文喰堂奇譚

河村 恵

第1話

その女は、ある店の前で立ち止まり、動かなくなった。


 大学帰りの遥がその光景に気づいたのは、駅前の薬局の角を曲がったときだった。店の入り口には白い皿に盛られた塩が三角に寄せられている。女はその前にじっと立っていた。時間にして、たぶん十秒かそこら。しかし、やけに長く感じた。


 女は何もせず、何も言わず、ただその白い塩を見下ろしていた。夜の光が、彼女の頬に細い影を落としている。小柄で華奢なシルエット。黒髪は風もないのに微かに揺れ、表情は見えなかった。


 遥は自然と歩調を緩めた。奇妙だなと思った。女はまるで何かにに怯えているように見えた。やがて女は踵を返し、ゆっくりと逆方向に歩き去っていった。


 そのときは、なんとなく気味が悪い、という程度だった。


 翌日、遥は夜のアルバイトに向かった。

「文喰堂(ふみくいどう)」──駅裏の坂を下った先にひっそりとある、知る人ぞ知る古本屋だ。夜間営業、看板なし、入店は会員制。偏屈な店主が一人で切り盛りしていたが、最近体調を崩したとかで、先輩の紹介で遥が雇われた。




 マニアックな書店なので、客はあまり多くない。遥は店にある詩集を何気なく読みながら客がくるのを待っていた。


 実はその夜から、遙はずっと違和感を感じていた。頭の片隅に靄がかかったような、はっきりしない感覚が続いていた。


 たとえば、つい先月の成人式に誰と会ったのか思い出せない。そういえば、その時、幼なじみの話が出た。仲が良かったよっちゃんや、さとくんの顔が思い出せない。急にアルバムを見返したくなったが、実家に電話するのをなぜか躊躇した。話したくない、というよりも──この状況をうまく話せない気がしたのだ。


 その違和感の正体を、まだ遥は知らなかった。

 

 店内には、いわゆる普通の古本のほかに、店主が「喰う本」と呼ぶ本が並んでいた。


 棚は埃をかぶっており、背表紙のない本も混ざっていた。タイトルはどれも曖昧で、「夢のかけら」や「記録されない手紙」など、内容が見当もつかないものばかりだ。


 ──“人の記憶を喰う本だよ”


 バイトを始めて1週間がたつと、店主は遥を奥の本棚に手招きした。冗談にしては目が真剣すぎた。


「似たような記憶を持っている者が読むと、その記憶だけ、すっぽり抜け落ちる。本は満足して“完成”する。読むとあたたかくなる本もあるが、喰われると痛む本もある。君はまだ、触るなよ」


そう言われると、余計気になるが、せっかく紹介してもらった時給のいいバイトをクビにされるわけにはいかなかった。


二週間後、遥はふたたびその女と出会った。


 今度は、店の裏路地だった。

 文喰堂のごみ出しを終えて裏口から出ると、女がいた。立ち止まり、じっと遥を見ていた。

 月の光に照らされて、肌が異様に白かった。まるで、白粉を厚く塗ったような──あるいは脱皮前の爬虫類のような、乾いた白さ。


「あなた、思い出した?」


 女はそう言った。


 遥は答えられなかった。言葉の意味が理解できなかったのではない。本当は何かを思い出しかけているのに、それを掴めないのだ。


「あなた、もう一度、読んだでしょ。忘れたかった記憶を、忘れたふりをして」


 遥の脳裏に、詩集のページがよぎった。

 あの日、何気なく手に取った本。「手をつなぐ兄妹の詩」。そのときから、弟の存在が薄くなった気がしていた。いや、そもそも自分に弟なんて──?


 女はもう遥の前にいなかった。


 それからしばらくして、町では失踪事件が立て続けに起きた。


 盛り塩をしていた商店が、相次いで塩を荒らされるという地方紙でも取り上げないような事件も起こっていた。「盛り塩の中に髪が入っていた」「塩が濡れていた」などの報告が商店街で多数あり、回覧板で回ってきた。


 町は不穏な空気に包まれていた。


 ちょうどその頃だった。文喰堂の鏡が割れたのは。


 店の隅にある古い姿見──割れたガラスの断片に映っていたのは、遥ではなかった。あの女だった。白い肌、黒い目、ぴたりと動かない唇。その唇が音を出さずにこう言った。


 「見たら、殺す。見なければ、忘れる」


 店主は言った。「脱皮の夜が近いな」そういって鏡に黒い布を被せた。


「彼女は何かの殻を捨てるとき、誰にも見られてはいけないんだ。見られれば、死ぬ。だから、人の記憶に隠れる。安全な記憶に」


「じゃあ……私の記憶の中に?」


「そう。お前の“誰か”の記憶の中に」


 遥は震えながら、かつて読んだ本のページをめくる。そこに記された兄妹の名前。──「遥と明斗(あきと)」。


 思い出した。あの詩は、自分と弟の話だった。事故で亡くなった弟を忘れたかった。だから、あの本を読んだ。女はその記憶に潜んで、そこで脱皮しようとしていた。


夜明け、店の中は静まり返っていた。


 遥は割れた鏡の前に立ち、黒い布を外した。もう女の姿はない。記憶も、取り戻せない。弟の顔も、声も、思い出せない。


 ただ、鏡の中に自分が映っていた。

 その顔に、見覚えがなかった。


 白く、つるりとした肌。黒目がちの瞳。

 ──まるで、脱皮直後のような顔だった。


 遥は口元をそっと指でなぞった。

 柔らかい皮膚の下で、何かが“動いた”気がした。


 「忘れることで、生き延びるの」

 女の声が、耳の奥でささやいた。


 そして鏡の中の「遥」は、わずかに微笑んだ。

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文喰堂奇譚 河村 恵 @megumi-kawamura

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