第7話

冬の冷たい風が稽古場の障子を鳴らしていた。

朝になっても陽が差し込まず、畳は冷蔵庫の中のように冷たかった。

扇を開く指先がかじかみ、骨と紙の間に霜が降りたように白く見えた。


母の咳が台所から聞こえてきた。

近頃、母は咳き込むことが増えていた。

寝ているときも、炊事をしているときも、必ず乾いた咳をしていた。

咳の合間に吐息を混ぜ、食卓に置かれた急須の湯気をぼんやり見つめている姿は、どこか影のようだった。


「……おはよう。」


「……おはよう。」


声をかけると、母は笑顔を作った。

唇の皮がひび割れ、赤黒く滲んでいた。

その笑顔を見た瞬間、蘭子は胸が痛んだ。

けれど何も言えなかった。


「……ごはんは?」


「……ないけど、お湯は沸いてる。」


「……うん。」


茶碗に注がれた湯を啜ると、胃の奥がじりじりと焼けるように痛んだ。

痛みが、わたしがまだ生きている証のように思えた。


学校では、クラスメイトが卒業後の進路の話で盛り上がっていた。

看護学校に受かった子、美容師見習いになる子、家業を継ぐ子。

話を聞きながら、蘭子は舞台のことを考えていた。

舞台がなければ、舞はただの形だけになる。

それでも、舞わなければならない。

それが自分に残された、たった一つの“生きる理由”だった。


放課後、母の薬を買いに行くため、商店街まで歩いた。

店先には正月飾りが並び、凍える空気にみかんの甘い匂いが漂っていた。

母の咳止めは、少し値上がりしていた。

小銭を数え、店員に渡すとき、手が震えて薬を落としかけた。


「大丈夫?」


「……はい。」


帰り道、薬袋を抱きしめながら歩いた。

夕陽が街を朱に染め、遠くの山裾に冷たい影を落としていた。

背中を丸めて歩く自分の姿が、ショーウィンドウに映っていた。

そこに映るのは、踊り子ではなく、ただの痩せた少女だった。


家に戻ると、母は布団に横になっていた。

頬が赤く、息が浅かった。


「……おかあさん。」


「……おかえり。」


「薬……買ってきた。」


「……ありがとう。」


蘭子は水を汲み、母の背を支えて薬を飲ませた。

母の体は軽く、支えるたびに骨ばった肩甲骨が手のひらに触れた。


「……稽古、してき。」


「……うん。」


稽古場に入ると、もう陽は落ちていた。

灯りをつけるお金はなかった。

障子の外にうっすらと月明かりが射し、畳の目がぼんやりと浮かび上がっていた。


扇を取り、正座する。

扇の骨は折れかけ、開くたびにかすかな悲鳴をあげた。

けれど開かない扇では舞えない。

力を込めて扇を開き、右足を踏み出した。

冷たい畳の感触が足袋越しに伝わる。


腰を落とし、肘を切らないように腕を返す。

祖母の声が頭の奥で響く。


——そうや。

——それでええ。


涙が出そうになった。

けれど泣かなかった。

泣くと呼吸が乱れ、型が崩れる。

舞台では涙は毒になる。

それを叩き込んだ祖母の声が、今も耳朶にこびりついていた。


扇を返すと、冷たい風が舞い上がった。

障子が揺れ、稽古場の空気が震える。

その小さな音が、かつて祖母が弾いていた三味線の音に聞こえた。


——おばあちゃん。

——わたし、まだ舞えてる?


