6.27: 水葬のフロア
雨の日は、世界から音が半分だけ消え去る。アスファルトを叩く無数の雫の音が、他のあらゆる響きを覆い隠し、街全体を一枚の厚いヴェールで包み込む。私は、そのヴェールが降りてくるのをいつも待っていた。それが、私の仕事が始まる合図だからだ。
傘も差さずに家を出る。湿った空気が肌にまとわりつき、制服のブレザーがじっとりと重くなっていく。街は灰色に沈み、人々は傘という小さなテリトリーに閉じこもって、俯きがちに足早に通り過ぎていく。誰も、他の誰かのことなど気にも留めない。だからこそ、この日に、街の心は最も無防備に、その傷口を晒すのだ。
古びた公営体育館の前に立つ。錆びついた鉄の扉は、まるで異世界への入り口のように、この寂れた風景の中で不釣り合いな存在感を放っていた。鍵はかかっていない。この場所は、雨の日だけ、私のためだけに開かれている。
扉を押し開けると、ぎい、と長い悲鳴のような蝶番の音がした。その音を最後に、外の世界の雨音は遠ざかり、代わりに、内側に閉じ込められた濃密な静寂が、まるで水圧のように全身にかかってきた。ワックスと、長年積もった埃と、そして雨の日だけが持つ、記憶そのもののような水の匂い。そこは、音も光も時間さえも、まるで深海に沈んでいるかのような場所だった。
「ここはね、街の心臓と繋がっているの。だから雨が降ると、心の傷口から悲しみが滲み出してくる」
幼い私にそう語った祖母の手は、いつも少し冷たく、そして古い木の匂いがした。彼女の指先は、まるで木の根のように節くれ立ち、その皺の一つ一つに、この街で拭われてきた無数の涙の物語が刻まれているかのようだった。
「私たちは、その心を調律するの。痣になる前に、拭ってあげる。忘れないで、私たちは医者じゃない。外科医のように悲しみを切り取ることはできない。ただの、調律師よ。不協和音を奏でる弦を、そっと撫でて、元の響きに戻してあげるだけ」
その言葉の意味を、私は今も、この仕事をするたびに問い続けている。
裸足でフロアに降り立つ。磨き上げられた床板のひんやりとした感触が、足の裏から脊椎を駆け上がり、心臓を直接掴むように冷たく脈打った。見渡す限り、バスケットコートの白いラインだけが、世界の法則のように整然と、しかし今は眠るように引かれた、だだっ広い無人の空間。天井の鉄骨は、巨大な生き物の肋骨のように、薄暗い光の中に黒々と浮かび上がっている。
壁に立てかけてあった古いモップを手に取る。何十年も使われてきたそれは、私の手にも、祖母の手にそうだったように、まるで身体の一部のようにしっくりと馴染んだ。
フロアの中央に、ぽつんとバスケットボールが一つだけ転がっていた。街の心臓。ご機嫌な日は高く弾み、太陽の匂いがする。沈んでいる日は床に吸い付いたように動かず、湿った土の匂いを放つ。今日は、水に濡れた子犬のように、小刻みに、痛々しく震えているだけだった。その革の表面には、街の人々の漠然とした不安が、地図にない川筋のような細かい皺となって浮かび上がっていた。
やがて、その時が来た。
床のあちこちに、小さな水たまりが、まるで傷口から血が滲むように、じわりと生まれ始めていた。それは、ただの水ではない。感情の結晶だ。
仕事に取り掛かる。それは、見えない楽譜を頼りに、不協和音を奏でる弦をそっと撫でるような作業だった。
フリースローラインのすぐそばに湧いた、淡い桃色の染み。これはきっと、駅前の花屋の女の子の涙だ。好きな人に恋人がいると知ってしまった、塩辛く、熟れた果実のような諦めの味がする。モップがそれを吸い取るたび、胸の奥がきゅっと甘く痛んだ。まるで、遠い昔に失くした恋心の幻影に触れたかのように、彼女の甘酸っぱい絶望が、私の舌の上に広がる。
スリーポイントラインの外側に滲んだ、錆びた鉄の色。会社の窓際でいつも空を眺めている男の人の、声にならない怒りだ。それはじりじりと熱く、まるで皮膚の下を小さな虫が這うように、モップの柄を通じて私の腕を痺れさせる。彼の無力感が、私自身の肩を重くする。
ゴールポストの真下に生まれた、砂糖菓子みたいに脆く、きらきらと光る染み。公園のブランコから落ちて、母親に叱られた男の子の、尖った硝子みたいな悔しさ。その純粋な悲しみに触れると、自分の幼い頃の記憶が、不意にフラッシュバックして視界が歪む。忘れかけていた膝の傷跡が、今になって疼き出すような錯覚。
