第1.3話

 声の主は、高月たかつき那帆なほ

 鼓膜を通り抜け、直接、記憶の中枢を直撃する。


 以前どこかで耳にした、といった曖昧な感覚ではない。テレビから茶の間へと浸透していた、馴染み深い声だ。


 確かめる意思をもって顔を上げる。車内に広がる柔らかな光の中で、先ほど広告で目にした女性が微笑んでいた。テレビの向こうという物理的な接触を拒むはずの場所にいる人物が、今は至近距離で呼吸している。


 思考は一瞬、真空状態へと陥った。脳は全速力で旋回を開始し、目前に横たわる異常事態を咀嚼しようと、頭の中が遮二無二に蠢き出す。情報番組のキャスターが、なぜ漆黒の雨天の中で立ち尽くす私を呼び止めているのか。


 偶然か。何かの撮影か。あるいは、極度の疲労が見せている幻覚か。あらゆる可能性を瞬時に検証するが、いずれのシナリオも現実味を帯びない。


 両足はアスファルトへ強固に鋲で打ち込まれ、一歩も動けない。雨は軒端を伝い、激しい水音とともに絶え間なく弾け飛ぶ。物理的な壁一つを隔てた車内が、到底手の届かない異界と映る。


 ここで背を向けるのは簡単だ。深く考えなくても、いつもの私に戻ればいい――。


 他に目撃者はいないため、知らぬ顔で振る舞うこともできる。けれど、それが最善の選択だと断言できるのか。


「……いいのでしょうか。……この雨ですので、もし差し支えなければ」


 控えめな申し出を口にし、返答を待つ。頭上のコンクリートが激しい雨音を鈍く弾き返し、二人の間には、降り頻る水の幕を隔てた奇妙な沈黙が流れている。


「ええ、構いません。こちらが呼び止めてしまったのですから。……どうぞ、鍵は開いています」


 小さく頭を下げ、ドアを押し開ける。意を決して密閉された空間へ一歩踏み出し、カチャリと音を立てて引き閉めた。車内に揺らめく影をなげかけ、隣で刻まれる彼女の呼吸の気配が、肌を刺す密度で迫ってくる。


「こんな雨の中、声をかけてくれて……本当に、ありがとうございます」


「大丈夫ですよ。この車、見た目は古いですけど、実は現代仕様です。安心してください、いきなり巡視員に止められたりはしません」頬に柔らかな曲線が刻まれ、予想が軽々と裏返される。


 頷くべきか、曖昧に微笑むべきか。答えるべき言葉は、もはや脳内のどこにも存在しなかった。結局、口元に引きつり、無言が滲む。


「驚かせてしまいましたよね。高月那帆といいます」


「……紫倉しくら凛羽りんはです」


 仕事でもないのに重たい喉をこじ開けて名乗ったものの、自覚している以上に硬く、どうにも座りが悪い。


「凛羽さん。素敵ですね」

 ゆるりと表情を綻ばせ、目尻に細い皺が生じる。

「そういえば、どの辺に住んでるんですか?だいたいでいいので教えてくれます?」


「……数駅先のところです」


「了解です。……あ、それならちょうど良かった。私、自宅があっちの方なんです。ほとんど通り道ですし、送っていきますね」


 明るく頷き、それ以上は何も尋ねなかった。



 タイヤがしっとりした路面を噛み、車は穏やかに進む。

 フロントガラスを侵食する雨粒は、規則正しく往復するワイパーに払いのけられ、激流を左右へ追いやられる。


「凛羽さんは車、好きですか?」


「免許は持っていますが、ほとんど運転はしませんから」


 好きか、嫌いか。自分でもよくわからない。車はただの移動手段で、最後にハンドルを握ったのは数年前のことだ。


「ペーパードライバーのことですか? わかります、私も最初はそうでした」

 くすくすと笑って、

「免許を取ったばかりの頃は、怖くて仕方なかったです。車線変更ひとつで心臓が飛び出しそうで……でもある日、夜の空いた道路を走ってみたら、世界が自分のものになった気がしました」


「……はあ……そうですか。ちょっと想像がつかなくて」


 前方の紅い光に合わせ、彼女の肘を軽く緩め、車をたおやかに停止させる。


「走らせるのが楽しくて、ついそういうこともありました」


 ハンドルを握る指先が、軽快なリズムを刻む。楽しげな時間なんて、入社以来、ほとんど失われていた。


「お仕事、終わったばかりですか? こんな時間までされていたんですか……」


「まあ……」
 


「……朝も早いんですか?」



「……ええ、そうですね」


 濁した言葉を彼女は拾い上げ、深追いせず脇へ置いた。代わりに別の質問を投げかける。


「じゃあ、帰り道にちょっと寄り道したくなる場所って、ありますか?」


「寄り道は、しません……」
 


 理由は言葉にうまくできない。時間の無駄だと教え込まれ、うっかり日々が、自宅と会社を往復する一本の線になっていた。


「そっか。今度、どこか素敵なカフェを見つけたら、私から寄り道に誘いますね」わだかまりを解く眼差しを私に向け、「じゃあ、行きましょうか」とにっこりする。


 光が青に切り替わるタイミングで、彼女は無造作にコンソールに手を伸ばし、室内に安寧な旋律が広がっていく。


 車が走り出すと、清澄な無言が訪れる。彼女は、何も言わず、何も指摘せず、視線を前方へ真っ直ぐに保つ。しばらく激しかった雨は、しとしとと降る小雨へと変わった。


 路面に溢れた街灯の光が、川のように輝く。見慣れた街並みは、日常の輪郭を失い、まるで見知らぬ異郷の夜景に変貌していた。


 不思議な空間の傍らに佇むと、頭を占めていた締め切りは希薄へと退き、焦りも疲れもなく、ひとひらも乱れぬ感覚が白く塗り替わっていく。明日のタスクや保留の案件、上司の指示もフロントガラスの外へと消え、色彩を失っている。


 鈍く光るアスファルトを蹴散らし、速度計の針が跳ね上がり、澱みなく突き進む。この車に乗って、久しぶりに、素の『私』として息がそよぐ。


 夜が名残惜しく続くのなら、それも悪くないかもしれない。

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ちゃんとした人生を蹴り飛ばしたら、やっとエンジンがかかる ナナ氏の @nanashi_noo

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