6.27: やがて春に溶ける - 2話
タイトル: 涙で書いた句点
◇
息をするたび、肺の奥に桜の花びらが音もなく詰まっていくような、甘い窒息感に襲われる。
街は春という熱病に浮かされていた。陽光は飽和し、あらゆる物の輪郭を白く溶かす。風は花の蜜と湿った土の匂いを孕んで肌にまとわりつき、世界という鮮やかな絵の具の中に落ちた一滴の汚水みたいな僕の心臓だけを、やたらと性急に煽る。
一年前、君がいなくなった。小春。その名前の通りの季節に、君は僕の世界から光をぜんぶ持ち去ってしまった。
「春が一番好き。だって、全部が新しくなる気がするから」
桜並木の下、君はそう言って笑った。僕の世界のすべてを肯定してくれるような、そんな笑顔だった。その記憶が、今は心臓に刺さったままの、甘い毒を塗ったガラス片になっている。呼吸をするたびに疼き、君の不在を告げる。
新しい始まりなんて、どこにもない。あるのは、君がいないという、あまりに広大な終わりだけだ。
僕はあの日と同じ道を、亡霊のように彷徨っていた。街の喧騒はすりガラスの向こう側の音みたいに遠く、人々の楽しげな表情は、まるで違う言語の映画を見ているように現実感がない。無意識に右手の薬指を、左の親指でそっと撫でる。もう何もないその場所の、冷たい皮膚の感触を確かめる。癖になってしまった、意味のない儀式。
君と初めて写真を撮ったカフェは、無機質な看板を掲げた別の店に変わっていた。ショーウィンドウに映るのは、僕の知らない、ひどく疲弊した男の顔だった。
初めて手をつないだ海辺は、残酷なほどに眩しい。寄せては返す波の音が、君の笑い声に似ていて、耳を塞ぎたくなる。それは慰めではなく、君の不在を繰り返し告げるための、空虚な響きだった。
春に溺れそうだ。君の思い出という、深く、穏やかで、けれど決して抗うことのできない流れの中で。
桜並木の終着点。そこに、蔦の絡まる古びた花屋があるのを思い出した。去年も、その前も、君と一緒に立ち寄った店だ。吸い寄せられるように、錆びたドアを開ける。カラン、と乾いた鈴の音がした。むせ返るような花の甘さと、命の源である湿った土の匂い。生と死が混じり合ったような、濃密な香りが僕を包んだ。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、老婆が顔を上げた。その皺の深い目には、すべてを見透かすような、それでいて何も裁かない静かな光が宿っていた。僕の姿を認めても、特に驚いた様子はない。まるで、僕がここに来ることをずっと知っていたかのように。
言葉が、勝手に出た。喉に張り付いたような、かすれた声で。
「……あの子に、似合う花を」
誰に、なんて説明もせずに。でも、老婆は何も聞かなかった。ただ少しだけ目を伏せ、時の流れが止まったかのような緩慢な動きで立ち上がると、店の隅にあった白い霧のような花束から、一本だけ抜き取った。
カスミソウだった。
「はい、どうぞ」
差し出されたのは、無数の小さな白い星をつけた、たった一本の枝。主役になるような、華やかな花じゃない。いつも花束の隅で、他の花を引き立てている、控えめな花。
「どんなに綺麗な花束もね、これがないと、どこか寂しく見えるんだよ。でも不思議なもんでね、これ一輪だけでも、ちゃんと世界が一つできあがるんだ」
老婆の言葉が、耳の奥でゆっくりと溶けていく。
ああ、そうか。
君は、そうだった。
僕が照らしていたんじゃない。僕が、君の光に照らされていたんだ。僕という色褪せた世界の隣で、君はいつも鮮やかに咲いて、僕の人生を彩ってくれていた。でも、君は君だけで、ちゃんと一つの、完璧な世界だった。
――春が一番好き。だって、全部が新しくなる気がするから。
君の言葉が、まったく違う意味を持って胸に突き刺さった。
君は、過去を懐かしむために春を愛したんじゃない。終わりのためにじゃない。これから始まる、まだ見ぬ未来のために、この季節を愛したんだ。
それを僕は、自分の悲しみで塗りつぶして、君の記憶を、春を、終わりの象徴にしてしまっていた。なんて傲慢だったんだろう。
堰を切ったように、涙が溢れた。熱い雫が次から次へと頬を伝い落ちる。みっともなく嗚咽が漏れた。でも、それはもう、ただ冷たいだけの悲しみの涙ではなかった。どこか温かい、許されるような感覚があった。
「ありがとう、ございます」
しゃがれた声でそれだけ言うと、僕は繊細な茎を折らないようにカスミソウを握りしめ、店を出た。
向かったのは、海だった。
夕日が溶かした金と葡萄酒を混ぜたような光が、空と海を境界なく燃やしていた。潮風が、涙の跡を慈しむように優しく乾かしていく。
この花を手向けるのはやめよう。
部屋に飾ろう。君のいない、僕だけの部屋に。
悲しみは消えない。君を恋しく思う気持ちも、きっとなくならない。
でも、君が愛したこの「始まりの季節」を、僕はもう、終わりの色に染めるのはやめにする。
灰色の世界に、小さな白い星屑が揺れている。
見上げた空は、泣き腫らした後のような、優しい青色をしていた。
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