21
ゆりにめちゃくちゃデカい声で起きろって言われた。
気持ちよく寝てたのに、なんでこんな早い時間に起こされやんなあかんねん? 俺、もっとゆっくり眠ってたいのに。でもゆりの顔が真剣で、めちゃくちゃ焦ってるように見えた。
「どうしたん?」
俺は目をこすりながらゆりを見上げた。
ゆりは寝ぐせのついたままの髪の毛で、真剣な顔をして俺を見下ろしてる。赤い前髪を耳に掛けて、俺の事を見下ろしてた。パジャマを着たままで、思ってたよりある胸がすけてる。俺の好みやないし、全然エロくないけど。
「なんかあったみたい。早よ起きて」
ゆりはそう俺に言うと立ち上がった。
眠い目をこすりながら、俺は起き上がるとゆりと一緒に部屋を出た。
まだ薬が効いてるみたい。くらくらする。コーヒーが欲しい。眠すぎる。
二人で廊下に出ると、大騒ぎになってた。
目の前をハッカーのおっちゃんが走って行って、どっかから支部長の怒鳴り声が聞こえてくる。それを止めようとしてるヴィヴィアンの声も聞こえる。他にもいろんな人が騒いでるのが分かった。
何事かと思って様子を見てたら、姉ちゃんが部屋から出てきた。俺を見つけるなり、焦った様子で腕を引っ張ってくる。杖はついてなかったけど、足を引きずったままや。やっぱり痛いんやんか。
「ルノ、来い」
「どうしたん」
姉ちゃんに聞いたけど、返事はなかった。ゆりが後ろをついてくる。
よく見たら姉ちゃんはいつでも任務に行けますって感じのカッコしてて、腰にはホルスターをつるしてた。上にコートを着るとしても、そんなところにホルスターをしてたらバレバレちゃうんか? でも歩きやすそうな茶色のブーツを履いてる。マジで今からどっかに行くんかもしれん。ケガしてるくせに、姉ちゃんは一体どこに任務に行くっていうねん。なんかおかしい。
黙って姉ちゃんについて行くと、食堂で支部長が怒鳴り散らしてた。
見た事ないような顔をしてて、ヴィヴィアンに止められてんのに、全然止まる様子はない。ダサいジャージ姿で髪の毛には寝ぐせがついたまま。なんならほっぺたによだれの跡まである。めちゃくちゃ真面目な顔をしてるけど、ちょっと笑いたくなるような顔をしてた。笑わんかったけど。どうやら起きてすぐにキレたらしい。
よく見たら怒鳴られてるのはジェーンとイーサンやった。
なんかしでかしたって感じではない。二人とも困った顔をしてる。話をしたいみたいやったけど、支部長が全然黙らんから口出し出来ずにいるらしい。よぅ見たらジェーンは頭から血を流してた。
姉ちゃんは真っ直ぐ支部長のところまで行くと、そのままちょっと様子を見てた。
ヴィヴィアンが支部長の腕を引っ張る。
「ああ、来たか」
支部長は真面目な顔をして姉ちゃんを見た。
俺は姉ちゃんの横で、必死になって笑わんようにしてた。だって支部長、凄い顔してるんやもん。頼むから顔を洗ってくれ。めちゃくちゃ怒ってるみたいやから言われへんけど。
「ジジは今すぐルノを連れて追ってくれ」
「何があったん?」
どうやらマジで任務に行けって言うてるらしい。俺、マジで寝起きなんやけど。
姉ちゃんは真剣な顔をしてて、はいって返事する。それからパソコンを抱えてやってきた、おっさんに一緒に行けって言うた。おっさんも姉ちゃんも事情は知ってるらしい。二人は了解って返事して、俺を連れて食堂を出ようとする。
「俺、なんも分かってないんやけど。どこ行くん?」
周りの全員に俺は尋ねた。
すると支部長はヴィヴィアンに一緒に行けって指示をした。ヴィヴィアンはちょっと困った顔をしてて、それ以上怒鳴ったらあかんでって言うてからついてきた。ヴィヴィアンは一番前を歩いて、廊下を突っ切っていく。姉ちゃんに引きずられながら、俺は歩いた。 ゆりはモヤシのおっさんに引き留められて、そのまま食堂に残った。
なんか殺気立ったヴィヴィアンが俺を見る。
「今起きたところ?」
「そう」
ヴィヴィアンは困った顔をした。
「まあええわ。車で説明するから来て」
そのまま全員でエレベーターに乗り込むと、ヴィヴィアンは一階の物置に直進した。入った事なかったけど、ここには弾薬なんかもあったらしい。箱を開けると銃がいっぱい詰まってた。姉ちゃんはそこから適当な拳銃を掴むとホルスターにしまった。急いだ様子でその辺にあったカバンに弾丸を詰めて、俺を見る。
「早よしぃや」
そんなん言われても、俺はどういう仕事に行くのかも分かってへんねんで? どんな武器を選べって言われてるんか分からんかった。でも姉ちゃんがイライラしてるみたいやから、とりあえず姉ちゃんと同じのを持った。ヴィヴィアンはどう考えても人を殺しますって感じのデカいのを選ぶと、それを肩から下げた。腰にも大きい口径の銃を持つ。
ヴィヴィアンがこっちを見た。
「早よして」
とりあえず使った事のある大きい銃を持つと、俺は黙って立ち上がった。
ちょっと痛そうな顔をしてる姉ちゃんに手を貸して立たせると、俺は準備で出来たってヴィヴィアンに言うた。ヴィヴィアンはよしと返事すると、黙って物置を出た。つらそうな顔をした姉ちゃんの事を支えると、俺は弾丸だらけのカバンを姉ちゃんの代わりに持って、ヴィヴィアンとモヤシを追いかけた。
そのまま支部の裏側に出ると、ヴィヴィアンは止まってた軽自動車に向かって行った。姉ちゃんと俺に先に乗ってろって言うと、鍵を取りに行く。
姉ちゃんが運転するみたいやったから、俺はカバンをその辺に一旦下すと、姉ちゃんを連れて運転席の方に回った。やっぱり動くのはしんどそうな姉ちゃんを座席に座らせると、俺はカバンの方に戻る。戻ってきたヴィヴィアンに言われて、俺は後ろの席に座った。モヤシは助手席に座る。
車はすぐに動き出した。
俺はカバンを床に置くと、隣りで怖い顔をしてるヴィヴィアンを見た。
「何があったん? どこに行くん?」
ヴィヴィアンは思い出したような顔をすると、そうやったって言いながら俺を見た。
「ミランダがダンテを連れて逃げた。助けに行くからついてきて」
なるほど。それで支部長がキレてたんかって納得した。
でもどうやって? ミランダはあの部屋に拘束されてたのに。外から誰かが入ってきたとは思えへん。めちゃくちゃ窮屈そうな感じに拘束されてて、ミランダが自分一人で逃げられるとは思えへんかった。
それにダンテをどうやって捕まえたっていうん? 支部の中に入ってきた訳じゃないやろし、ダンテが一人であの部屋に行ったって事?
でもなんで? あいつ、こんな朝の早くに何の用事があったっていうん?