私は、ただ黙々と、声にならない告白を吸い上げていく。拭うたびに、心の澱が少しだけ軽くなるような、そして同時に、見知らぬ誰かの感情の欠片が、自分の中に沈殿していくような、不思議な感覚を覚えた。それは、救いであると同時に、静かな毒でもあった。祖母がなぜ早くに逝ってしまったのか、その理由の一端に触れるような気がして、いつも少しだけ怖くなる。
その時だった。
コートのセンターサークルに、今まで見たこともないほど大きく、黒ずんだ水たまりが、不吉な泉のように湧き上がっているのを見つけた。それは、ただの悲しみではなかった。インクを夜の海に垂らしたように淀み、光を一切反射しない、底なしの絶望の色をしていた。体育館の空気が、急に重さを増す。光がさらに鈍くなり、壁が内側へ迫ってくるような圧迫感。高い天井が、まるで巨大な墓石のように、私の上にのしかかってくる。
――ドン。
重く、鈍い音を立てて、街の心臓が一度だけ、低く弾んだ。まるで、熟しすぎた果実が地面に落ちて潰れたかのような、取り返しのつかない音。ボールの革には、乾いた大地のような深い亀裂が走り始めていた。その亀裂から、街の生命力が音もなく漏れ出しているのが、私には分かった。
このままでは、駄目だ。
この染みは、この街の誰かの心を、完全に壊してしまう。それは、死へと続く、静かで冷たい河だ。
焦燥に駆られ、私は黒い泉にモップを押し付けた。けれど、それはまるで意志を持っているかのように、私の力を拒絶する。拭っても、拭っても、後から後から滲み出してきて、モップの柄を通じて、凍てついた感情が津波のように流れ込んでくる。それは、誰かの「もう終わりにしたい」という、静寂よりも静かな諦念だった。
私はモップを放り出した。そして、その黒い水たまりの前に、静かにひざまずく。制服のスカートが濡れるのも構わずに、ポケットから、洗いざらしの真っ白なハンカチを取り出した。祖母が、お守りだと言って持たせてくれた、彼女自身の涙が染み込んでいるはずの布。
震える指で、その白い布を、絶望の泉にそっと浸す。ハンカチが、みるみるうちにインクを吸って夜の色に染まっていく。
私はそれを持ち上げると、祈るように、自分の頬に押し当てた。
冷たい。心が凍るような、孤独の温度。その瞬間、知らない誰かの記憶が、洪水となって私の中に流れ込んできた。色褪せた家族写真。鳴らない電話。一人分の、冷え切った夕食。空っぽの食卓。誰の名前も呼ばれない、静寂だけの部屋。その途方もない孤独が、私自身の心に潜んでいた小さな寂しさと共鳴し、涙が出そうになるのを、奥歯を噛んで必死にこらえた。
「独りじゃない」
声に出したつもりはなかった。けれど、その言葉は、確かに私の唇からこぼれ落ちて、体育館の静寂に小さな波紋を広げた。
すると、どうだろう。
床から湧き上がる水の勢いが、ほんの少しだけ、弱まった気がした。床に落ちていたボールが、先ほどよりほんのわずかだけ高く、けれど確かに、もう一度、音を立てて弾んだ。
コトン、と。
夜明けの空気に触れた雫のような、澄んだ音だった。ボールに走っていた亀裂が、僅かに塞がっている。
雨は、まだやまない。床には、これから生まれてくるであろう、無数の悲しみの予感が陽炎のように揺らめいている。私の仕事は、決して終わらない。この街に人が住み、心を寄せる限り、この儀式は永遠に続くのだろう。
それでも。
私は濡れて重くなったハンカチを固く握りしめ、もう一度立ち上がった。
独りにはしない。あなたの悲しみを、ほんの少しだけ、私も一緒に持っていくから。それが、私にできる唯一の調律なのだから。
体育館の高い窓から差し込む鈍色の光の中で、私は再びモップを手に取った。フロアに響くのは、雨音でも、歓声でもない。ただ、誰かの心を救おうとする、静かで、途方もない水音だけだった。
それは、始まりも終わりもない、循環する水の物語。その中で、私はただ、一人の調律師として、静かに立ち尽くしていた。
この街の全ての悲しみを、この身体が受け止めきれなくなる、その日まで。
祈り、或るいは、瞬き 或 るい @aru_rui
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