瘤の鳴き声
二ノ前はじめ@ninomaehajime
瘤の鳴き声
木の
樹齢を
少し季節を外れた蝉が鳴いている。最初はそう思った。
気のせいだろう。そう結論づけて、本を閉じた。
その公園を訪れるたびに、季節外れの蝉の鳴き声が足元を漂った。蝉そのものが樹木に止まっている姿はなく、やはりどう考えても瘤の中から聞こえた。秋が深まり、踏み潰されたオリーブの匂いが強まった。
白い
何かの本で読んだことがある。西洋の人間にとって蝉の『声』は雑音に過ぎない。優劣ではなく、脳のどの部分で処理するかの違いらしい。つまりは、規模は違えど同じことが起きているのだ。
冬に鳴く蝉の声を聞きながら、マフラーに顔を埋めて『山月記』を読んでいた。
作家になりたかった。
何がきっかけだったのかは覚えていない。ただ幻想小説や怪奇小説に
最初は一行や二行を書くのでさえ石を素手で削る思いだった。初めて短編小説らしきものを執筆したとき、にわかに興奮を覚えた。公募先を探して、どれも規定枚数に満たず、途方に暮れた。どうやら自分が書いた小説は原稿用紙にして十枚以下の
文章の勉強らしい勉強はしなかった。物語を思いつくたびに四百字詰めの原稿用紙にしたため、条件に合った公募先を探すという
執筆に行き
瘤の中の存在に興味がなかったと言えば嘘になる。刃物で切り開いてしまえば、中身がわかるかもしれない。ただ人目のある公園では奇行でしかなかったし、もしかすると自分の幻聴かもしれないのだ。
何より触れるべきではないと思ったのだ。オリーブの瘤の中にいるのがどうであれ、悪さをしているのではない。
本を開くたび、足元の
大学には行かず、家を出て整備工場で働き出した。目標はあくまで作家であり、当座の生活費を稼ぐための手段でしかなかった。頬を油で汚しながら、頭の中では次はどういう物語を書こうか、という考えで一杯だった。くたくたになった体を抱えながら、風呂で綺麗に洗い流して机と向き合った。
当然、公園から足が遠のいた。公募と落選を繰り返した。一次選考を通り、最終選考に残ることはあった。期待を抱きながら、自分の作品と名前が発表されないことに
いつか、いずれ。そう考えながら
若い事務員の娘だった。前から顔は知っていた。職場の飲み会を通じて距離が縮まり、普段の仕事でもよく話す仲となった。決して美人というわけではない。ただ彼女も読書が趣味らしく、馬が合った。毎年ノーベル文学賞を有望視される作家について語り合った。
作家志望であることは隠し通した。毎年大きな賞で壇上に立つ人たちの誇らしげな顔を、テレビの向こうで眩しく眺めた。いつか、いずれ。それが、いつまで、という言葉に変わった。
個人的な付き合いを深めて、その娘と結婚した。
決して楽な生活ではなかった。妻にも苦労をかけたと思う。それでも人並みの幸せだっただろう。子供が大きくなり、経済的に大きな負担になりながらも大学には行かせた。夢を追って苦労をした自分と同じ
我が子が独り立ちをし、人生に一区切りがついた気がした。長年整備工場に勤め、すっかり手には油の臭いが染みついていた。かつて筆を握っていたときの手のひらよりも、
まるで誰かから役目を終えたのだと告げられた気がした。
妻に付き添われて、リハビリを続けた。日常生活に支障がない程度には回復した。仕事を辞め、
読書に寄ったあの公園は健在だった。子供の安全性を
妻が心配そうな眼差しで公園の入り口に
きっと瘤の中で鳴いていた何かも、その寿命を終えたのだろう。何事にも終わりは来るものだ。この身もそう長くはないだろう。小説家を
秋風に揺られる葉擦れの音が耳朶に触れる。ついつい眠りそうになって、ふと赤子の声を聞いた。我が子を連れた母親がいるのだろうか。その泣き声を辿ると、オリーブの木の瘤に行き着いた。
いつの間にか根元の瘤が割れている。
弱々しく秋空を掴む赤子の手を見下ろし、口元が緩んだ。夢は叶えてくれなかったというのに、随分と神さまも
自分の人生はもう終わる。だけれど、お前はこれから始まるのだな。
瘤の中から飛び立とうとする赤子の
その生に
瘤の鳴き声 二ノ前はじめ@ninomaehajime @ninomaehajime
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