「今どこにいてるん?」
「分からん。弁天町の方に向かってる」
モヤシが言うた。
それってどこやねんと思いながら、俺は外を見た。見た事ない風景しか見えへん。
しばらくすると、モヤシが困った顔をした。
「ダンテのiPhoneが捨てられたみたい。とりあえずそこに向かって下さい」
姉ちゃんは黙って頷くと、言われた通りにハンドルを切った。
しばらくすると車が止まった。ヴィヴィアンが車を降りて、道路の隅っこまで行く。いくつか物を拾うと戻って来た。泣きそうな顔をしたヴィヴィアンは、大切そうに腕時計を抱いてる。黒いシンプルなデザインの時計や。ダンテがいっつもつけてたやつやと思う。
「おかしいな。ダンテの体内のGPSが切れた」
そんなアホな話があるか? だって体ん中にあるんやろ。そんなもん、どうやって壊すっていうねん? そもそもどこに埋まってるんよ、それ。
「壊せる筈ないやろ?」
泣きそうな声でヴィヴィアンが言うた。
「そうなんですけど、でも信号が途絶えました」
モヤシがそう返事する。
それを聞いて、ヴィヴィアンが急に泣き出した。
俺、ヴィヴィアンが泣いてるところなんか初めて見た。ブチ切れて怒ってるところやったら何回も見た事あるけど、泣くところなんか見た事なかった。っていうか、ヴィヴィアンも泣くんやな、とかめちゃくちゃ失礼な事を考えてた。でも目の前で、大事そうに腕時計を抱いてボロボロ泣いてる。ダンテの名前を呼んで、つらそうな顔をする。
どうしたらええんか分からんかったけど、とりあえずヴィヴィアンの背中をさすった。
姉ちゃんもモヤシも困った顔してヴィヴィアンを見てる。
指示がないとどうする事も出来ひんから、みんな戸惑ってたんやと思う。本来、指示を出してくれる筈のヴィヴィアンが泣いてるんやもん。
でも俺がヴィヴィアンやったとしても、同じように泣いたと思う。だって見つけようがないんやもん。
「どうしよう」
ヴィヴィアンはそう呟く。
でも姉ちゃんは急にモヤシに向かって真面目な顔をした。
「どこに向かってたか、なんとなくでも予想出来ひん?」
「さあ、どこに向かったんかが分からん事には」
「でも奴らの本拠地がどこかの見当はつくやろ?」
姉ちゃんに言われてちょっと考えた。
でもミランダの組織って暴力団なんやろ? 俺、日本のそういうところには詳しくないから分からへんで。仮に暴力団やったとしても、デカデカと看板を出してるとも思えん。
でもモヤシは真面目な顔をした。
「ミランダの組織って、人身売買をしてるんですよね?」
「そうやけど」
姉ちゃんに向かってモヤシは笑った。
「なら人間を輸送する筈。キティはどうやって輸送してたか知りませんか?」
「分からへん。でも船がどうとかって聞いた事があるけど」
モヤシは真面目な顔をするとパソコンの画面を覗き込んだ。
「じゃあ南港の可能性が高いと思います」
隣りでヴィヴィアンが顔を上げた。
「そこに向かって」
ヴィヴィアンの指示を聞いて、姉ちゃんはアクセルを踏んだ。
もう何時間も探したけど、ダンテどころかそれっぽい人も見つからん。
俺は困ったなと思いながら、必死で走っていくヴィヴィアンを眺めた。モヤシはパソコンをカタカタ、姉ちゃんは車でずっと待機してる。でもこれ以上探すべき場所が思いつかへんねん。モヤシのパソコンから、超不機嫌な支部長の声が聞こえてくる。手掛かりすらないからやと思う。
支部長によると、ダンテは五時にミランダのところに行ったらしい。その時、ダンテが殴り飛ばされてるのが映ってたらしい。ミランダが座ってた椅子が壊れてたから、それで逃げられたんやろって言うてた。そのまま引きずられて連れていかれたらしい。
朝やっていうのに走って行った支部の車に、ジェーンが気付いたらしい。でも向こうは凄い人数で撃ってきたから、逃げられたんやって。向こうは完璧な装備やったから、流石に無理やったって言うてた。支部長がキレてたのは、それに何にもせんと逃がしたからなんやって、姉ちゃんから聞いた。発信機くらい仕掛けとけって怒鳴られてたらしい。
モヤシのおっちゃんの意見に賛同したからって、他の工作員にもこの港を探せって指示を出したらしい。さっきジェーンとイーサンが来たのを見た。
流石に疲れたから、俺は水を取りに姉ちゃんのところに戻った。
応援の車が近くに止まってて、そこには飲み物とかもあるらしい。食堂のおばちゃんが作ってくれたっていう弁当もあるって。そういや朝から何にも食ってない。ダンテの事で頭がいっぱいで、薬の事まで忘れてた。
姉ちゃんはおにぎり食いながら、運転席に座ってた。
俺が行くと、見つかったかって聞いてきた。全然って答えて、俺は助手席に座った。
「ダンテの事やからケガはしてないと思うけど、どこにいてるんやろ」
独り言のつもりやったけど、姉ちゃんは優しい顔で肩を叩いてきた。
「確かにダンテくんやったらケガさせられる事はないやろな」
「このまま見つからんかったらどうしたらええん?」
「大丈夫や。見つかるよ」
気休めかもしれんけど、姉ちゃんの言葉に頷いた。
その時、俺の携帯がピロピロ鳴った。こんな時に誰やろと思いながら、ぱかっと開くと見た事のないアドレスやった。本文にはダンテの言うてたドゥシャン・ポポヴって合言葉が書いてあった。これ、ダンテやないん?
「姉ちゃん、ダンテかもしれん」
本文には船にいるって書いてあった。
船ってどうやって探すねん? そんなもん、見つけられる訳ないやんか。
でもすぐに同じメールアドレスからメールが来た。変な番号が書いてあるけど、なんやろこれ。
「それ、座標やんか」
姉ちゃんが俺の背中を力いっぱい叩いた。
めちゃくちゃ痛いけど、怒るより先に姉ちゃんの顔を見た。嬉しかったから。
「早くヴィヴィアンのとこ行き。知らせたって」
俺は分かったって返事すると携帯を広げたまま走った。
モヤシのおっちゃんのところに行くと、ヴィヴィアンが同じように携帯電話を覗き込んでるのが分かった。パソコンのところまで飛んで行って叫ぶ。
「ダンテや。この位置どこ?」
「これ、海のど真ん中だぞ」
「でもダンテで間違いなさそう」
パソコンから支部長の声も聞こえてきた。めちゃくちゃ嬉しそうな声や。
モヤシのおっちゃんの後ろから画面を覗き込むと、隅っこに支部長が映ってた。嬉しそうに笑って、いかにも古そうな携帯電話を見つめてる。どうやら俺と同じ内容のメールが支部長にも届いてるらしい。
ヴィヴィアンは凄い勢いで返事を書いた。それをすぐさま送信する。返事はすぐに来て、ヴィヴィアンがそれを読み上げた。
「誰もいてへん。ときどきミランダが来るって」
うれし泣きしそうなヴィヴィアンは、よかったって言いながら携帯を見つめる。
「ミランダに話を聞きに行ったら殴られた。どっかの港でコンテナに閉じ込められて、しばらくしたらケイティが来た。それから船に乗せられて、今、海の上」
支部長がすぐにヘリを手配しろって、誰かに指示した。バタバタ音が聞こえるけど、ヴィヴィアンはそんなん無視してどんどんメールを送る。
「スタンガン使われたけど、今はもう大丈夫。ケガしてない。でもこのままどこかで別の船と合流するって聞いてる」
ヴィヴィアンがそれを読み上げたらすぐ、次のメールが来た。
「途中でランボルギーニを見た。それにミランダが捕まったのはわざとや」
ヴィヴィアンはそれに対して返事を書いた。
「すぐに行く。絶対助ける。だから自分の安全を優先するんやで」
でもそのメールを送ってから、待っても返事は来んかった。なんでかなって思ったけど、ヴィヴィアンはまた泣き出しそうな顔をしてた。大切そうに腕時計を握ったまま、ちょっとつらそうに携帯電話を握ってる。
「ヴィヴィアン、その近くにうちの倉庫がある。迎えに行くからそこに来い」
「分かった。そうそう、誰かにルノの靴を持たせてくれる? こいつサンダルや」
支部長はちょっとびっくりした顔で、溜息をついた。
「おい、少しは考えろ」
「だって寝起きやってんもん」
申し訳ないとは思うよ。だってパジャマにしてるシャツとズボンに、支部の中で使ってるもこもこのサンダルやで? でも寝起きのぼうっとしてる俺に説明もせぇへんと連れ出したんヴィヴィアンやんか。姉ちゃんも文句言えるような顔してなかったもん。しゃーないやん。
ヴィヴィアンは倉庫の場所を確認すると、戻るでって言うた。モヤシも一緒に走ってきた。
姉ちゃんに場所を伝えると、ヴィヴィアンは助手席に座った。俺はまた後ろの席に座る。
姉ちゃんはなんとなく聞いただけやのに、すぐにアクセルを踏んだ。めちゃくちゃ飛ばしてたからちょっと怖い。姉ちゃんの運転、マジで大丈夫なんか? 心配でしかないんやけど。
海沿いの道を真っ直ぐ走って、しばらくしたら倉庫についた。ヴィヴィアンが真っ先に降りて行って、辺りを見回す。すぐに別の車がやってきて、そこから相変わらずジャージの支部長が降りてきた。流石に顔は洗ったみたいやけど、凄いカッコしてんなとしか思えん。でもヴィヴィアンはそれをごくごく当たり前の顔して見てた。めちゃくちゃ真顔で支部長に向かって、どうすんのって尋ねる。
「じきヘリが来るからちょっと待て」
そう言うてる間に頭の上にヘリが来た。梯子を下ろしてきて、上から誰かが呼んでるみたいや。
支部長は思い出したような顔をして、俺に靴を履いてこいって言うと、真っ先にそこを上がっていった。
「ジジはそこで待機、ルノは早く来い」
それだけ言うと、どんどん上に登っていった。
俺は言われた通り支部長の乗ってきた車に向かうと、見慣れた自分のスニーカーに足を突っ込んだ。
「気ぃつけろ」
姉ちゃんは俺にそう言うと、カバンを渡してきた。
