第6話

秋が来たことを知ったのは、稽古場の障子を開けたときだった。

冷たい風が、夏の匂いを攫っていった。

蝉の声は消え、代わりに虫の声が夜を震わせるようになった。


蘭子は毎朝、祖母の三味線に挨拶するように、稽古場の掃除をしていた。

埃の積もった胴掛けに布をかけ、撥を取り出しては、祖母の持ち方を真似した。

弾けないのに、撥を構えると背筋が伸びる気がした。


台所では、母が何も言わずに湯を沸かしていた。

食卓には、干からびた梅干しと、茶碗に少しの白湯だけが置かれている。


「……おはよう。」


「おはよう。」


「……今日は?」


「稽古。」


「……そうか。」


母の声はかすれていた。

昨夜から何も食べていないことは、二人とも知っていた。

それでも言葉にはしなかった。


学校へ行くと、教室の窓から金木犀の香りが入ってきた。

甘くて、柔らかくて、子どものころはこの香りが好きだった。

けれど今は、胸が痛んだ。

空腹のときに甘い匂いを嗅ぐと、吐き気がすることを知った。


「蘭子ちゃん、今日お弁当ないん?」


「……うん。」


「そっか……。あげよっか?」


「……いい。」


「大丈夫?」


「うん。」


笑おうとしたけれど、顔が引き攣った。

昼休み、机に伏せると、腹の奥で何かが泡立つように鳴った。

その音が誰かに聞こえる気がして、余計に顔を上げられなかった。


放課後、校門を出ると空が高く澄んでいた。

夕焼けが赤く、街全体を燃やしているように見えた。

歩きながら、足が何度も止まりそうになった。

けれど止まると倒れてしまいそうで、必死に歩を進めた。


帰宅すると、稽古場に直行した。

扇を握る手に力が入らない。

膝を折り、腰を落とすと、畳がひやりと冷たかった。


——舞え。

——何もなくても舞え。


祖母の声が聞こえる気がした。

けれど立ち上がれなかった。

力が入らない。

足袋を履く手が震え、扇を開こうとした指が痙攣した。


「……あかん……」


涙が滲んだ。

空腹の涙は苦かった。


夜、母が戻ると、稽古場の隅で蘭子は丸くなっていた。


「……蘭子。」


「……」


「これ。」


差し出されたのは、近所の八百屋からもらったという白菜の外葉だった。

少し土がついていて、虫食いの穴が空いていた。


「……食べ。」


「……」


かじると、青臭い水分が口に広がった。

苦味と土の匂いが混ざり、吐き出しそうになった。

けれど飲み込んだ。

胃の奥に届いたとき、少しだけ意識がはっきりした。


「……ありがとう。」


「……明日も、なんとかする。」


母の声は泣いていた。

けれど涙は流れていなかった。

泣くことは許されない。

舞踊家の家に生まれた者は、泣く前に立たなければならない。


夜、布団に入ると、祖母の帯を抱きしめた。

帯からは、もう祖母の匂いはほとんど消えていた。

それでも抱いていないと眠れなかった。


——おばあちゃん。

——わたし、舞えるかな。


虫の声が遠くで鳴いていた。

その音はまるで、三味線の高音のように胸に刺さった。

朝、目が覚めたとき、布団の中で指先が冷えて動かなかった。

帯を抱きしめたまま寝ていたから、体を動かそうとすると帯の芯が胸に食い込んだ。

痛いはずなのに、何も感じなかった。

空腹で痛覚すら鈍っているのかもしれなかった。


障子を開けると、稽古場の畳に朝日が射し込んでいた。

冬が近づいていた。

空気は乾き、ひんやりとしているのに、畳の匂いだけは湿気を含んでいた。

祖母が座っていた場所に、埃が溜まっている。

拭こうと立ち上がると、眩暈がしてよろけた。

柱に手をついて立て直す。


「……」


扇を取り、正座をする。

扇の骨はところどころ割れかけていて、紙の端は薄汚れていた。

それでもこの扇がなければ舞えない。

この扇だけが、祖母と自分を繋ぐものだった。


扇を返す。

空気が震え、小さな音が畳に響いた。

その音だけが、ここに自分がいる証のようだった。


「……」


右足を踏み出す。

腰を落とすと、頭の奥で白く光る景色が浮かんだ。

舞台の上、灯りの中で、祖母が舞う姿。

客席のざわめきが消え、三味線の音が鳴り響く。

祖母の肘は決して切れず、首筋は鷺のようにしなやかで、美しかった。

その姿を思い出すたび、胸が焼けるように痛んだ。


「……おばあちゃん……」


声を出した瞬間、涙がこぼれた。

涙は扇に落ち、薄汚れた紙をさらに滲ませた。


母の声が台所から聞こえた。


「蘭子……。ごはん、ないけど……」


「……いい。」


「……水、飲み。」


「……うん。」


立ち上がり、茶碗に水を注ぐ。

水は冷たく、口の中を満たしても何の味もしなかった。

胃に落ちると、少しだけ吐き気が治まった。


学校へ行くと、廊下に焼きそばパンの匂いが漂っていた。

クラスメイトが笑いながらパンを頬張る姿を見た瞬間、視界が歪んだ。

