彼女は赤色が嫌いだった

深見萩緒

彼女は赤色が嫌いだった


 やけに派手な色の車だな、と思った。


 レンタカーといえば、シルバーや白など、無難な色が多いのだと思っていた。小石の敷き詰められた駐車場、黄色いロープが提供する申し訳程度の区切りの中で、真っ赤な車体はよく目立つ。

 個人オーナーの経営する格安レンタカーショップは、こんなものなのだろうか。赤や黄色みたいな派手な色の車は、嫌がる借り手もいそうなものだけれど。初めてレンタカーを借りる身としては、その辺りの事情はよく分からない。


 案内されるがままに、掘っ立て小屋のような店舗に足を踏み入れる。折り畳み式のパイプ椅子に座って、レンタルの契約書やら同意書やらにサインをする。

「はい。じゃあ、あと免許証見せてくださいね。確認しますんで」

 レンタカーショップのオーナーは、どこにでもいそうな、小太りの中年男だった。免許証を差し出すと、脂ぎった後頭部をぼりぼり音を立てて掻いてから、その手で受け取った。


 不快感が胃の辺りを撫でていく。嫌いだ。と思ってから、彼女の言っていたことをしみじみと実感する。確かに、好きなものよりも嫌いなものの方が、よく分かる。好きな車の色なんて分からないけれど、あの真っ赤な車にだけは乗りたくない、と思うように。



「赤が好きなの?」

 隣で寝ている彼女に尋ねると、彼女は呻くような声を出して寝返りを打った。なぜ唐突にそんなことを尋ねたのか、その時の僕はまだ自覚はしていなかったように思う。


「なに?」

 まどろみの淵から生還した彼女が、訊き返す。改めて同じ質問をすると、「ちがう、きらい」と彼女は答えた。

「でも、赤いものばっか買うじゃん」

 彼女の靴も服も、スマートフォンも化粧道具も、ことごとく赤色だ。今はつけていないけれど、口紅も真っ赤だし、ネイルもピアスも血のように赤い。

「好きは全然分かんないけど、嫌いは分かるから」

 厚ぼったい瞼が、ゆっくりとまばたきをする。

「嫌いなものに囲まれてた方が、私の輪郭がはっきりするから、安心する」

 理解し難い理屈だった。

「好きなものに囲まれてる方が、絶対良くない?」

 僕の反論に、彼女は眉ひとつ動かさない。

「好きは分かんな過ぎて、怖いから。嫌いなものの方が良い」

「嫌いなものを、常に身の回りに置いときたいってこと?」

「そう」

 その時は、理解も共感も出来なかった。今だったら理解出来るだなんて、そんな傲慢なことはとても言えないけれど。



 タイヤが小石を踏みつける、耳障りな音がした。窓の外を見ると、あの赤い車が駐車場から出ていくところだった。あれに自分が乗るはめにならなかったことに、安堵するべきなのかもしれない。けれど僕はなぜだかがっかりしながら、去って行く赤い車を見つめていた。赤。彼女が嫌いで、いつも身につけていた色。真っ赤。


「車種の指定はなし? じゃあ、アレね」

 オーナーが指差したのは、くたびれた白色の軽自動車だった。鍵をもらって、車に乗り込む。シートの隙間にお菓子のくずが落ちているし、足元のマットには泥がこびりついている。禁煙車のはずが、車内はどこか煙草臭い。本当に、嫌なもの、嫌いなものはよく分かる。アクセルを踏む。白い車が動き出す。



 彼女は大学でも浮いていた。誰に対してもあからさまに態度が悪かったし、それでせめて美人なら、周りの反応もまた違ったのかもしれないけれど、顔もそんなに綺麗じゃないし。お高くとまった、勘違いブス。口に出す出さないはともかくとして、彼女を知る皆が皆、彼女の真っ赤な全身を笑っていた。僕もそのうちの一人だった。


 彼女が大学に来なくなったとき、僕は「ホストに入れ込んで風俗で働いてる」説に一票を投じた。飲み仲間の内で開催されたゲスなアンケート結果では、彼女はDV彼氏に殴られてホストに入れ込んで風俗とパパ活で稼いでいることになっていたけれど、本当のところどうだったのかは分からない。