それを受け取って肩に掛けると、俺は急いで梯子の方に戻った。
ヴィヴィアンが上がって行くのを眺めてたモヤシが、俺に先どうぞって言う。
これ、大丈夫なんかなって思いながらも、俺はそこを上がった。流石にこの状態で下を見る勇気はなかったから、俺は真っ直ぐ上だけ見て登って行った。揺れてて超怖い。
ヘリにつくと、ヴィヴィアンが俺からカバンをひったくっていって、俺は支部長に引きずりあげられた。凄い力してんなと思いながら、ヘリに乗り込む。
よく見たら食堂のおばちゃんが完全武装して座ってる。おばちゃん、まさか元工作員なんか? ヴィヴィアンは物凄い勢いで銃を抜くと、弾数を確認して戻した。支部長も腰に下げた銃を確認し始める。
おばちゃんに座れって手招きされたから、俺は椅子に腰を下ろした。
後ろからモヤシのおっちゃんが来る。バッグパックを背負ってて、椅子に座るとすぐにさっきのラップトップを取り出した。みんな殺気立っててちょっと怖い。知ってる人らの筈やのに。
ヘリはそのまま動き出した。
姉ちゃんがどんどん小さくなっていって、そのうち陸地は見えへんようになった。
支部長がこっちに来て、俺を見る。
「ルノは降下の手順を知ってるか?」
「こうかって?」
何を言うてんかなと思いながら、俺は支部長を見上げた。ヴィヴィアンが寄ってきて、ベルトみたいな黒いやつを俺に押し付ける。それから強い目をしてこっちを見た。
「降り方、知ってるか?」
「ドアから出るんやないの?」
俺が呆然としてると、支部長は困った顔をした。
「もういい。お前は縄梯子を使え」
めちゃくちゃイライラしてるみたいで、ヴィヴィアンと同じベルトを腰に巻き付けると、何かの準備を始めた。ロープみたいなんを腰のベルトに通してる。ヴィヴィアンも同じようにロープを通すと、俺の隣りに座った。耳元で言う。
「おばちゃんから絶対に離れたらあかんで。それと、敵を確認したら迷うな」
その声でヤバイやつやって気付いた。だって、いつもと違う低い声をしてたから。脅されてんちゃうかって思うくらい、冷たくて恐ろしい声をしてた。
とんでもないところに来てもた気がする。でもやらんな、親友を連れて戻られへんかもしれん。
隣りを見ると、おばちゃんが優しい顔して俺を見てた。
「大丈夫。ついてるから離れたらあかんで」
ヴィヴィアンはデカい銃を抱えると、支部長に向かって言うた。
「めちゃくちゃしたら殺すで」
「ヴィヴィアンこそ、キレたら撃ち殺すぞ」
この二人、めちゃくちゃ怖くない? 良くも悪くも慣れてますみたいな感じがする。暴走したヴィヴィアンを止められるようなお人がキレてるんやぞ。怖すぎるっちゅうねん。
俺、姉ちゃんと一緒に待ってた方がよかったんちゃうかな。こんなんやった事ないのに。
ヘッドセットを渡されたから、それを耳に押し込む。そのまま外を見ると、小さいボートみたいなんが見えた。ヘリはそこに向かってるらしい。支部長の声が聞こえる。
「いいか、ヴィヴィアンは援護しろ。多分、そこそこ強い奴らが護衛だろう。ルノはおばちゃんとヘリを守れ」
ヴィヴィアンは分かったって真剣な顔をして頷いた。
「ミランダがいたら迷わず撃ち殺せ」
そんなん言われてもあんまり自信なかった。元は味方やってんもん。それに俺は人を殺すのがめちゃくちゃ苦手や。躊躇うなって言われても絶対躊躇う自信がある。
でも迷ったらその瞬間、撃たれるやろな。あの女、銃がめちゃくちゃ上手やったから。向こうは俺の事なんぞ、平気で殺せるやろし。
ボートの上にヘリが来ると、支部長は一番乗りで飛び降りてった。ヴィヴィアンがその次に行って、おばちゃんに言われて、俺はドアのところまで行った。おばちゃんは下で待ってるって言うと、先に飛び降りて行った。
俺はとりあえず梯子を下りていった。
下では銃をめちゃくちゃ撃ってるヴィヴィアンと、バンバン人を殺してる支部長がおった。おばちゃんはライフルを持ってて、遠距離の敵を撃ってる。血しぶきが飛んでた。
あとちょっとで船の上ってところで、俺は飛び降りた。銃を構えると、おばちゃんがすぐそばに立つ。めちゃくちゃ正確に敵を撃ち殺してて、びっくりした。
低い姿勢のまま、俺は物陰に隠れると、支部長とヴィヴィアンの背中を見た。
支部長は銃声が聞こえてくる方に、凄い勢いで走って消えていった。その背中をヴィヴィアンが追いかけていく。声掛けとか一切してないみたいやのに、二人は息ぴったりで凄い強い。
怖くはないんかなって思った。
だって凄い銃撃戦の真っ只中なんやもん。俺は怖い。怖くてしょんべんちびりそうになってる。小さい拳銃だけ持って、物陰に隠れてるだけでも死ぬほど怖い。
おばちゃんがめちゃくちゃ強いから今のところ無事やけど、食らったらどうするんよ? そんなん痛いやんか。
しばらくすると銃声が一瞬やんだ。俺は顔を出して様子を窺う。その時、目の前をゴムボートが走って行くのを見つけた。そこにダンテとミランダがおるのを見つけたんや。
「おばちゃん、あっちや」
俺はボートに銃を向けたけど、ミランダが撃ってきたから頭を引っ込めた。
おばちゃんは目がちょっと良くないらしい。どこやって言いながらボートを探してる。
俺はヘッドセットに手をやると言うた。
「支部長、ヴィヴィアン、ダンテを見つけた」
「どこだ?」
支部長の怖い声が聞こえる。
「ゴムボートで逃げてく」
「どこだ?」
「右側」
頭の上を銃弾がかすめた。
俺はどうしようか迷ってた。このまま見逃しとぅない。俺の親友を虫好きの変態女に渡したくなんかない。でもこのままじゃ逃げられてまう。
おばちゃんが隣りにしゃがんでるのを見て、俺はそのライフルちょっと貸してって言うた。おばちゃんは困った顔をしてたけど、この際気にせずひったくった。
スコープを覗いて深呼吸をする。泣き叫ぶダンテの姿をすぐに見つけて、そこから左側に照準をずらす。ミランダの胸に狙いを定めて、もう一回深呼吸をした。引き金を引く。
先に言っておくと、俺はライフルなんか訓練の時に一回触っただけで、練習した事はない。おばちゃんがやってんのを見様見真似で撃った。正直、自信なんかなかった。
だからミランダの胸からは外れた。でも肩には当たったみたい。あれじゃ死なんやろなって感じはしたけど、それでも当たった。
ゴムボートに向かって銃を乱射してたヴィヴィアンを、支部長が止める。ダンテに当たったらどないすんねんって、俺ですら思ったから、支部長はぶちギレてヴィヴィアンを殴った。
「何考えてんだ。脳みそ入ってないんだろ? この大馬鹿」
「ほなお前が撃たんかい」
こんなところで唐突に夫婦喧嘩をはじめたから、どうしようかマジで迷った。止めやんなあかんのは分かってるけど、怖すぎて止められへんねん。おばちゃんも困った顔をしてる。
でももう敵らしい敵はみんな引き上げたみたいで誰もいてへん。全部あの二人が殺してもたらしい。死体が転がってるだけ。
ボートを沈めようにも、おばちゃんのライフルはさっきので弾切れ。流石に拳銃でゴムボートだけをどうこう出来るような自信はない。
とりあえずおばちゃんにライフルを押し返すと、そのまま走って行ってヴィヴィアンの持ってたマシンガンをひったくった。一応スコープもついてたから、照準を合わせて引き金を引いたけど、空っぽ。
「ヴィヴィアン、弾は?」
「全部撃った」
マジか。信じられん。あちこちに銃弾をスタンバイしてませんでしたっけ? あれだけ持ってたの、全部撃ったとか信じられへん。
支部長が持ってたのは小型のサブマシンガンやから、流石に狙われへん。それに多分、俺より支部長のが上手いんちゃうかな。弾も余ってるっぽいけど、分かってるから自分は撃ってへんみたいやし。
「ダーリンがちんたらやってるからや」
「お前が一人で船室に突っ込んでったからだろ」
支部長もヴィヴィアンも、泣きそうな顔をしながら取っ組み合いの喧嘩を始めた。
一応女やでって思いながら、凄い勢いで殴られるヴィヴィアンを見てた。それに関節技掛けて引きずり倒された支部長も、申し訳ないけど怖くて止められへんかった。止めたらケガすると思う。しかもこの二人、殺し合いでもやってんちゃうかって勢いでやってんねんもん。
呆然としてたら、おばちゃんが突然やってきた。俺を押しのけると、支部長とヴィヴィアンを一発ずつぶん殴る。めちゃくちゃ痛そうな音が聞こえた。
床に倒れた二人を睨んでおばちゃんが怒鳴る。
「お前ら高校生の頃から変わってないんか。ええ加減にせぇ」
高校生って、この二人一体いくつの時から工作員やってるんや。そりゃ強くて当たり前か。
「喧嘩してる場合ちゃうやろ。ダンテの事はどないすんねん。お前ら、親ちゃうんか」
おばちゃんに怒鳴られて、支部長もヴィヴィアンも黙った。
「追うで。早くヘリに戻って」
おばちゃんに言われて、支部長は黙って梯子のところまで戻った。ヴィヴィアンは泣きながら、その後ろを歩いて行った。
めちゃくちゃ大人しくおばちゃんの指示に従う二人を見て、ちょっと意外やった。悔しそうな顔をしてたけど、なんも言い返さんかったから。
おばちゃん、もしかして凄い人なんかな? 美味しいご飯を作る以外に銃が撃てるとは知らんかったし。それに銃をあんなに正確に撃つのも凄かった。遠いところは苦手みたいやったけど。
俺はおばちゃんと一緒にヴィヴィアンの後ろを登って行った。おばちゃんは一番最後に上がってきて、無言で外を見てる支部長の代わりに指示を出した。
「ゴムボートを追って」
でも運転してた女の人が無理ですって答えた。
「そんなに燃料は積んでません。帰れなくなります」
「嘘やろ?」
「急ぎだったのでそこまで用意出来てませんよ」
