禁忌の五弁花

乃東 かるる

禁忌の五弁花

 夕暮れの公園、ライラックの甘い香りが風に乗って運ばれてくる。花見客もまばらになったベンチで、私はぼんやりと花房を眺めていた。ライラックの花弁は四つに裂けているのが普通。けれど、もし五つに裂けた花を見つけたら、誰にも言わずにそれを飲み込むと、愛する人と永遠に結ばれる――そんな馬鹿げた言い伝えを、彼は私に教えてくれた。


 彼との出会いは、まるでこの世に用意された運命のようだった。幼い頃に両親を亡くし、孤独に生きてきた私にとって、彼は初めて「永遠」を囁いてくれた人。


 彼の愛は深く、心地よく、まるで私がこの世に存在する意味を全て彼が見出してくれたかのように感じられた。それゆえに、彼の言葉は、私の心に深く響いたのだ。


「試してみるかい?」


 彼の、優しくもどこか挑むような声が耳に残る。あの時は笑い飛ばしたけれど、心の奥底では、ほんの少しだけ、その奇妙なロマンに惹かれていたのかもしれない。


 あの日以来、私はライラックの咲く場所へ足繁く通うようになった。友人には「香りが好きなの」とごまかし、一人になると夢中で五弁花を探した。馬鹿げている、と頭では分かっている。


 それでも、もし、もしも見つけたら――。そんな淡い期待が、私の日常を支配していった。


 そして、ついにその日が来た。


 夕焼けに染まる公園の片隅で、私はそれを見つけた。他の花とは明らかに異なる、完璧な五つに裂けたライラックの花弁。

 心臓が跳ね上がった。震える手でその花を摘み取る。周囲に誰もいないことを確認し、ゆっくりと、口元へと運んだ。


 花は、微かに苦かった。けれど、それ以上に、甘く、そして途方もなく恐ろしい秘密の味がした。


 その日から、彼の私への愛情は、常軌を逸したほどに深まっていった。どこへ行くにも一緒、私が少しでも他の異性と話そうものなら、彼の瞳には底知れない闇が宿る。

 最初はその独占欲を「愛されている」と喜んだ。永遠に彼といる、その願いが叶ったのだと。しかし、それは次第に、私を窒息させるほどの重荷になっていった。


 彼の愛情は、私の全てを侵食していく。友人も、仕事も、趣味も、何もかもが、彼との関係に縛られていった。彼の瞳は常に私を追い、彼の腕は常に私を拘束する。まるで、彼と私が、一本の見えない鎖で繋がれているかのように。


 彼は日ごとに、私たちの「永遠」を具体的な言葉で語るようになった。それはあまりにも緻密で、家具の配置から、生まれてくる子供の名前、私たちが最期を迎える瞬間に至るまで、全てが彼の完璧な計画の中に組み込まれていた。


そのビジョンは、愛というよりは、私を完全に支配するための恐ろしい設計図に思えた。時折、彼が私にくれる花束の中に、密かに五つに裂けたライラックの花が混ざっていることがあった。そのたびに、私は身震いした。


 それは、彼が私の「願い」を知っている証であり、同時に、この状況から永遠に逃れられないことを告げる呪いの証でもあった。


 ある夜、私は悪夢で目を覚ました。夢の中の私は、淡いピンクの花びらに覆われ、身動きが取れない。

 花びらの一つ一つが、彼の瞳となって私を見つめている。私は叫ぼうとしたが、声が出ない。口の中には、あの日のライラックの苦みが、いつまでも残っていた。


 これは、永遠の愛ではない。永遠の呪縛だ。私は、あの花を飲み込んだことで、彼に、そしてこの狂った愛に、永遠に囚われてしまったのだ。


 窓の外には、満月が青白く輝いている。公園の木々が、闇の中にぼんやりと浮かび上がっていた。


 淡いピンクの花は、まだ、あの木に咲いているのだろうか。そして、もし今、私以外の誰かが、あの五弁花を見つけてしまったら――。


 私は震える。それは、あの花の呪縛に囚われた私にしかわからない、真の恐怖だった。


---


 あの悪夢の日から、私の意識は常に、彼の「愛」という名の鎖に囚われていた。彼との永遠は、私にとって窒息するような苦痛でしかなかった。

 彼の視線は常に私を追い、彼の腕は私を締め付け、私の自由は少しずつ、確実に奪われていった。友人は遠ざかり、仕事は辞めざるを得なくなり、かつてあった私の世界は、彼の存在によって塗りつぶされていった。


