
思わずユリウスと重なった。
「お前国立診療所の医者だろ」
「昨日辞めてきました」
「はぁ!?」
「それで今朝リベルタの方に伺ったらユリウスさんはレグルス港の出張所にいて、ここにはいないって聞いて、だから伯爵に連れてきてもらったんです」
「ミスティアの下じゃなくてユリウスの下で働きたいって言ってるし、それならユリウスの意見を聞こうかと思って。どちらにしろ、今のミスティアじゃ彼を面倒見れない」
本部の医療を取り仕切るミスティアは優秀だが、先日事件があり精神面で不安定だ。最近ようやく仕事に復帰はできたが、男と同じ部屋で働くのはまだまだ無理だろう。
ユリウスが頭を抱えて大きく息を出した。断るにしてもまさか古巣を辞めているとは思わなかったのだろう。断れば目の前の若者は無一文の職無しだ。
「思いきったことしすぎだろ……。なんで、働きたいんだ? 国立でも医者はできるだろ」
とりあえずと言った感じで頭を抱えたままユリウスが問い掛ける。
「僕、もともと薬学が得意で、国立に入ったら薬剤科に入りたかったんです」
少し恥ずかしそうに笑った。
「でも得意なのは薬学だけで……結局ユリウスさんと会ったときみたいに優秀な人の助手とか、使いっ走りばっかりしてたんです。最初はどうにか転科しようと踠いてたんですけど、次第にそれも疲れちゃいました。その日食えりゃまぁいいかって思ってたんです。でもユリウスさんに調合を褒めてもらって昔の自分を思い出したんです」
「だったらもう一度踠けばいいだろ」
「そう思って薬剤科に転科させてくれって上に直談判したんですけどねぇ、まぁ受け入れて貰えませんでした。お前成績悪かっただろって」
何も言えなくなってルー以外が押し黙る。前にユリウスとミスティアから医学学校と国立診療所の関係は聞いていたので、目の前の若者の言うことは本当なんだろう。
「成績が悪いのは事実だし、それならこれからもっと頑張ってみようかって踠いてたらもう誰も僕を指導してくれなくなりました」
「酷い話だ。本人の意欲のある仕事をさせてやった方がいいに決まってるのに、相変わらずだな」
「そうですね。僕もあそこは患者のためじゃなくて医者と医学の発展にある場所だと再確認したんですよ。これじゃあ僕が目指してたものじゃないなって気付いたらもう駄目で――それで辞めてきました」
「――じゃあお前が目指してたものはなんだ」
晴れ晴れとした笑顔を浮かべたルーにユリウスが声を上げる。初めの機嫌の悪い声色に比べたら随分穏やかだ。
「幼い頃、転んで擦り傷を作って、まぁ医者に診てもらうような怪我じゃなかったんですけど、たまたま通りかかった医者が手当てをしてくれたんです。きちんと手を握って、今から思うと大した治療なんてなかったんですけど、手を取って向き合って診てくれたことが本当に嬉かったんです。だから例え治すことはできなくてもきちんと向き合って手を取ってその人の生き様がよくなるような医者になりたい」
沈黙が落ちた。ユリウスの様子を伺う。じっと目の前を見据えてルーから目を離さない。ルーも同じく目を離さなかった。
「とにかく一度帝都に戻れ。ここじゃ入隊の手続きはできないだろ。ジルバは反対する要素あるか?」
「そうだな……明日また正式に入隊の手続きを取ろう」
男2人が納得したように笑った。それにルーも子どものように笑う。そしてユリウスが「俺は人使いが荒いから覚悟しろよ」と言うとルーは溌剌とした笑顔で「挑むところです」と返した。
夜になり、慌ただしかった1日が終わる。慌ただしいのはいつものことだし、なれてしまっているけどやはり腹に命がもうひとつあると言うだけでこれほど疲れるのかと、深く椅子に腰かけた。
「大丈夫か? だから無理するなって言ってんだ」
「大丈夫だよ」
お茶を入れたユリウスが湯気立つコップをテーブルに置いた。こうして1日の終わりに温かいお茶を淹れてくれるようになった。思えば子どもの頃から過ごしていても生活を共にすると言う感覚はあまりなかったのでちょっとした気遣いをするユリウスは新鮮に感じる。
「ありがと」
立ったまま口を付けたユリウスを見つめる。心なしか空気が晴れたように思えた。
「良かったよ」
「ん?」
「気になってたんだろ、往診に行ってから」
隣に腰かけたユリウスにそう言うと息を吐き出した。
「一応患者だからな」
「良かったな」
「は?」
ユリウスが怪訝そうに首を傾げる。
「良かった、って顔してる。ユリウスが良かったなら私はもうそれでいいよ」
「なんだそれ、変な奴だなぁ」
朗に笑うユリウスに口づけた。なんだか小さい頃に戻ったような顔で愛しさに溢れる。
「なんだよ急に」
「別に、たまにはいいだろ」
やっぱり照れ臭くて突っぱねるがユリウスの腕が腰に回る。ユリウスは思いの外嫉妬深いしこうして愛情表現すると逃がしてくれないのは常なので素直に肩にもたれ掛かった。
「良かったよ。レンの言う通り行っておいて。行かなかったらこんな気持ちにはなれない」
「そいつは良かった。それで、似てたか?」
ユリウスが一番気にしていたことだ。
「さぁな。どうでも良くなったよ」
ユリウスが満面の笑みを浮かべる。また明日から変わらぬ毎日が始まる。春になればその毎日が慌ただしくなるだろう。きっと目の前の伴侶は子が産まれようと変わらない。相変わらず無愛想で口が悪くて喧嘩っ早い。だが、誰よりも弱者を想い、助けようとする優しい男だ。
おわり
FATHER ゆうき弥生 @yuki_yayoi10
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