ヴィヴィアンが飛んできた。
「じゃあいい。うちをあのボートの上で下ろして」
おばちゃんがまたヴィヴィアンをぶん殴った。
「いい加減にしぃって言うてるやろ」
ヘリの床に転がって、ヴィヴィアンは大声で泣き出した。ボロボロ涙をこぼして、子どもみたいに泣いてる。支部長はそんなヴィヴィアンを見て、泣きそうな顔をしてた。
食堂のおばちゃんの指示で、一旦ヘリポートまで戻る事になった。
姉ちゃん達もヘリポートに向かうように、おばちゃんが指示してた。
ずっと泣いてたヴィヴィアンは、大喧嘩したのに支部長の肩にしがみついてた。暗い顔した支部長は、黙ってヴィヴィアンにもたれたまま。もう廃人みたいになって座ってた。
この夫婦、仲がええんか悪いんか分からん。
ダンテはこの二人を止められるんやろ? 凄すぎひんか。今すぐどうにかしてくれ。こんなもん怖すぎる。
でもダンテをどうやって探せばええ? 俺はずっとそんな事を考えながら座ってた。
俺、なんも出来んかった。ビビって座ってただけ。おばちゃんみたいに援護も出来んかったし、支部長やヴィヴィアンみたいに乗り込んで行く事も出来んかった。
自分がこんなに情けないとは思わんかった。
親友のためやったのに、俺は怖くて隠れてただけ。
こんなん親友って言われへん。
俺はこっそり泣きながら、外を眺めてた。
ヘリポートに着くと、ジェーンとイーサンが出迎えてくれた。
支部長はずっとだんまり。ヴィヴィアンはギャン泣き。モヤシのおっちゃんは忙しそうにパソコンをカタカタやってたけど、おばちゃんは考え込んでるみたいやった。
ジェーンに抱きかかえられながらヘリを降りて、ヴィヴィアンは車に乗せられた。超不機嫌な様子の支部長はおばちゃんに怒られて、ヴィヴィアンの横に座った。二人はジェーン達の車で支部に戻るらしい。モヤシのおっちゃんもそっちに乗った。
俺は姉ちゃんと二人になった。助手席に座って、外を眺めてた。
「ルノのせいちゃうで」
姉ちゃんは急にそう言うた。
「でも俺、なんも出来んかった」
そもそもパジャマにスリッパで出てくるような奴、大マヌケにもほどがある。いくらなんでも支部を出る前に靴くらい履いてくるって言うべきやった。
銃かてそう。もっとちゃんと選ぶべきやった。こんな小さい拳銃じゃなくて、もっとちゃんと選んで持ってくるべきやった。それも怖いからって隠れてるんやなくて、ちゃんと撃てやんな意味ないやんか。
同じようにジャージ姿やったけど、支部長は船の中に乗り込んで行ってた。寝ぐせついたままやったけど、めちゃくちゃ強かったやんか。銃弾の中を平気で走って行ったやんか。
なんで俺は出来ひんかったんやろ。
後悔するくらいやったら、撃たれてでも銃を向けるべきやった。例え殺されへんかったとしても、援護射撃くらいはするべきやった。
「あの支部長やヴィヴィアンがおっても出来んかったんやで? 準備不足やったんは確かやけど、ルノだけのせいやない」
いつもやったら俺の事をバカにするくせに、今日に限って姉ちゃんはそんな事を言うた。パジャマパジャマって笑われたっておかしくないのに。おまけにスリッパやぞ、スリッパ。やる気あんのかって言われても仕方ない。
なのに姉ちゃんは真面目な顔して運転しながら、俺に優しく言うてくんねん。
「少なくとも、あのクソ女に一発当てたやんか」
確かにそうかも。ミランダを撃った。でもあれじゃ死なんと思う。船が揺れてたとか、ライフルやったとか、いろいろあるかもしれんけど、それでも殺せた筈やんか。
撃ち殺されへんかったんは、俺が弱かったから。
「それだけでうちはすっとしたで。頑張ったな」
姉ちゃんは俺の頭をぐりぐり撫でてきた。
「お願いやから、両手でハンドル握ってくれ」
この病気の女に片手運転とかされたくない。怖すぎる。俺の事を心配するんやったら、命の心配してくれ。事故ったらどないすんねん。
俺は前を走るジェーンの車を見た。
後ろの窓から、泣いてるヴィヴィアンが見える。多分、支部長も泣いてるんやと思う。下を向いてて、元気ない。
「次はどうすんの?」
俺は姉ちゃんに尋ねた。
「さあ。うちにも分からへん」
この役立たず。ゴミくずのアンサロあばずれ女。大嫌いや。
俺はそのままちょっとだけ泣いた。
あれから一週間経っても、ダンテは見つからへん。
支部長から学校に行ってもいいって許可が出て、俺はゆりと学校に行った。
意味の分からん授業を二人で受けて、平和すぎるモヤシの集団に混じってる。全然面白くない毎日を過ごしながら、俺はぼうっとしてた。
ジャメルは今日帰るって言うてた。
姉ちゃんと一緒に見送りに行くつもりやけど、帰ってほしくない。日本におってほしい。もしくは俺も連れて帰ってほしい。俺の事、一人にすんなって、子どもみたいに泣けたらいいのに。
姉ちゃんは珍しく強がり言わんかった。
ジャメルに帰んなって、昨日食堂で怒鳴ってんのを見た。フランス語やったから、多分知ってるのは俺とジャンヌだけ。珍しく泣いてたから、姉ちゃんも寂しいんやと思う。
ゆりになんで泣いてたんか聞かれたけど、俺の優しさで黙っといたる事にした。本人に聞けって言うといた。仲良いみたいやし、姉ちゃんが話したかったら話すやろ。
ジャメルはまた日本に来るって言うてたけど、しばらくは無理やろな。日本に長い事おりすぎて、向こうでの仕事が溜まってるって言うてたから。またすき焼きを食べに来るとか自慢げに言うてた。
ジャメルがパリに戻るって言うたのは、ダンテの情報が聞けるかもしれんからや。だからそれにウェスティンって工作員が一緒に行くんやって。
全然知らん人やけど、なんでも基本は潜入任務の担当らしい。
ウェスティンはいろんな国の言語が出来るから、今、速攻でフランス語の勉強中やねんって。何回か本人からフランス語の会話の練習を頼まれたけど、俺より姉ちゃんのがいいって言うて断った。
そんな気分になられへんかったし、この人も俺を虫地獄から助け出してくれた工作員や。嫌でも顔を見たら思い出す。小さい虫にたかられんの、もう思い出したくない。
ジャンヌは相変わらず、俺の事をいてへんもんとして扱う。口どころか目も合わしてくれへんようになった。
全部俺のせいなんやから仕方ない。仕方ないって分かってるけど、それがつらい。姉ちゃんが間に入ってくれようとしてるけど、全然役には立ってない。むしろ悪化してる気がする。
家に帰ってもいいって許可が出たけど、俺は帰れてない。
あの部屋やったら、一人になりたくないって泣かんでいい。安心して寝れるけど、ジャンヌに空気扱いされんのがつらすぎて、帰っても寝られへんと思った。姉ちゃんがどんなに話しかけてきても、つらいのは変わらへんから。
だから支部の仮眠室で、ジャメルと並んで寝てた。でも今日でジャメルもおらんようになるし、諦めて帰らんなあかん。帰りたくないけど、もう支部には俺と一緒に寝てくれるような奴、いてへんもん。ダンテはおれへんし、ゆりも家やし。
ゴミ溜めになってる家を大掃除して、買い物に行って、姉ちゃんとジャンヌにご飯作るんよ。姉ちゃんの脱ぎ散らかした服を片付けて、洗濯しやんなあかん。
酔っ払ってなそんな事、やってられへんよ。でも酒なんか飲まれへんやんか。
俺が酔っ払ったせいなんやもん。俺があんな虫女に飲まされてなかったら、今も俺らパリで暮らしてた筈なんやから。酔ってなかったら、俺は誰が何時に帰るかを話したりせんかった。虫が怖いなんて事、言わんかった筈なんや。
だから飲まれへん。
素面で家に帰るのが怖い。
俺の様子がおかしいから、クラスの連中が話しかけてけぇへんようになった。そんなん仕方がないって分かってる。あんなモヤシどもやもん。そんなん怖いに決まっとる。
でもパソコン見てたらダンテを思い出すんや。見るたびに泣きたくなるんや。ちょっと兄ちゃんって呼ばれただけで嬉しそうに笑って、汗だくになってもそばで一緒に寝てくれる、あの優しい親友がおれへんって思い知るんや。
それがつらい。
ジャメルまでおれへんようになるとか、俺、どないしたらええんよ。
もう少ししたら授業も終わって、姉ちゃんと一緒にジャメルを空港まで送りに行く。ゆりはそのまま支部で仕事なんやって聞いた。忙しそうにバタバタやってる。
もうチャイムが鳴った。行きたくない。
「ルノ、大丈夫か?」
ゆりに聞かれて顔を上げた。
全然大丈夫やないけど、なんともないって返事した。多分、酷い顔してたんやと思う。ゆりにおでこを触られた。
「ちょっと熱あるで」
「こんくらい放ってたら治る」
確かに一週間くらいずっと微熱がある。ジャメルにはバレたけど、絶対誰にも言うなって口止めしたから姉ちゃんも知らん。風邪ひいたんやと思うけど、こんなもんそのうち治るやろ。
でもまさかゆりにバレるとは思わんかった。
「いやいや、今日は帰って寝た方がええんちゃうか?」
「大袈裟やな。平気やって」
ジャメルを見送ったら、家の掃除が待ってるんや。寝てる暇なんかない。きっと家は大惨事になってる筈。姉ちゃんが片付けたって言うてたけど、信用出来ん。どうせゴミまみれに決まってる。
俺は立ち上がると、ゆりと一緒に学校を出た。
「ポカリおごったるから、ちょっと待ちぃや」
ゆりは自販機の前で立ち止まると、お金を入れた。
「何それ?」
「風邪ひいた時に飲むやつ」
ゆりはそう言うと、青いペットボトルを俺に渡した。自分はコーラを選んで、それをぐびぐび飲む。ありがとうってお礼を言うてから、そのジュースを飲んだ。
これ、スポーツドリンクやん。風邪ひいた時には飲まへんやろ。運動して、汗かいた時に飲むやつちゃうんか? 風邪の時って、コーラちゃうんか?