 何にせよ、居酒屋で再会した彼女は、そのゲスな勘ぐりを増長させてしまいそうなほど、目つきと顔色が悪かった。彼女はすぐには僕に気が付かなくて、大学で一緒だったと説明して初めて、ようやく僕を思い出したようだった。

 居酒屋の店名がプリントされたティーシャツの襟元から、痩せた鎖骨が覗いている。飢えた野良猫のような目つきに、土色の顔。「おまたせしました、軟骨の唐揚げです」と、テーブルに小皿を置いた彼女の指先に、剥がれかけの真っ赤なネイルが光っていて、それが僕の中の何かをくすぐった。



 それで、どうして彼女と付き合うことになったんだろう。今になって考えてもよく分からない。というか、果たして付き合っていたのかどうかすら、怪しい。男女の関係はあったけれど、例えば手を繋いで歩いたりだとか、一緒に映画を見たり音楽を聴いたり、そんなふうな行為は一切なかった。


 ただ一緒にいて、たまに一緒にご飯を食べて、体を重ねる。ほんの遊びのつもりだと、自分では思っていた。皆から変人扱いされて嗤われている女が、たまたま僕になついたから。ちょっと遊んでみよう。そんなつもりだった。



 ああ、そうか。彼女は、僕のことが嫌いだったのだ。

 ようやく腑に落ちて、アクセルを踏み込んだ。白い軽自動車はぐんと加速して、法定速度をほんの少しオーバーして、隣の車を追い越した。彼女は僕のことが嫌いだったから、僕をそばに置くことで、自分の輪郭をはっきりさせようとしていた。赤い色を身につけるように。


 前方の信号が赤に変わって、僕はやんわりとブレーキを踏んだ。車は停止線よりかなり前で動きを止めて、僕は白いラインまでゆるゆると車を前進させる。信号は赤。彼女の嫌いな赤い色。視界の中にもうひとつ、赤い色が見える。道の向こうに立つ建物に、赤い横看板が設置されている。

 白い文字でフラワーショップと書かれたその場所に、寄ってみることにした。彼女に、花のひとつでも買って行ってやろう。



 実際のところ、彼女が僕を嫌うなんて当たり前のことだった。彼女に関しては、とにかく僕はまるきり加害者だったんだから。

 大学の友達と散々彼女を小馬鹿にして、彼女のいないところで彼女をオモチャにして楽しんだ。それでいて彼女のことが気になって、あの剥がれかけの赤いネイルが気になって、表面ばかりの優しさで彼女を繋ぎとめた。


 彼女だって馬鹿じゃない。そのことに気が付いていて、それで僕のことを嫌っていたって、当然のことのはずだ。それなのに、どうして僕は傷付いているのか。こんなことで身勝手に傷付くような男だから、僕は彼女に嫌われたのか。


 彼女が何を考えているのか、分かったことなんて一度もなかった。どうしていつも、誰に対してもそっけないのか。どうしていつも、人類全員が敵であるかのように緊張し警戒しているのか。どうして大学を辞めたのか。どうして死にたいなんて言うのか。死にたいなんて言うくせに、どうして、死のうとしないのか。


 そうして思えば、彼女が彼女の行動原理を教えてくれたあの朝は、僕が本当に彼女に触れられた、たった一度きりの機会だったのかもしれない。

 堅くて冷たくて、そしてきっと赤い色をしている殻に覆われた、彼女の最もやわらかな部分。触れたことにすら気付けずにキスをしているうちに、ほんの少しだけ開いた殻は再び閉ざされて、本当の彼女を覆い隠してしまった。



