第2話
凍てついた光景
取り調べ室の蛍光灯は、いつだって無機質な光を放っている。その光は、隠し事を暴き、人の内面を白日の下に晒すかのように、全てを平等に照らし出す。宇内透子は、その冷たい光の下で、テーブルを挟んだ向かい側の少女を見つめていた。
彼女は、二十代後半。黒いパンツスーツに身を包み、長い黒髪を一つに束ねている。切れ長の瞳は感情を読み取らせないが、その奥には、経験に裏打ちされた知性が静かに宿っていた。彼女こそが、この部屋の主導権を握る人間だ。傍らには、紫煙を燻らせるベテランの田所刑事と、眼鏡の奥で鋭い視線を光らせる若林刑事が控えている。
対面に座るのは、高村ユキ。高校の制服のまま、膝の上で指先をきゅっと握りしめ、俯いている。まだあどけなさの残る顔は、しかし、深い疲弊と怯えの色を帯びていた。
宇内は、手元の資料にちらりと目をやった後、ゆっくりと顔を上げた。
「ユキさん。辛いと思うけど、本当のことを話してほしい。私たちは、あなたを責めるためにここにいるんじゃない」
その声は低く、静かだったが、寄り添うような響きがあった。ユキの肩が、かすかに緩む。
「なぜ、売春を?…何があったの?」
単刀直入でありながら、気遣いの含まれた問いに、ユキは唇を震わせた。
「…最初は本当に、ただ行き場がなくて。駅前に座り込んでいただけなんです」
絞り出すような声だった。
「そうしたら、男性が声をかけてきて…食事と、一晩過ごせる場所があれば、それでよかったんです」
宇内は何も言わず、ただユキの話に耳を傾けている。その沈黙が、ユキに次の言葉を促した。
「朝になれば、また学校へ行って…」
ユキはそこで言葉を切った。その目に、嘘を重ねることへの躊躇いが浮かぶ。宇内はそれを見逃さなかった。
「ユキさん」宇内は、一枚の書類をテーブルの上に滑らせた。「これは君のスマートフォンの通信記録。先月、新宿のホテル街周辺に、深夜、複数回いた記録がある。一度や二度の『行き場がなかった』だけでは、説明がつかないんじゃないかな」
突きつけられた事実に、ユキの顔から血の気が引いた。言い逃れはできないと悟ったのだろう。彼女は観念したように、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「…学費を…親に内緒で、使い込んでしまって…」
嗚咽が漏れた。
「親には言えなくて…どうしようもなくて…駅前にいたら、声をかけられて…『これくらいならすぐ稼げる』って…」
「それで、使い込んだ学費を埋めるために、体を売った、と」
宇内が事実を確認すると、ユキは小さく頷いた。
「でも、学費だけじゃなかったはずだ。君の供述と金の動きには、まだ説明のつかない空白がある」宇内は、ユキの瞳の奥を覗き込むように続けた。「誰かに、弱みを握られていたんじゃないか?学費の使い込みを知られて、脅されたとか」
その言葉は、見えない楔のようにユキの心に打ち込まれた。彼女の呼吸が浅くなり、震えが全身に広がる。
「…違う…そんなこと…」
「ユキさん、君が本当に守りたいものは何?」宇内の声が、取り調べ室の空気を切り裂いた。「これ以上嘘を重ねて、君は一体何を守れるの?」
ユキは顔を覆った。その指の間から、堰を切ったような嗚咽が漏れ出した。
「…う…うぅ…」
数秒の葛藤の後、彼女は震える声で、その名前を口にした。
「…校長先生に…呼び出されて…」
その言葉が出た瞬間、取り調べ室の空気が凍った。
ユキは、あの日の光景を思い出していた。校長室の大きな窓。そこから見えるグラウンドで、生徒たちが楽しそうに笑っている。だが、ユキには、その全てが分厚い氷の向こう側にあるように見えた。目の前の校長が「君のしたこと、親御さんに知られたいかね?」と微笑んだ瞬間、ユキの世界は完全に凍てついたのだ。