「日本では風邪ひいたらスポーツドリンク飲むんか?」
「せやで」
ゆりはにこっと笑うとスケボーを右手で抱えた。バックパックの横にペットボトルを差し込んで、ゆりは俺の横をゆっくり歩く。
「無理すんなって言うても無駄やろけど、ちゃんと休みや」
「うん、気をつける」
俺はジュースを飲みながら支部の建物に入った。
入ってすぐの玄関ホールで、ちょうどジャメルが支部長に挨拶してるところやった。いつ覚えたんか知らんけど、日本語でお世話になりましたって言うてる。ウェスティンって工作員も一緒にいる。
姉ちゃんがひょっこり現れて、俺の肩を叩いた。
「何飲んでんの?」
「スポーツドリンク」
姉ちゃんは寂しくないんやろか。昨日はあんなに騒いだくせに、今日は平気そうな顔してる。強情やから隠してるだけかもしれへんけど。
足はまだ痛いみたいで、ちょっと引きずってる。でも特に不自由してないみたいや。
「ルノ、スーツケース運んだって」
姉ちゃんに言われて、俺はジャメルの持ってたスーツケースに手を掛けた。ちょっと重い。ゴムしか入ってなかったのに、今度は何を買ったんやろ。
ゴロゴロ転がしながら支部を出ると、裏に止めてあった車に積み込んだ。今日は俺と姉ちゃんだけやから、軽自動車や。
ジャメルが出てきて、ゆりにしがみついた。
「寂しくなる!」
こいつ、いつ日本語覚えたんやろ。
しかも上手い。支部長と違うイントネーションやから、やっぱり姉ちゃんなんかな? この女に日本語を教える脳みそがあるとは思ってなかった。
ゆりはそんなジャメルに同じようにしがみついて、うちもって笑ってた。
いつ仲良くなったんか知らんけど、楽しそうに笑ってんなぁ。ちょっと離れたところから眺めてた。姉ちゃんはニコニコしながらそれを見てる。
車に乗ると、ウェスティンも乗ってきた。
「一緒にフランスまで行くから、運転よろしく」
「任しといて」
姉ちゃんは笑った。
それにしてもこのウェスティンって人、長期になる筈やのに荷物めちゃくちゃ少なくないか? 一番小さい、機内に持ち込めるサイズのスーツケースやぞ。
後ろの席でジャメルと話した。
「なんかあったら言えよ。飛んでくる」
「ジャメルこそ言うてや」
そっからアホな話しかしてない。
日本人の描くマンガは面白いとか力説されたり、メイドインジャパンは素晴らしいとか。日本製のコンドームはつけてる感じがしないとか。
あと、支部のトイレが快適すぎて、あのトイレを自分の家に置きたいとか。
確かに日本のトイレは最高やと思う。
便座は暖かいし、勝手に水が流れるやつとか、水の流れる音がするやつとかまであるやんか。あれってヤバイと思う。あと便座カバーとか。あれも凄いよな。
フランスじゃあり得へん。クソ冷たい便座に凍えながら、うんこするもんやと思ってたもん。腹を下してる時とか最悪やぞ。腹痛が悪化する。
そんなどうしようもない話をしてたら、すぐに空港に着いた。
出国ゲートの前で、急にジャメルが俺の首にしがみついてきた。耳元で誰にも聞こえんように言うた。
「ジジが心配してたぞ。無理すんな」
「姉ちゃんが?」
ジャメルは俺の背中を痛いほど叩くと、ニカッと笑った。
「ダンテの事は任せて、ルノは勉強頑張れよ」
それから姉ちゃんに抱きついた。
「愛してるぞ、ジジ」
姉ちゃんはちょっと怒ってるらしい。その手を払いのけてジャメルを睨む。
「黙れ、クソ袋」
マジで、この女のどこがそんなにいいんや? 俺には全く理解出来ん。クソ袋とか呼ばれたいか? 俺は絶対嫌。可愛らしく、好きとかすぐ会いに行くとか言う女がいい。
「照れてんのか? 可愛く甘えてみろよ」
「とっとと帰れ」
姉ちゃんはジャメルの背中を叩くと、めちゃくちゃ乱暴に背中を押した。ウェスティンがそれを見て、俺を見る。
「今なんて?」
「いちゃつきたかったみたいやけど、姉ちゃんに追い払われてる」
それを聞いて笑いながら、ウェスティンは出国ゲートの方に向かった。ジャメルは名残惜しそうな顔をしたけど、また来るよって手を振った。
ジャメルが消えてから、急に姉ちゃんは座り込んだ。
てっきり足が痛いんかと思ったんやけど、姉ちゃんは目の前で泣き出した。びっくりして見てたら、姉ちゃんはぽつりとジャメルの名前を呼んだ。
うわ、マジか。この女、本気やったんか。信じられん。
でもジャメルの一方的な片思いって訳やなくて、ちょっと安心した。結構本気っぽい感じがしたから、片思いなんやったら別れろって言うつもりやってん。
でもこのクソジジが泣いてるって事は、本気やったんやろ。姉ちゃん、そういうのあっさりしてるから。めちゃくちゃ無理してたんやって、今頃気付いた。
「姉ちゃん、大丈夫か?」
声をかけたら、姉ちゃんは顔を上げた。
今までこの女がここまで泣いてるところを、俺は見た事がなかった。そりゃ小さい頃に癇癪を起こして泣いてるのは見た事があったけど、中学に入る頃には泣いてるのをほとんど見ぃひんようになった。最近は泣いてるみたいやけど、いろいろあったし仕方がないやん。
でもまさかこの女が男の事で泣くとは。ちょっとびっくりした。
手を貸して立たせると、二人で車に戻った。
泣いたってしゃーないし、また会えるって分かってる。メールも電話もある。分かってるよ、それくらい。それでも寂しかった。
いろいろあったけど、やっぱり楽しかった。姉ちゃんの薬を二人で飲んで閉じ込められた時も、酒飲んで騒いだ時も、楽しくて幸せやってん。パリにおったのを思い出した。
だからつられてちょっとだけ泣いたよ。でもええやろ? 友達がおれへんようになる事で泣くのは、別にそこまでカッコ悪い事やないと思うから。
助手席に座って、姉ちゃんを見てた。
姉ちゃんはすぐに泣き止んだけど、めちゃくちゃ寂しそうな顔をしてた。つらそうに顔を拭くと、エンジンを掛ける。
そのままずっと無言やった。
空港から、真っ直ぐ大国町の家に向かって、ずっと無言で外を見てた。姉ちゃんは真面目に運転してて、ときどき鼻水をすすってる以外は普通にしてる。
「暖房付けていい?」
「ええよ」
寒くて、俺はエアコンの電源を入れた。多分あってると思うんやけど、漢字ってやっぱり難しい。なんで姉ちゃんはこんなん読めるんやろ。
信号で止まった時、姉ちゃんはこっちを見るなりびっくりした顔をした。
「ルノ、大丈夫か?」
「何が?」
「顔色悪いで」
姉ちゃんはそう言うと、俺の額を触った。
「ちょっと、お前なんで出てきたん?」
めちゃくちゃ真顔の姉ちゃんは、焦った様子で車をその辺の脇に止めた。着てた上着を俺に羽織らせると、真顔で言うた。
「お前、熱あるやんか」
そっからすぐに大国町の駅が見えた。姉ちゃんは家の前に車を止めると、俺に先に部屋に戻ってろって言うた。俺を下ろすと、大急ぎで車を走らせてどっかに行った。
俺は階段を上がると、ドアに鍵を差し込んだ。かちゃんと音を立てて鍵は開いた。重たいドアを押して中に入る。
玄関に入ってすぐ、やっぱりゴミ溜めになってる家の中にうんざりした。
パリにおった頃に比べれば、確かにマシやと思う。それに俺、結構長い間帰ってなかった筈やもん。それを考えればかなりキレイやと思う。
でもゴミ出ししてないんか山積みになってるし、洗濯機は洗濯物で溢れてる。流しは使った食器がそのままやし、床には丸めたティッシュが転がってた。
俺はとりあえず台所の引き出しからゴミ袋を出すと、床に落ちてたゴミを回収した。ゴミに混じって姉ちゃんの靴下がやっぱり落ちてる。それから溢れるゴミ箱の中身も一緒に突っ込んだ。