 彼の愛は、私を閉じ込める透明な牢獄だった。どんなに叫んでも、誰にも届かない。私の存在は、彼の一部へと溶け出していくようで、このままでは私自身が消滅してしまうと、漠然とした恐怖が心を支配し始めた。彼との「永遠」は、私自身の「終わり」を意味していたのだ。


 私は、彼の愛情が呪いへと姿を変えたことを悟っていた。あのライラックの花を飲み込んだ日から、彼は私にとって、なくてはならない存在であると同時に、決して逃れられない檻と化していたのだ。


 ある雨の夜、彼の帰りがいつもより遅かった。私は部屋の窓から、暗闇に紛れて降る雨をぼんやりと眺めていた。

 

 水滴がガラスを滑り落ちるように、私の精神もまた、ゆっくりと、しかし確実にすり減っていた。この息苦しさから逃れるには、どうすればいい?


 その問いが、私の頭の中で無限に繰り返された。その時、ふと、鈴なりに咲く花の木が脳裏をよぎった。雨に打たれ、びしょ濡れになった花びらが、まるで私自身の涙のように見えた。そして、その花びらが一枚ずつ、むしり取られる光景が幻のように脳裏に焼き付いた。――もう、私には耐えられない。限界だった。このままでは、私が壊れてしまう。彼を、この鎖を、断ち切らなければ。


 私は震える手で、引き出しの奥に隠していた古い裁縫箱を取り出した。

 中には、母から譲り受けた、先が鋭く研がれた小さなハサミが入っていた。手の中に収まるくらいの大きさしかないが、冷たい銀色の切っ先は頼もしい。


 このハサミだけが、私と彼を繋ぐ見えない鎖を断ち切れる唯一の手段だと、直感的に悟った。


 彼が玄関のドアを開ける音がした。彼の足音が、ゆっくりと、しかし確実にこちらへ近づいてくる。私は息をひそめ、ハサミを握りしめた。心臓の音が、耳元で激しく鳴り響く。


「ただいま」


 彼の甘く、しかし私には恐怖でしかない声が、すぐ傍で聞こえた。彼の腕が、いつものように私を抱きしめようと伸びてくる。


 その瞬間、私は全身の力を込めてその胸へ、ハサミを突き立てた。


 考えるより先に、体が動いた。


 彼は驚きに目を見開き、一瞬、動きが止まった。

 その隙に、私は正気を失った獣のように、何度も、何度も、彼にハサミを突き立てた。彼の体から、温かい液体が噴き出す。それは、彼の「愛」が私を侵食したように、私の手をも赤く染めていった。


 やがて、彼の体はぐったりと床に崩れ落ちた。彼の瞳は虚ろに開かれ、しかしそこには、いつものような執着は見られなかった。ただ、深く、深い安堵のような表情が浮かんでいるように見えた。


 私は、息を切らしながら、その場にへたり込んだ。ハサミは手から滑り落ち、深紅の染みが床に広がる。私の体は震えが止まらない。しかし、心の奥底では、これまで感じたことのないほどの解放感に包まれていた。


 彼は、もう私を縛ることはできない。私は、ようやく自由になったのだ。


 窓の外は、勢いを増した雨が降り続いていた。ライラックの花は、雨に打たれて、きっと今頃、その花びらを散らしているだろう。四つに裂けた花も、そして、遠い誰かの運命を待ち続ける五つに裂けた花も、全て。


 私は静かに立ち上がり、鏡を見た。そこに映る自分の顔は、血まみれで、憔悴しきっていたが、その瞳には、確かに自分自身を取り戻した光が宿っていた。


 しかし、その光の奥底には、あの日口にした花の苦みが、永遠に刻み込まれているような気がした。


 そして、この手に残る温もりもまた、私が永遠に背負っていく罪の烙印なのだと。私の皮膚の下には、あの花の苦みが染みつき、まるで五つの花弁の形をした鮮やかな痣のように、永遠に消えることなく残るだろう。


 彼の愛と、私の罪を刻みつけながら。

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