はつかん
乃志倉 恋次
第1話
優しい風がわたしの髪をなびかせる。
見渡すかぎり、あたりは緑に包まれた草原で、空も写真加工された画像のような青色だ。風と一緒に、かすかな草のにおいが鼻の奥へと染み込んでいく。
一歩、また一歩と地を引きずるように進むが、あたりの景色は何も変わらない。耳元をかすめる風の音と、足音だけが静かに響く。草と空しかないこの静かな世界は、少しだけ寂しくて、それでも心地よかった。何も考えず、ただ前に進みたかった。
――そのとき。
遠くから別の音が聞こえてきた。なにかがわたしの世界に入り込んでくる。
(邪魔しないで、こっちにこないで)
心の中で何度も訴えたが、音は近づいてくる。
それはやがて、声へと変わった。
「……な、…よな」
(静かにして、お願い)
このわたしだけの静寂な領域に何者かが無理やり足を踏み入れてくる。いや、ちがう。わたしを外へと無理やり引っ張りだそうとしているのだ。
「…よな、ねえ、…りよな!」
何か聞き覚えのある声。ぼやけていた青い空が、徐々に見慣れた天井の白色へと変わっていく。
「りよな!!」
「んん…もうなに…」
まだ半分は、夢の中にいた。
「もう8時だよ」
「それ…がどうし…たの」
「今日からまた学校でしょ」
「がっこう…うん…がっこうね…がっこう」
ブチっ。
脳の中で、神経が一本切れたような音がした。視界が一気に鮮明になって、現実に引き戻される。
「あ!!!」
声の主が姉だと気づいたのはその1秒後。そして自分が寝坊したことに気がついたのはさらに1秒後のことだった。
「やばい寝坊じゃん!もっと早く起こしてよ!」
「うちはアラームじゃないの」
そう言って、姉はわたしの部屋のドアをバタンと閉めた。
わたしは、おしりに針でも刺されたみたいにベッドから飛び起きて、急いで洗面台へ。
制服を整えて、髪を縛って――
「いってきまーす!」
電光石火の速さで朝の支度を終わらせたわたしは、少し年季の入った自転車に飛び乗った。
…こんな調子で、どんくさいわたしだけど、まぁ一応、自己紹介しとくね。
「名前は、成嶺莉余菜。ちょっち漢字むずいよね。読みは「なるみねりよな」。今日で中学3年生。いやー、歳を感じますな」
「性格は…明るいってよく言われるけど、正直、抜けてるって意味も含まれている気がする」
「趣味は音楽を聴くこと。最近は『さだめ組』ってバンドにハマってます。あの甘い声にハマっちゃった!」
「で、最近…気になってる人がいる。――けど、それはまた今度」
夢で見た空と同じくらい透き通った空に、ちょっとばかり肌寒い風が吹いていた。湿り気を帯びたアスファルトの上に、桜の淡い色がそっと重なっていた。車通りの少ない川沿いをシャッ、シャッとタイヤの音を立てて進む。
学校につき、自転車をとめ、スマホで時間を確認した。
「よかった、間にあったー。」
間に合ったことに安堵したわたしは、活発に動く肺の運動を落ち着かせ、首に垂れた汗をぬぐい、昇降口へ向かう。
――でも、何かが引っかかる。
いつもなら、正門前で誰かしらに会って「おはよ」っていうのに、今日はだれもいない。
そのとき、放送が流れた。
「始業五分前です。急いで教室に入りましょう。」
ちょっと焦ったけど、大丈夫。教室まではすぐだ。「さだめ組」の曲を口ずさみながら、のんびり歩きだす。
昇降口につき、靴を履き替えると、目の前に白い紙が貼られてあるのが見えた。
「あっ」
今日って、クラス替えだったんだ。
急いで内履きに履き替え、クラス表を見て自分の名前を確認した。
「莉余菜、莉余菜、莉余菜…あった!3-1!」
初日から遅刻はまずいと思って、すぐ教室に向かおうとしたそのとき。
「初日から遅刻はまずいってー、まじでしゃれになんない!」
その元気な声と一緒に、鼻の中に住む妖精も思わず舞ってしまうようなほのかな柔軟剤のいい香りが横を通りすぎた。
「ひなと……?」
「なるみねじゃん、おはよ!」
「お、おはよ……」
「どれどれー、えーっと俺のクラスは…3-1か!」
「えっ」
思わず、小さな声がもれた。自分でも気づかないほど小さな声だった。
時間が止まったみたいに、足も視線もその場に固まる。
クラス表を見ていた。
「おーい、はやくしねーとおくれるぞ」
声は遠くで響いてるけど、心臓の音が大きすぎて、あまり聞こえない。
目の焦点が、たった一つの名前に吸い寄せられた。
――3ー1 1番 朝倉 陽翔
(同じクラス……)
その日、わたしが教室にたどり着いたのは、始業のチャイムが鳴った7分後。
わたしの心臓が奏でた交響曲が、ようやく静かに幕を下ろしたころだった。
はつかん 乃志倉 恋次 @onpii
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