誰も答えなかった。

それでも舞い続けた。

母が眠るあの布団の向こうで、冷たい月明かりだけがわたしを照らしていた。

朝、冷たい風が障子の隙間から吹き込んでいた。

蘭子は帯を抱きしめたまま、布団の中で目を覚ました。

祖母の匂いはとうに消えていた。

けれどこの帯だけが、眠りと現実を繋ぐ唯一の橋のように思えた。


母の咳き込む音が、台所から聞こえてきた。

その咳は昨日よりも深く、長く続いていた。

水道の音と咳が混じり、冬の朝の稽古場に響いていた。


「……おはよう。」


「……おはよう。」


母の声はかすれていた。

唇はひび割れ、頬が落ち窪み、目だけが大きく見えた。

痩せた母の背中は、湯気の立つ鍋の向こうで小さく震えていた。


「……ごはんは?」


「……お湯沸かしてる。」


「……うん。」


茶碗に注がれた湯は、白く煙っていた。

啜ると、胃の奥に熱が広がった。

少しだけ、頭がはっきりした。


学校へ行くと、廊下に飾られた習字の作品に、金賞銀賞の札が貼られていた。

名前を呼ばれ、褒められ、笑う声が響く。

その輪の中に自分の居場所はなかった。

歩きながら、稽古場のことを考えていた。


帰宅すると、母は布団の中で震えていた。

咳は止まらず、手の甲には赤黒い斑点が浮かんでいた。


「……おかあさん。」


「……おかえり。」


「……病院、行こう。」


「……お金、ないやろ。」


「……でも……」


「……大丈夫や。」


母の目が遠くを見ていた。

もう、何も映していない目だった。


夕方、稽古場に入ると陽は完全に落ちていた。

灯りをつけるお金はなく、月明かりだけが畳を照らしていた。


扇を取り、正座をする。

祖母の声が聞こえる。


——舞え。

——何があっても、舞え。


扇を開き、右足を踏み出す。

腰を沈め、肘を切らないように腕を返す。

息が白く、呼吸するたびに胸の奥が痛んだ。


——わたしは、なんのために舞ってるんやろ。


自問すると、答えが出なかった。

けれど扇を返す手は止まらなかった。

舞わなければ、生きている意味がなくなる。

舞わなければ、祖母に会えなくなる気がした。


障子が風に鳴り、冷たい空気が頬を撫でた。

その冷たさが、涙を凍らせた。


「……おばあちゃん……」


声に出すと、胸の奥で何かが崩れる音がした。

崩れた破片が血管を伝い、足元まで冷たく沈んでいくようだった。


それでも扇を閉じると、畳がきしんだ。

その音だけが、この稽古場にまだ命が残っていることを教えてくれた。


母の咳は止まらなかった。

母がいなくなれば、家も稽古場も失われる。

血筋の途絶えた桐山流には、誰も手を差し伸べてくれない。


それでも、舞わなければならなかった。


——わたしは、舞台に立つ。


畳に額をつけるように深く頭を下げると、涙が畳に滲んだ。

その涙は冷たく、そして温かかった。

夜明け前の稽古場は、真冬の闇に沈んでいた。

窓の外には雪が舞い、障子の隙間から吹き込む風は氷のようだった。

畳の上に座ると、足袋越しに骨まで冷たさが伝わった。


母の咳は、昨日から止まらなくなっていた。

もう水も受け付けなくなり、息をするだけで苦しそうに顔を歪めていた。


「……おかあさん。」


「……蘭子……」


母の声はかすれ、まるで誰か遠くの人が話しているように聞こえた。

枕元には、古びた扇が置かれていた。

祖母が使っていた、白鷺の絵柄の扇だった。

骨が折れ、紙は黄ばんでいた。


「……おばあちゃんの……」


「……あんたに……持っててほしい……」


母の瞳は潤んでいたが、涙は流れなかった。

もう体の水分すら枯れてしまったのだろうか。

蘭子は扇を両手で受け取った。

重さはほとんどなく、風が吹けば飛んでいきそうだった。


「……ありがとう。」


「……蘭子……」


「……なに?」


「……舞……辞めたらあかんよ……」


「……」


「……あんたが舞ってるとき……あんた……生きてる顔、してる……」


母の唇は乾き切り、声は途切れ途切れだった。

それでも、その言葉だけは最後まで濁らなかった。


「……わたし……おかあさんの娘で……よかった。」


母は微かに笑った。

そして、ゆっくりと瞼を閉じた。

呼吸は細く、長い間隔を空け、やがて完全に途切れた。


「……おかあさん……」


呼んでも返事はなかった。

何度も呼びかけた。

けれど、もう母は目を開けなかった。


障子の外で、風が雪を散らしていた。

雪は音もなく稽古場を冷たく染めていった。


蘭子は扇を胸に抱きしめた。

祖母の形見の扇。

血筋を失った今、この扇だけが自分を“桐山蘭子”でいさせるものだった。


泣かなかった。

泣くと扇が濡れてしまう。

泣くと型が崩れる。

泣くと、もう立てなくなる。


稽古場に入り、正座をする。

寒さで息が白くなり、畳の上に霜が降りているようだった。


扇を開き、右足を踏み出す。

腰を落とし、腕を伸ばす。

肘を切らないように。

首筋を鷺のように細く、美しく。


祖母の声が聞こえる気がした。


——そうや。

——それでええ。


母の声も聞こえる気がした。


——舞、辞めたらあかんよ。


扇を返すと、冷たい風が生まれた。

稽古場の空気が震え、障子が微かに鳴った。

その音は、三味線の音に似ていた。

祖母が撥を叩く、あの鋭い音に。


舞い続けた。

涙は零れなかった。

月明かりだけが、稽古場の中央に立つ蘭子を照らしていた。


——わたしは、舞台に立つ。


そう心の奥で呟くと、扇を返す手に、微かな熱が宿った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

舞わぬ花 柳 凪央 @YanagiNao0oo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