洗濯機から溢れる服をより分けて、とりあえず一回目として回す事にする。洗剤を入れて、電源を入れた。曇ってるから、そんなにいっぱい干せそうにない。部屋の中に干すところなんかあれへんのに。近所にコインランドリーがあったから、乾燥だけでも行ってくるしかない。
掃除機をかけやんなあかんけど、まずは窓を開けて換気せなあかん。クソ寒いのに最悪や。
窓を開けてるところに、姉ちゃんが帰ってきた。ビニール袋を床に置いて、走ってくる。
「何やってんねん。アホか?」
姉ちゃんはめちゃくちゃデカい声でそう言うと、俺の腕を引っ張った。
「何するんよ」
「今すぐ風呂入ってこい」
風呂、掃除せな入られへんやろ。
俺はぼんやりそう思いながら、目の前の姉ちゃんを見下ろした。頭が痛くなりそうやから、そんなデカい声で言わんといてくれへんかな。もうすでにこの家の現状見ただけで気分悪いっていうのに。
「あとはやっとくから」
「でも姉ちゃん、出来ひんやんか」
俺は目の前の姉ちゃんにそう言うた。
もううんざり。頼むから喚くな。
「その洗濯が終わったら、乾燥行かなあかんねん」
「うちがそれくらい行くから」
姉ちゃんは真剣な顔をしてた。
食器の山とゴミ袋を見たら、姉ちゃんは急に謝ってきた。
「ごめん。ゴミの日なん忘れてん。明日出すから」
「どうせそれも忘れるやんか」
俺が寝てたら、ゴミ屋敷になってまうやん。嫌やぞ、虫の出るような家に住みたくない。すでに出そうな感じになってて、もうマジで嫌。こんなところで寝れると思ってんか。
姉ちゃんがなんか言おうとしたら、ジャンヌが帰ってきた。ドアを開けてただいまって言う声が聞こえる。
「あれ? 洗濯機回ってる」
ジャンヌは不思議そうな声でそう言うと、こっちに入ってきた。俺の顔を見るなり、カバンを置いて飛んできた。
「その状態で片付けやってたん?」
「そうやけど」
久しぶりに口をきいてくれたかと思ったら、なんやこれ。めちゃくちゃ怒ってない? 俺の事を睨みつけて、今すぐシャワーを浴びて来いって怒鳴る。それから姉ちゃんに体温は?って尋ねた。
姉ちゃんは袋を出すと、新品の体温計を出して俺に渡す。早くしろって急かされたけど、流石に嫌やった。ジャンヌは俺に向かって怒鳴った。
「そんなんなるまで何やってたん? お兄ちゃんかてしんどかったやろ?」
「でも」
「でもちゃうわ。ふざけんな、このメルド」
姉ちゃんに座れって言われて、嫌やったけど埃まみれの床に座った。くしゃみしたら、分厚い毛布をかぶせられた。
そのまま姉ちゃんに乱暴に押し倒された。黙ってケツ出せって怒鳴られたけど、嫌やって断った。何が悲しくて姉ちゃんと妹にケツ見せなあかんねん。
「トイレ行ってくるから」
「いいや、今、目の前で測れ」
姉ちゃんに押さえつけられた俺を見て、ジャンヌはいきなりズボンを引っ張った。ちょっとマジで信じられん。俺の兄弟、ちょっと酷すぎる。
「絶対嫌や。放して」
泣きそうになりながら、姉ちゃんの下で暴れた。全然意味なかったみたいやけど。横を向くように引っ張られて、上に姉ちゃんがのしかかってくる。
「ジャンヌ早よして」
そしたらインターホンが鳴った。
ジャンヌは俺の尻の穴に体温計を突っ込むと、そのまま玄関に向かって走って行った。
ああもう、マジで泣きたい。
痛いし、気持ち悪いし、情けないし、最悪の気分。もう嫌や。だから熱あるって姉ちゃんに隠してたのに。
「外まで聞こえてたで、何してたん?」
「ゆりちゃん」
ジャンヌは嬉しそうな声でそう言うた。
「ちょっとマジで、姉ちゃん放して」
「もうちょっと我慢しぃや」
マジで泣けてきた。嫌すぎて。
姉ちゃんは俺に毛布を掛けると、いらっしゃいって廊下に向かって言うた。
「何やってんの?」
「体温測ってる」
姉ちゃんは当たり前みたいな顔してゆりに言うた。
「なんでルノは半泣きなん?」
不思議そうな顔をしたゆりが、俺の横に座った。ビニール袋をテーブルに置いて、俺の顔を覗き込んでくる。
いやマジで、帰ってくれ。ゆりにまでこの情けない姿を見せやんなあかんのか?
「体温測るだけやろ? 何を泣く必要があるんや?」
「昔からやで。ルノ、絶対体温測りたくないって騒ぐんよ」
姉ちゃんはそうゆりに答えた。
毛布の下でピロピロと体温計が音を鳴らした。今すぐ抜いてほしいけど、流石にゆりの前ではやめてくれ。でも姉ちゃんは気にする様子もなく毛布に手を突っ込んだ。
「うわ、お前四十一度も熱あるやんか」
姉ちゃんは体温計をティッシュでくるむと、その辺にポイッと置いた。
「何やってるん?」
「あとで消毒する」
いやいや姉ちゃん、絶対忘れてせぇへんから今やってくれ。
「頼むから今すぐやって」
俺がそう言うと、姉ちゃんは分かったって大人しく返事した。ウェットティッシュで消毒してから、体温計を箱に戻した。ジャンヌがあきれた顔をして俺を見下ろしてた。
「早くお風呂入ってきぃや」
ゆりが不思議そうに、ジャンヌを見た。
「なんで? こんな熱あんのに危ないやろ」
ちょっと何を言われてるんか分からん。熱があったら風呂ちゃうんか? ぬるいお湯につかって寝るってやつ。風呂入らんとか、ちょっと嫌やぞ。
「フランスでは熱があったらお風呂入るんやで」
ジャンヌはそう答えて立ち上がった。
お風呂からお湯を溜めてるような音が聞こえてくる。戻ってきたジャンヌをゆりは見つめる。
「なんで体温計を消毒するん? 汚いもんちゃうやろ?」
いやいや、何を言うてんねん。尻の穴で測るもんが汚くないと思ってるんか? やっぱりゆりはスケボーでこけた時に頭をぶつけたんやないかな。尻の穴がキレイやっていうんか?
毛布の中でズボンを上げてると、ジャンヌがゆりの事を見つめた。
「体温って直腸で測るもんちゃうの?」
「直腸ってどこ?」
「お尻の穴」
ゆりが素っ頓狂な声を上げて飛びのいた。それを姉ちゃんもジャンヌも不思議そうな顔をしながら眺めてる。
「ごめん。うち、とんでもないところに来てもた? 医務室で熱冷まし貰ってきたから、これ置いたら帰るわ」
ありがとうって返事した姉ちゃんは、ちょっと困った顔をした。
「日本は違うの?」
「体温って、わきの下で測るで」
「ちょっと待って、それホンマなん?」
俺は起き上がるとゆりを見た。
「ホンマや。日本じゃ熱ある人を風呂にも入れへんし、体温計を尻の穴には突っ込まん」
「なんでもうちょっと早く来てくれへんの? 姉ちゃんとジャンヌに押さえつけられててんぞ」
「まさか、尻の穴で体温を測る文化があるとは思わんかったから。なんかごめん」
ゆりに真顔で言われてショックやった。
わきの下で測るんやったら、こんなに暴れへんよ。姉ちゃんは力任せに押さえつけてくるし、ジャンヌは適当に体温計さすし、めちゃくちゃ痛かったんやぞ。
「ところでこの家、何があったん?」
ゆりはきょろきょろ辺りを見回した。
「お兄ちゃんが帰ってけぇへんからゴミ屋敷になった」
そう答えて、ジャンヌは俺を立たせた。
「とにかくお風呂入って」
「日本じゃ入らんでええんやろ? それに俺はこんなゴミ屋敷、嫌や」
文句を言うたら、ゆりにめちゃくちゃ睨まれた。
「四十度以上の熱出しとるくせに何を言うてんねん。お風呂入っといで。片付け手伝うから」
めちゃくちゃ低い声で脅されたから、俺は大人しく立ち上がった。タオルとかを入れてる戸棚から、バスタオルを引っ張り出して風呂に行った。
うわ、最悪。姉ちゃん、また使った後のナプキン壁に貼ってる。これ、何回言うてもやめてくれへんけど、なんでなん? キモくないんか?
