第2話 白い風のほとりで

年老いた亜紀子は、最期の夜も静かにひとりで迎えた。


ベッドの傍には古びた写真立てが置かれている。


映っているのは、まだ幼いタクヤと自分。


そして後ろに見切れるように立つ、あの町の小さな墓石。


深く長い眠りへと沈んでいく意識の中、亜紀子の口元はどこか穏やかにほころんでいた。


気づけば彼女は、柔らかな光に包まれていた。


どこまでも白く、風は優しく肌を撫でる。


恐怖や苦しさはない。


ただ、不思議と懐かしい香りがする。


見渡すと、なだらかな丘の上に一本の桜の木が立っていた。


枝にはまだ若い葉が息づき、根元には誰かが座っていた。


小さな背中。あの丸い肩の線。


――ああ、どうしてすぐに分かったのだろう。


「……タクヤ?」


声に出したとたん、少年はぱっと顔を上げ、ぱたぱたと駆け寄ってきた。


「お母さん……!」


その声は風の中でもはっきりと響いた。小さな腕が、年老いた母の腰に回される。


「ずっと……待ってたよ」


亜紀子は堪えきれず、その場にしゃがみこんでタクヤを抱きしめた。


涙は流れない。ここでは、心の奥に滲むように喜びが染み渡ってくる。


「ごめんね……長いこと、来られなかったね……」


「ううん。来てくれた日、ぼく、ちゃんと分かったよ。もう一人じゃないって思えた」


あの日、ようやく息子の墓前に足を運んだあのとき。


風が吹き、亜紀子の髪をそっと撫でたあの瞬間――そこに彼がいたのだと、今なら分かる。


タクヤはにこりと笑い、母の手を握った。


「ここ、すごく静かでね。たまにいろんな人が通るよ。みんな誰かを待ってるんだ」


「そう……あなたも、ずっと……」


「うん。でももう、大丈夫」


そう言って、少年は立ち上がり、手を差し出した。


「行こう、お母さん。ここから先は、こっちだよ」


見れば、丘の向こうにあたたかな光が広がっていた。


草のにおい、風の音、それらはすべて静けさと優しさに満ちている。


母は立ち上がり、息子の手を握り返した。


こんなにも小さな手だったのかと思いながら、その温もりは生きていたときよりも、ずっと強く胸に届いてくる。


「ありがとう……タクヤ」


「ううん、こっちこそ」


二人は並んで、丘を越えてゆく。歩幅は自然と揃い、足取りは軽い。


丘の稜線の向こう、白く輝く光の中へ、ふたりの影が溶けていった。


そしてまた、風がやさしく吹いた。春のはじまりのような、あたたかな風だった。

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墓守の少年 ビビりちゃん @rebron

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