 フラワーショップの店内は、青くさい植物の香りに満ちていて、僕にはとても快適とは言い難い場所だった。動物にしろ植物にしろ、生きているものの臭いは総じて苦手だ。

「いらっしゃいませー」

 女性店員がにこやかに僕を迎える。僕は軽く会釈をして、ずらりと並ぶ生花を眺める。こうして見ると、真っ赤な花は案外少ないことに気が付く。


「あの、すみません。赤い花束が欲しいんですけど」

「赤をメインにした花束だと、あそこの棚にサンプルがありますが、ああいったものでよろしいでしょうか?」

 女性店員が指し示した棚に、イミテーションフラワーの花束が置いてある。赤くはあるが、赤を基調にピンクや白の花が多分に混ざっている。真っ赤ではない。

「赤い花だけで、花束って作れませんか」

「薔薇の花束ですか? それでしたら……」

「いえ、薔薇だけじゃなくて、他の花が入っていても全然良くて。でも、全部真っ赤が良いんです」

 店員が不可解そうな顔をするのも、無理はなかった。赤色は華やかではあるけれど、どこか人をぎょっとさせる色でもある。プロポーズの薔薇の花束というのならばまだしも、普通の花束で、真っ赤な花だけを選ぶだなんて、センスを疑われかねない。


 でも、きっと彼女にはその方が良い。


 さすがはプロというべきか、店員は戸惑いながらも店中の赤い花を集めて、花束を作ってくれた。薔薇とカーネーションまでは僕にも分かったけれど、あとの花は良く分からない。ポケットに入っていたくしゃくしゃの五千円札を渡して、かき集められた、五千円分の真っ赤な花。真っ赤なラッピングを施されて、僕の手に渡る。真っ赤なリボンが揺れている。


「ありがとうございましたー。またどうぞー」

 手を振る店員は、どこか達成感に満ちた顔をしている。真っ赤な花束だなんて、最初は奇妙に思ったはずなのに、作っているうちに「これはこれで、良いじゃないか」と思い始めた。そんな表情。


「そんなもんだよな、案外」

 ぼそりと呟いて、レンタカーに乗り込む。変だ、奇妙だと思っていても、付き合っていれば案外、良さが分かってくるものなのだ。


 彼女だって、皆が言うほどブスじゃなかった。あの態度の悪さは、お高くとまっていると取られても仕方がないけど。そりゃ、めちゃくちゃ美人とはいえないけど。真っ赤な口紅もネイルも服も何もかも、彼女に似合っているとはとても言い難かったけれど。

 でも、言うほどブスじゃないし。話すと、結構面白いやつだし。過去に耳にした、口にした彼女の悪口を、今さら言い訳のように否定する。そうだ、真っ赤な花束と同じだ。最初はぎょっとして、嗤ったり否定したくもなるけど、でも、結構かわいい。


 かわいいんだ、案外。



 彼女が赤い色を身につけなくなったのは、いつごろからだったろう。覚えていない……と言いたいところだけれど、本当はしっかり覚えている。去年の今ごろ。つぼんだ桜の花がぽつぽつと開き始めたころ。僕が彼女の真っ赤に慣れて、彼女をあんまりブスだと思わないようになったころ。


 クリスマスにプレゼントした真っ赤なコートが、やけに彼女に似合って見えた。それを彼女に伝えてから、それからだったように思う。彼女は次第に、赤い色を身につけなくなった。口紅もネイルも控えめな淡い色になった。それはそれで、彼女に似合っていると思ったから、それも伝えた。

 味気ない逢瀬だけでなくて、どこかに出掛けようと誘ってみた。どこに行きたいかと尋ねても、彼女は首を横に振るばかりだった。


「好きなものとか、分からないから」

 そうだった。彼女は、嫌いなものしか分からない。

「じゃあ、嫌いじゃないところに行こう。免許取ったから、レンタカーでも借りてさ」

 彼女は返事をしなかった。それからまもなく、彼女は僕のアパートにも来なくなった。連絡も途絶えた。



 結局、何が駄目だったのだろう。始めから、望みなんてなかったんだろうか。僕は彼女を見下して笑いものにしていたし、彼女はそれを許さなかった。そういうことなんだろうか。


 ハンドルを切って、国道から細い県道へと入る。道は狭くなり、カーブが多い山道に続いていく。

 春先の山は、まだどこか寂しげでよそよそしい。ようやく芽吹いた若葉も、まだ枯れ枝の勢いに押されて、どこか居心地が悪そうに控えめに葉を広げている。右に左に、何度もカーブを曲がるたびに、助手席の花束は座席の上をずりずり這いまわって、やがてシートの足元に落ちてしまった。僕はそれを拾おうともせずに、ひたすらに車を進める。