俺はそれを丸めてゴミ箱に入れると、ドアを閉めた。服を脱いでバスタブに入ると、ぬるいお湯がちょうどいい感じに溜まってた。軽く掃除してくれたらしい。水垢とかもない。
気持ちいいなと思ってのんびりしてたら、外から姉ちゃんらの声が聞こえてきた。
「嘘やろ? たったの一週間でこうなったん?」
「これでもマシな方やで、ゆりちゃん」
「いやいや、これは酷すぎるやろ」
ガタガタと音が聞こえてきて、片付けを始めたらしい。しばらくすると、掃除機の音も聞こえてきた。
ゆりが姉ちゃんに向かって言うた。
「ジジ、明日は燃えるゴミの日って書いてるで。今すぐ出すんや」
「はい」
「ジャンヌちゃんはそっちの食器洗って」
「はい」
なんかゆりが姉ちゃんを叱ってくれてるらしい。めちゃくちゃありがたい。もっと言うてくれと思いながら、俺は頭を洗った。
「違う。ダンボールは古紙や」
ゆりが姉ちゃんにあきれてるらしい。そんなん序の口やぞ。放っておいて大丈夫やろか。めちゃくちゃ心配なんやけど。
「燃えるゴミって何?」
「プラスチックとか以外やんか」
「そんなん分からん」
姉ちゃんが早速泣き言を言い出した。
流しからがしゃって音も聞こえる。おまけに何かが崩れるような音がした。これ、マジで大丈夫やろか。ゆりが心配。姉ちゃんは俺がおらんかったら何するか分からんからな。
体を洗ってすっきりしてから、シャワーで全身を流した。栓を抜いて、風呂場を軽くシャワーで流したら、バスタオルで体を拭いた。
ドアをちょっとだけ開けて、正面の流しにいる筈のジャンヌを見る。
「ごめん。服とって」
ジャンヌはくるっとこっちを向くと、手を流してからタオルで拭いた。クローゼットからパジャマとパンツを出してきて、俺に渡してくれる。
「お兄ちゃん、早よ布団行きや」
ジャンヌに心配されてる。
よかった、もう一生話してくれへんかと思った。嫌われても仕方がない事したって分かってる。だから、俺の事はもう許してくれへんのちゃうかと思ってた。
嬉しくて泣きそうになりながら服を受け取ると、さっさと着替えた。そっと風呂を出ると、狭い廊下に掃除機をかけるゆりがこっちを見た。掃除機を一旦止めて、俺の顔を見る。
「なんか食えそうか?」
「大丈夫、いらん」
ゴミ出しを手伝おうと思って、俺はそのまま玄関前のゴミ袋を持ち上げる。
「何やってんねん、早よ布団行け」
振り向くと、ゆりがめちゃくちゃ怒って俺の事を睨んでた。ジャンヌも似たような顔をしてて、なんかめっちゃ怖い。
「ルノはマジでなんもすんな。早よ寝て」
ゆりに背中を押されて、奥の和室に行った。流石にやらせといていいとは思えへんねんけど、ゆりは今にもぶちギレそうな顔してた。
こっちはゴミ箱が溢れかけてる以外、キレイなままやった。ベッドメイクしてない姉ちゃんの布団と違って、自分のベッドはきれいに整えられたまま。
自分のベッドに横になって布団をかぶると、ゆりが横に座った。
「ジジはなんで湿布なんか買ったんや?」
姉ちゃんが持って帰ってきた袋を開けて、何かの箱を出した。そっから白い湿布みたいなんを出した。透明なシートを剥がしてこっちを見る。
「おでこ出して」
キレられたくないから、黙って前髪を上げた。乾かしてないから濡れてるけど、乾かしたいですって言える雰囲気じゃない。
ゆりは俺の額にそれを張り付けた。
「何これ?」
「冷えピタ」
当たり前って顔をして、俺の事を見下ろしてくる。
「とにかく動くな。寝てろ」
怖いから黙って頷くと、そのまま様子を見てた。俺の事を見張るためなんか、和室のドアを閉めはせんかったから、向こうの様子が分かる。
姉ちゃんが息を切らせて玄関のドアを開けた。
「あと二つあるで」
ゆりに言われて、姉ちゃんはゴミ袋を抱えると、また階段を下りて行った。俺が言うても、姉ちゃんはゴミ出しとかしてくれた事ないんやけどな。ゆりって凄い。
ジャンヌが食洗器に皿を並べて電源を入れる。それからこっちを見た。
「マジでなんも食べられへんの?」
「食欲ない」
そう答えたら、ゆりが冷蔵庫を覗き込んだ。
「ゼリーあるやん」
「それ、お姉ちゃんのデザートやで」
「どっちにしろ、この冷蔵庫の様子じゃ夕飯もないやろ。ついでに買ってきてもらえばええやん」
ゆりはニコニコ笑うと、スプーンとゼリーを持って部屋に来た。ジャンヌが一緒にこっちを見てる。
「流石に一口も食われへん訳やないやろ?」
そうは言われても、マジで食べれる気がせぇへんねんけど。
でもゆりはそんなん知ったこっちゃないとばかりに、目の前に座った。蓋を剥がしてスプーンを突っ込む。起きようとしたら、そのまま動くなって低く脅された。黙って口を開けると、スプーンを突っ込まれた。
ぶどうの味がする。美味しい。
ジャンヌがごそごそとお茶を出してくると、袋を持って戻ってくる。
玄関のドアが開いて、姉ちゃんが戻ってきた。
「あ、うちのデザート」
「ジジ、買い物行ってきて。ついでにゼリーも買ってきたらええやろ」
「はい」
寒い筈やのに汗かいてる姉ちゃんは、黙って財布を持った。自転車で行くらしい。鍵を持ってゆりを見た。
「何を買ってきたらええの?」
「ジジとジャンヌちゃんの夕飯と、ルノの食えそうな物と、ポカリかアクエリ。あと、念のためにカップ麺とか」
姉ちゃんはめちゃくちゃ情けない顔でゆりを見た。
「もう一回お願いします」
ジャンヌはその辺にあった紙に、メモを書いた。俺を見る。
「お兄ちゃん、何やったら食べれんの?」
「マジでなんも欲しくない」
すると、ゆりが少し考える。
「少なくともこういうゼリーはいけそうやから、ゼリーとかプリンとかヨーグルトとか。あと、もうちょっと元気になったら食べるやろから、冷凍のうどんとか」
「うち、それ作られへんで」
「大丈夫、お湯でゆがいてだし入れたら終わりや」
ジャンヌはそれを全部メモしたらしい。姉ちゃんにそれを渡した。
「うちの夕飯はハンバーグ弁当がいいです」
「いやもう、ピザ頼もうや」
「じゃあそれでいい」
姉ちゃんは渡された紙を持って、また家を出て行った。
「ジジ、言うたら出来るやん」
「どこが?」
「少なくともゴミ出しは出来たで」
ゆりはそう笑うと、またゼリーを一口すくった。黙って口を開けると、ゼリーを流し込まれる。食欲なかった筈やのに、なんとか食べれた。ゆりはゼリーの空容器を台所のゴミ箱に入れると、俺を見た。
「薬飲んだら、ちゃんと寝るんやで」
体を起こしたら、ジャンヌが薬を俺に出してきた。てのひらに錠剤をいっぱい出されて、お茶の入ったコップを渡される。黙って飲み込んだら、お茶を飲み干した。
なんかくらくらする。
「ヨレヨレやんか、早く寝て」
ジャンヌに言われて、俺は大人しく横になった。確かにもう座ってんのもしんどい。動ける気はせぇへんかった。
寝てたら、ゆりがまた掃除機の続きを始めた。こっちの部屋にもかけてくれるらしい。ジャンヌが音を立てて止まった洗濯機から、洗濯物を籠に出した。
「これ、どうすんの?」
「それはルノか?」
「干せるもんは干そうと思ったけど、量が多いから無理そうなやつだけコインランドリーに持ってくつもりやった」
「じゃあ後でお姉ちゃんに任せよう」
姉ちゃん、めちゃくちゃこき使われてるやん。俺の言う事は聞いてくれへんのに、ゆりには黙って従うんかい。なんでやろ。女やから?
