第5話「……まさかな、お前だったなんてな」



第五話:沈黙の檻


鷹仲先生は、重美を職員室に呼び出した。放課後、人気のない廊下を歩きながら、重美は冷たい汗を滲ませていた。ウサギの件で、母親の名前まで出して話をしたいと言われたことが、重美の心を重くしていた。母親と鷹仲先生の間には、一体何があるのだろうか。昨夜、母親が鷹仲先生を「手強い」「捕まるようなことしてる」と言っていた言葉が、重美の脳裏を駆け巡る。


職員室の扉を開けると、鷹仲先生は既に重美を待っていた。その表情は、いつもの冷たい威圧感をそのままに、重美を見据えている。重美は言われた通り、母親を職員室に呼んでおり、今、応接用のソファに母親が座っていた。重美は、その光景を見た瞬間、血の気が引くのを感じた。


「……まさかな、お前だったなんてな」


鷹仲先生の口から出たその言葉は、重美が予想していたような叱責や追求ではなかった。むしろ、深い驚きと、ある種の感情が混じったような響きがあった。鷹仲先生の視線が、重美から母親へと移る。母親もまた、鷹仲先生の姿を見て、同様の驚きを顔に浮かべていた。


「……わたしもよ!驚いたわ!」


母親の声は、普段の重美に対するような威圧感はなく、むしろ戸惑いと、ほんの少しの懐かしさを滲ませていた。二人の視線が絡み合い、職員室の中に奇妙な緊張感が満る。重美は、自分がこの場の存在であるということを忘れそうなほど、二人のやり取りに呑み込まれていた。


「……何年ぶりかしらね」


母親がそう呟くと、鷹仲先生は微かに目を細めた。その表情は、教師としての顔とは全く異なり、まるで過去の記憶に囚われているかのようだ。彼の目が、再び重美に向けられる。しかし、その視線には、もはや昨日のような冷たい追及の色はない。むしろ、ある種の憐憫と、同時に、より一層深い計略を秘めたような、複雑な光が宿っていた。


「……谷本さん、君のお母さんが、君の行動の背後にあることを、私が全て把握していることに気づいた方が良い」

鷹仲先生の声は、再び氷のように冷たく響いた。しかし、その声色には、先ほどの母親とのやり取りからくる動揺が、わずかに混じっているようにも聞こえた。

「万年筆の件も、ウサギの件も、すべて君を通して、君の母親に伝えるメッセージだと思ってもらって構わない。君が、私の過去にどういう意味を持つのか、お母さんもよく理解しているはずだ」


重美は、鷹仲先生の言葉に耳を疑った。自分の母親が、鷹仲先生の過去にどういう意味を持つ? そして、母親が鷹仲先生を「手強い」「捕まるようなことしてる」と言っていたのは、一体、どのような過去があるからなのか。すべてが、重美にとって未知の領域だった。


「……お母さん?」

重美が母親に問いかけると、母親は重美の手を握りしめ、厳しい表情で鷹仲先生を見つめ返した。その瞳には、娘を守ろうとする母親の決意と同時に、鷹仲先生に対する何か、拭いきれない恐怖のようなものも垣間見えた。


鷹仲先生は重美の母親に対して、ゆっくりと、しかし確信を持って言葉を続けた。

「お母さん、あなたもよく分かっているだろう。このままでは、君たち親子は、私が望む方向へと進まざるを得ない。私の手から、逃れることはできないのだ」

鷹仲先生の言葉は、重美の心に鉛のように重く響いた。母親と鷹仲先生の間の見えない糸が、重美をさらに深く、抜け出せない檻へと引きずり込もうとしている。重美は、この異常な状況を、ただ傍観するしかない無力感に打ちひしがれていた。


職員室の重苦しい沈黙を破るように、母親が口を開いた。

「……あなたのことだから、私が重美にしたことも、全てお見通しでしょうね」

母親の声は、先ほどまでの戸惑いや懐かしさは消え失せ、かつての鋭さを取り戻していた。鷹仲先生は微かに微笑んだ。その笑みは、教師の顔とは全く異なる、どこか嘲るような響きを持っていた。

「分かっているよ。君が重美を守りたい気持ちも、そして君が私に過去の借りを返したいと思っていることもね」

「借りを、返したい……?」

重美は母親の言葉に聞き返した。母親の顔には、一瞬、過去の苦い記憶が影を落とした。

「ええ。私が、あなたを……あの時、逮捕まで追いかけきれなかったことを、ずっと後悔しているのよ。あの時の証拠が、もう少し決定的なものだったら……」

母親の言葉は、断片的だったが、重美の中に強烈な衝撃を与えた。母親が、鷹仲先生を逮捕しようとしたことがある? しかも、あと一歩のところで逃げられた?


鷹仲先生は、母親の言葉にゆっくりと頷いた。

「そう、君の詰めが甘かっただけだ。だが、今回ばかりはそうはいかない。君も、重美も、私が望む通りに動いてもらうしかないのだよ」

鷹仲先生の目は、冷たく、そして獲物を狙うかのように光っていた。重美は、母親が鷹仲先生を逮捕しようとしていたこと、そしてそれが失敗に終わっていたという事実に戦慄した。さらに、鷹仲先生は重美の母親がかつて刑事部に所属していたことに触れた。

「君が刑事部にいたこと、忘れていないよ。私の弱みを握ろうと必死だった君の顔も、覚えている。しかし、残念ながら、君の過去のキャリアは、私を追い詰めるには至らなかった。むしろ、私はその経験から多くを学んだんだ」

鷹仲先生の言葉は、重美の母親がかつて、鷹仲先生を犯罪者として追い詰めていたことを示唆していた。そしてその時の母親の行動が、鷹仲先生の現在地での計画にまで影響していることを物語っていた。重美は、母親が過去に抱いた強い思いと、それが今の自分に繋がっている現実の重さを感じ、言葉を失った。鷹仲先生は、母親の過去のキャリアを知り尽くした上で、彼女の行動や動機を全て読み取り、それを巧みに利用しているのだ。重美は、母親と鷹仲先生の間にある、見えない、しかし強固な繋がりと、そして母親の過去の苦い経験が、今、自分をも巻き込もうとしていることを悟り、逃げ場のなさを痛感していた。母親が「アイツ、手強いよ!」と言っていたのは、この過去の因縁も含まれていたのだろうか。もはや重美には、何が真実で、何が策略なのか、判断すらつかなくなっていた。


第六話予告:仕掛けられた罠


鷹仲先生の執拗な心理的支配は、重美の精神を徐々に摩耗させていく。ウサギの件、万年筆の件、そして母親との過去が明らかになるにつれ、重美は学校という閉鎖空間で完全に孤立していく。鷹仲先生は、重美の弱みを握り、彼女を精神的に追い詰めるための新たな罠を仕掛け始める。重美の身に一体何が起こるのか? そして、母親の過去の行動が、重美にどのような結末をもたらすのか? サスペンスは、さらなる深淵へと突き進む。

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:熱視線、夏の残影 志乃原七海 @09093495732p

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