 やがて目的地が見えてきた。左手の奥に、深い青緑色の水面が光っている。春の日差しの中で、まるで山を溶かしてくぼみに流し込んだみたいに、ダム湖はのっぺりと横たわっていた。適当なところに車を停めて、花束を手に歩き出す。

 きらきらまたたく水面を臨みながら、ダムの天端を歩く。結局、何が駄目だったのか。彼女はどうしていってしまったのか。


 手すりに肘をついて、ダム湖を覗き込んでみる。地の底まで続いていそうな、深い青緑色。花束から、真っ赤な花びらがひとひら落ちて、水面に浮いた。

 彼女も、こんなふうに浮いていたらしい。真っ赤なコートを着ていたから、青緑色の中にその色がよく目立ったから、すぐに発見されたそうだ。


 赤い花びらが波間に揺れている。それは彼女の唇で、爪で、背中だった。あるいは彼女のスマートフォンだったし、彼女の靴だった。ゆらゆら揺れて、もう僕の元へは戻らない。

 真っ赤な花束をふりかぶって、思いっきり水面に投げつけた。叩き付けるくらいの気持ちだったのに、花束は風の抵抗を受けて、結局ふんわりと水面に着地する。真っ赤な色が、彼女の嫌いだった真っ赤な色が揺れている。


 ――好きは全然分かんないけど、嫌いは分かるから。

 ――嫌いなものに囲まれてた方が、私の輪郭がはっきりするから、安心する。


 彼女の声が蘇る。赤い色が嫌いだから、いつも真っ赤な色を身につけて、自分の輪郭を保とうとしていた、彼女。

 理解出来なかった。結局、最期まで理解出来なかった。どうしていつも、誰に対してもそっけなかったのか。どうしていつも、人類全員が敵であるかのように緊張し警戒していたのか。どうして大学を辞めたのか。どうして死にたいなんて言っていたのか。死にたいなんて言うくせに、どうして、死のうとしなかったのか。


 どうして、真っ赤な色を身につけるのを、やめたのか。

 どうして、僕の前から消えたのか。

 どうして今さら、本当に死んでしまったのか。


「……もしかして、もう、そんなに嫌いじゃなかった?」

 真っ赤な花束が、水面に揺れている。もう半分くらいを水の下に沈めながらも、まだ、赤い。手すりから身を乗り出すようにして、その赤をじっと見つめる。

「もしかして、この世界も悪くないなって、思い始めてた?」


 赤は何も答えない。彼女もきっと、何も答えなかっただろう。問いかける機会があったとしても、問いかけていたとしても、彼女は答えなかった。真っ赤な口紅を塗るのをやめた、色の悪いあの唇を少しゆがめて、不機嫌そうに笑うだけだっただろう。

「もしかして……僕のことも、」


 ――好きは分かんな過ぎて、怖いから。


 そうか、怖くなったのか。赤い色も、この世界のことも、僕のことも。

 彼女は何もかもを嫌っていて、何もかも嫌いだからこそ、ようやく輪郭を保てていたのか。あの細い鎖骨。すさんだ瞳も、かさついた唇も、とげとげしい魂も。全てを嫌って反発していたからこそ、存在出来ていたのか。


「そっかあ……」

 溜め息まじりの僕の声が一押しになったかのように、真っ赤な花束は音もなく沈んでいった。水面に取り残された花びらだけが、まだダム湖に呑まれることもなく、波と同じ速度で揺れている。


 僕のポケットには、レンタカーの鍵があった。それがなければ、僕もきっと、あの花びらたちの仲間になっていたことだろう。

 脂ぎっていて不愉快な、あのレンタカーショップのオーナーに、車のキーを返さなければならない。小汚くて煙草臭い、白い軽自動車を返さなければならない。それだけが今の僕にとって、最も確かな現実だった。


 花びらはまだ揺れている。いくつもの小さな彼女のように、背を上にして、いつまでも揺れている。




<おわり>

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