頭の奥で鈍い音が鳴る。

壁に手をつき、深呼吸をする。

冷たい汗が背中を伝った。


放課後、帰宅すると母が稽古場に座っていた。

母の背中は細く、影のようだった。


「……どうしたん。」


「……。」


「おかあさん。」


「……ごめんな……。何も、買えんかった。」


「……」


「おばあちゃんがおったら……こんなこと……」


母の声が震えていた。

泣いてはいけないと思った。

母が泣けば、家ごと崩れてしまう気がした。


「……わたし、舞う。」


「……え?」


「舞うから。」


蘭子は扇を取り、畳に正座した。

母は黙って見ていた。

泣きそうな顔をしていたけれど、涙は出なかった。


扇を開き、深く腰を落とす。

右足を踏み出し、白鷺の首筋を作るように腕を伸ばす。

祖母の声が聞こえる。


——そうや。

——それでええ。


涙が頬を伝い、扇に落ちた。

けれどその涙は、美しいもののように感じた。

涙を流しても、舞は止まらなかった。

むしろ、涙があるからこそ、舞に命が宿る気がした。


障子の外で、風が吹いていた。

秋の風は冷たく、けれど澄んでいて、心の奥まで届くようだった。


——わたしはまだ、生きてる。


そう思えたとき、扇を返す手に力が戻った。

その小さな音は、稽古場を満たすように、確かに響いた。

冬が訪れるのは早かった。

十一月の終わり、朝になると障子が白く凍りついている日が増えた。

稽古場の畳も、踏むたびに冷たさが足袋を通して骨まで届くようだった。

蘭子は毎朝、震える手で扇を取り、祖母がいた場所に正座した。

目を閉じると、祖母の三味線が聞こえる気がした。

けれどそれは音ではなく、記憶の奥底で錆びた鈴のように微かに響くだけだった。


その日、母は午前中から出かけていた。

家にある最後の着物を質に入れると言っていた。

帰ってきた母は、小さな紙袋を抱えていた。

中には、菓子パンが一つだけ入っていた。


「……これ。」


「……いい。」


「食べ。」


「……おかあさんは?」


「私はええから。」


母の指は荒れてひび割れ、白い粉を吹いていた。

台所の水仕事が増えてから、母の指先は冬が来るたびに血が滲むようになっていた。


蘭子は紙袋を受け取り、菓子パンのビニールを破った。

甘い匂いが広がり、涙が出そうになった。

けれど泣かなかった。

泣くと喉が詰まって、食べられなくなるからだ。


かじると、砂糖とマーガリンの味が広がった。

何日ぶりかに口にする甘さだった。

噛むたびに、奥歯が軋んだ。

食べ終えると、体の奥から少しだけ熱が湧き上がるのを感じた。


「……ありがとう。」


「……ううん。」


母は目を逸らしていた。

その目には、涙が溜まっていた。


夕方、稽古場に入ると、冷たい空気が張り詰めていた。

三味線は埃を被り、扇の骨も折れかけていた。

それでも舞わなければならなかった。

舞わなければ、わたしがわたしでいられなくなる気がした。


扇を開く。

右足を踏み出し、腰を落とす。

腕を伸ばし、白鷺の首筋を作る。

祖母が見ていた頃よりも、体は軽くなっていた。

痩せ細ったせいかもしれない。

けれど踊るたび、骨と筋だけになった体の奥で、小さな火が燃えているように感じた。


「……」


息が白くなった。

稽古場の隅で風が吹き込み、障子が微かに鳴った。

その音が、三味線の調弦の音のように思えた。


——肘を切るな。

——もっと深く沈め。


祖母の声が聞こえる気がした。

泣きそうになった。

けれど泣かなかった。

舞は泣く場所じゃない。

舞は、生きる場所だ。


扇を返すと、風が生まれた。

冷たい稽古場の空気が揺れ、畳が震えたように見えた。

扇を閉じると、呼吸が荒くなり、視界が暗くなった。

そのまま畳に手をつき、しばらく動けなかった。

心臓が早鐘を打つように鳴り、血の巡りが耳の奥で轟いていた。


「……」


やがてゆっくりと立ち上がると、障子の外には夜が訪れていた。

月はなく、黒い闇が庭を埋め尽くしていた。


台所から母の声が聞こえた。


「蘭子、ごはん……ないけど、お湯沸かしてる。」


「……うん。」


茶碗に注がれた湯をすすると、喉の奥が熱く痺れた。

胃が鳴り、空っぽであることを改めて知った。


布団に入ると、帯を胸に抱きしめた。

祖母の匂いはもうしなかった。

けれど、その帯がないと眠れなかった。


——おばあちゃん。

——わたし、まだ舞えるかな。


目を閉じると、夢の中で舞台に立っていた。

灯りの中、扇を返すと、客席が光に満ちていた。

客席にいる祖母が、三味線を持って笑っていた。


——そのままや。

——そのまま、舞いなさい。


夢の中で涙を流した。

けれどその涙は、美しく温かかった。

現実では泣けない涙だった。

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