「…学費のこと、全部知ってるって…バラされたくなかったら、言うことを聞けって…」
その時だった。取り調べ室のドアが、凄まじい勢いで開け放たれた。
「ちょっと!うちの娘に何してるのよ!」
警察官の制止を振り切り、ヒステリックな女性の声が響き渡る。ユキの母親だった。彼女は部屋に飛び込むなりユキの姿を見つけ、怒りに顔を歪ませて駆け寄った。
「ユキ!あんた、何てことしてくれてんの!」
「お母さん!」ユキは、驚きと恐怖で顔を蒼白にさせた。
母親の手が、ためらいなく振り上げられる。
「パンッ!」
乾いた衝撃音が響き、ユキの白い頬に赤い跡が浮かび上がった。
「まだ足りないわ!この恥知らず!」
母親が、再び手を振り上げた。
その瞬間、宇内は動いていた。
「止めてください!」
声には、抑えきれない怒りと焦りが混じっていた。宇内は母親の腕を強く掴む。その力強さに、母親は驚いて動きを止めた。宇内は、自分の指が母親の腕に食い込んでいることに内心でハッとし、わずかに力を緩めた。
「ここは警察の施設です。暴力は許されません」宇内は冷静さを取り戻し、毅然と言った。「お母様、今一番苦しんでいるのはユキさんです。彼女は、被害者なんです」
母親を別室に移し、嵐が去った取り調べ室で、宇内はユキの前に座り直した。
「ユキさん。校長を裁くためには、決定的な証拠がいる。君に起きたことの全てを、話してほしい」
宇内の真摯な目に、ユキは観念したように頷いた。
「…校長に言われるようになってから、しばらくして…妊娠、しました…」
その告白は、あまりにも重かった。
「…そして、中絶を…」
「…そうか」宇内は短く応えた。「その子供は…」
「……」
ユキは唇を固く結び、視線を彷徨わせる。誰の子か分からない、と言おうとしているのか。いや、言えないのだ。宇内は確信した。
「ユキさん。真実を話すことが、君を縛る氷を溶かす唯一の方法だ。そして、それが校長を追い詰める一番の武器になる」
長い、長い沈黙が落ちた。時計の秒針の音だけが響く。やがて、ユキは顔を上げ、決意を宿した瞳で宇内を真っ直ぐに見つめた。
「…校長先生の…子供です」
数時間後。校長が、取り調べ室の椅子にふんぞり返っていた。
「何を根拠にそんな馬鹿げたことを。心外ですな、刑事さん」
五十代後半の校長は、高級そうなスーツを着こなし、余裕の笑みを浮かべている。
「私は教育者として、かねてから高村さんの素行を心配し、相談に乗っていただけです。家庭環境も複雑なようで、同情から金銭的な援助を申し出たことはありますが…。まさか、その優しさを逆手に取られ、こんな形で貶められるとは」
善意の仮面を被り、巧妙に言い逃れる。宇内が矛盾を突いても、柳に風と受け流すだけだった。
取り調べが終わり、田所が紫煙を吐きながら言った。
「なあ、透子。あいつ、墓穴を掘ったぞ」
「どういう意味ですか?」
「『家庭環境が複雑で』『金銭的な援助を申し出た』だと?売春も妊娠も知らないただの生徒に、教師がそこまで踏み込むか?金の受け渡しがあったなら、金の流れが追える。金の出所さえ掴めば、奴さんの『優しさ』ってやつの化けの皮を剥げる。そこが奴の尻尾だ」
ベテランの鋭い指摘が、捜査の新たな突破口を示していた。
宇内は、一人、窓の外に視線を向けた。夜の街の灯りが、まるで凍てついた星のように瞬いている。
(この冷たい光景のどこかで、ユキはまだ震えている)
だが、あの告白で、彼女を縛っていた分厚い氷には、確かに亀裂が入った。
その亀裂をこじ開け、真実という光を当てる。
それが、自分の仕事だ。
宇内の瞳の奥で、静かだが、決して消えることのない炎が燃え上がった。
『爪剥ぎ』警察官VSサイコパス 志乃原七海 @09093495732p
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