ぼうっと見てたら、ゆりは掃除機を洗濯機の前に戻した。ジャンヌは残りの洗濯物をぶち込んで、電源を入れた。洗剤を入れてよしって笑うと、ゆりの方を見た。
「ゆりちゃんが来てくれてよかった。やっとゴミ屋敷から解放された!」
そんなんなる前に、俺がおらんくても片付けてくれ。頼むから。全部人任せにせんと、ちょっとくらいやってくれ、マジで。
「うち、ルノがぐれた理由が分かったわ」
「じゃあうちはなんでぐれてないの?」
「ルノがおったからやろ」
ゆりはジャンヌと楽しそうに笑うと、そのままリビングの方に行った。二人が見えんようになって、目を閉じる。きれいになった普通の家に戻って安心した。これで安心して寝れそうや。
でも頭がガンガンする。めちゃくちゃ痛い。寝てんのにくらくらして、気分悪い。どんどん悪化してる気がする。
でも額は冷たくて、ちょっとだけ気持ちいい。なんやろこれ。めちゃ快適なんやけど。氷枕とかいらんやん。
自分の布団に潜り込んで、小さくなった。枕元に飾ってた写真立てが頭に刺さるけど、遠くに置きたくなかったから抱いて寝た。
ゆりとジャンヌの声が聞こえるから、怖くはなかった。
うとうとしてると、玄関のドアが開いた。
「ただいま」
姉ちゃんと目が合ったから、おかえりって答えた。
姉ちゃんは汗だくで袋を抱えてて、それを玄関に置いた。部屋まで入ってくると俺の前にしゃがんで、大丈夫かって聞いてきた。
大丈夫じゃないって言われへんから、寝とけば治るって答えた。頭が痛いし、吐き気もする。でも平気なもんは平気。大丈夫なんや。
「それ、冷蔵庫に入れて来い」
「ああ」
姉ちゃんは思い出したように立ち上がると袋を持って冷蔵庫に向かって行った。
ちらっと見えたけど、食べきれへんくらいの量のゼリーを買ってへんか? やっぱり俺が行くべきやった。そもそもちゃんと買えたんか。ああ、マジで心配。
「わお、こんなに買ったん。ジジが食べるんか?」
ゆりの声が聞こえる。
「え? いっぱいいるかと思って」
「三食ゼリーは可哀想やろ」
「いろんな味にしたで」
「いやいや、酷すぎる」
やっぱりか。また姉ちゃんやりよったな。一体何個買ってきたんやろ。ああもう、考えたくない。とうぶんゼリー生活か。考えるだけでうんざりや。
しばらくすると、今度は洗濯籠を持って、姉ちゃんが来た。やっぱり汗だくで、ちょっと疲れたような顔をしてる。
「なんかほしいもんあるか?」
「平穏」
姉ちゃんはごめんって謝ると、黙って靴を履いた。財布を忘れてったんちゃうかなと思って、財布は?って聞いた。姉ちゃんは忘れてたって、慌てた様子で部屋に戻って行った。やっぱりか。
騒がしいけど、寝てていいって楽やな。
こんなふうにしてもらったん、はじめてな気がする。俺が寝込んでも、面倒見てくれるような人っていてなかった。そりゃ小さい頃はしてくれたんやと思うけど、ゼリー食わせてもらったりした事なんかあったっけ? 俺がジャンヌにやった事はあっても、やってもらった事ってなかったと思う。
治った瞬間から、ゴミ屋敷の掃除が始まってたもんな。
まあ姉ちゃんもジャンヌも、俺がちょっと寝込んだくらいじゃ心配なんかしてこんかった。自分の夕飯の心配はしてたけど、俺はどうでもいいみたいやったもん。
だからこういうの、嬉しい。
姉ちゃんと一緒にゆりが玄関まで来た。
「じゃあルノ、うち帰るわ。ちゃんと治るまで寝てるんやで」
「ありがとう」
ジャンヌがめちゃくちゃ寂しそうにゆりに手を振った。
「また来てや」
「もちろんやで」
ホンマは帰ってほしくなかったけど、そんなん言われへんやん。いくら甘えていいって言われても、俺にはそんな恥ずかしい事を言う事なんか出来ひん。
だから布団から顔だけ出して、手を振った。
そのままスケボーを抱えて、ゆりは家を出て行った。姉ちゃんも一緒に籠を持って出る。ジャンヌはドアを閉めると、こっちを見た。
「嘘やろ。お兄ちゃん、泣いてんの?」
ジャンヌに言われて気が付いた。
俺は泣いてて、枕を濡らしてる。すぐ近くのティッシュを掴んで顔を拭いたら、止まらんようになってきた。ボロボロ泣きながら、なんで自分が泣いてんのか分からんかった。
ダンテを連れて帰られへんかったから?
それともジャメルがおらんのが寂しいから?
ゴミ屋敷をきれいにしてもらったから?
全然分からん。
泣いてたら、ジャンヌがベッドに腰掛けてきた。
「ごめんな、お兄ちゃん」
ジャンヌは急に俺の肩を撫でて、そう言うた。
「酷い事してごめんな。いっつもお兄ちゃんが酔っ払ってたの、うちとお姉ちゃんのせいやったのに」
肩に乗っかられたらしい。ちょっと重い。
でもジャンヌも泣いてるみたいや。肩を震わせて、俺の横にくっついてた。
なんか言わんなあかんかったけど、なんも言われへんかった。ボロボロ泣きながら、ジャンヌの下敷きになってるだけ。もう大して動かれへんかったし、言葉も出てけぇへんかった。
「うちももっと頑張るから、ちゃんとここに帰ってきてよ。お姉ちゃんと二人やったら寂しい」
ジャンヌはちょっと離れると、俺の顔を覗き込んできた。
俺は起き上がると、ジャンヌの肩に腕を回した。絶対うっとうしい筈やのに、黙って抱かせてくれる。ジャンヌも俺の肩に顔を押し付けて、ぎゅっと力を入れてきた。ちょっと苦しいけど、嬉しかったから黙ってされてた。
しばらく二人でそうやって泣いてた。
情けなくて、カッコ悪くて、自分が嫌いになった。弱くて、無力で、こんなにどうしようもないんやで? そりゃ嫌いにもなる。
家族が家にいる時間をミランダに言うたんは俺やのに。おとんとおかんが撃たれて、ジャンヌが死にかけたのも、姉ちゃんと離れ離れになったのも、全部俺のせいやのに。
なのに、ジャンヌは俺に帰ってきてって言うてくれた。
でも自分が情けなくて嫌になる。
大事な親友を連れ去られたのに、助け出す事も出来んかった。怖くて隠れてただけ。たった一発、ミランダを撃つ事しか出来んかった。
姉ちゃんみたいに殴り飛ばして、なんて事したんやって怒鳴るくらい、出来やなあかんかった。なのに俺は怯えて泣いてただけ。縛られた女が怖くて、隣りの部屋でわんわん泣いてただけ。
親友は俺の事をクソガキって呼んだから、その女を殴り飛ばしてくれたのに。
なんて情けないんやろ。
今も妹にしがみついて、泣いてるだけ。
風邪ひいて熱出して、泣きながら寝てる事しか出来ひん。
何がパリの悪魔や。
こんなんのどこが悪魔やっていうねん? 悪魔やったら、それこそもっと出来た事があった筈やないんか?
泣いてたら姉ちゃんが帰ってきた。
「ちょっとどうしたん、二人して」
姉ちゃんはベッドに座ると、心配そうにこっちを見つめてくる。落ち着けって背中を撫でられて、思いっきり鼻水をすすった。
「うち、なんかした?」
「原因はお姉ちゃんやけど、お姉ちゃんのせいやない」
ジャンヌはそう言うと、姉ちゃんにもしがみついた。
訳が分かってない姉ちゃんは、めちゃくちゃ困った顔をして俺を見た。
でも俺にも説明する余裕なんかなかった。
泣きながらジャンヌの肩にしがみついてる事しか出来ひんねん。俺も姉ちゃんにしがみついて、声を上げて泣いた。近所迷惑やと思う。でも我慢なんか出来んようになってて、子どもみたいに泣いた。
それがまた惨めで情けなくて、俺は自分の事がもっと嫌いになった。
「何を泣いてんのか知らんけど、大丈夫やで」
ベッドに座り直すと、姉ちゃんは優しく笑った。
「いろいろあったから疲れてんねん。ジャメルもダンテくんもおらんから寂しなったんやろ?」
それからジャンヌの頭を撫でた。
「ジャンヌも、ルノが帰ってけぇへんくて寂しかったな」
姉ちゃんは俺の顔を見て言うた。
「ダンテくんがそんな顔見たら心配すんで。笑えとは言わへんけど、まずは熱下げようや」
姉ちゃんはそう言うと、俺を横に寝かせた。ジャンヌを抱きしめたまま、俺の背中をさする。
いつもはクソジジのくせに、なんでや。なんでたまにマトモになんねん。そんで、そういう時に限って優しくすんな。
泣きながら、俺は姉ちゃんとジャンヌを見てた。
姉ちゃんは俺が寝るまで、ずっとそこで背中を撫でてた。落ち着いて泣き止んでも、やめんとそこで背中をさすってた。
スタートリガー社の工作員達 続編01 桜井もみじ☆ @taiyou705
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