窒息する家
鬱ノ
窒息する家
半年前のことだ。
当時、僕は一軒家に住んでいた。家賃は相場と比べて異常に安かったが、不動産屋によれば事故物件ではないらしい。
その家に引っ越してきた日、何気なくGoogleストリートビューで新居を検索してみた。玄関先の画像が表示される。視点を少し移動させると、道路脇に人がいるのが見えた。誰かが、この家の外壁の前でしゃがみ込んでいる。おそらく中年くらいの女性だろう。柵も塀もなく、モルタルの外壁が無防備に路面へ晒されている物件だ。女性は壁をチェックしているようにも見えたし、何かイタズラをしているようにも見えた。これから暮らしていく家だ。画像の撮影時期は不明だが、少し気になった。
外に出て、彼女が見ていた場所を調べてみる。家の外壁の地面から約10cmの高さの位置、コンクリの基礎部分に、こぶし大の穴が開いていた。穴の形状から水抜き穴とかではなく、何かの強い力で無理やり開けられたようだった。まったく気づかなかった。画像の女性が開けたのだろうか。穴の向こうを覗くと、暗い床下が見えた。
不動産屋に報告すべきか迷ったが、道路に面した壁にある目立つ穴だ。おそらくすでに把握しているだろう。面倒だし、このまま放置することにした。
その晩、奇妙な夢を見た。こんな内容だ。
自分は真っ暗な床下にいて、うつ伏せの姿勢で、息を止めていた。呼吸しようとしても、空気がまったく入ってこない。喉が締め付けられるようで、ただただ苦しい。ここから出なければ。体を縮め、身をよじるようにして前に進む。動くたびに肘や膝がざらついたコンクリに擦れ、全身に鋭い痛みが走った。出口はどこだ。息が詰まったまま、暗闇の中を必死に這い回る。どこもかしこも冷たいコンクリの壁だ。酸素不足で意識が朦朧とし、苦しさが限界に達した瞬間、壁にこぶし大の穴を見つけた。口を近づけると、ようやく呼吸ができるようになった。
目が覚めても、体には疲労感が残っていて、その日は日中も不安が晴れなかった。次の夜、僕は再び同じ夢を見た。
悪夢は毎晩繰り返された。空気穴を求めて暗い床下を這いずり回り、目覚めると汗びっしょりで、外壁の穴のことを思い出す。
ここに住んでいる限り、きっと悪夢は続く。家賃が安い理由はこれだ。引っ越すべきだろう。だが、起きて数分も経つと、「ただの夢じゃないか」と思い、面倒くささが上回ってしまうのだ。
ある日のことだ。夢の中で、床下を手探りで這い進んでいくも、いつもは見つけられる空気穴がどこにもなかった。
息ができないまま、壁に沿って一周しても、穴は見つからない。どこだ、穴はどこにある。不安と窒息感が一気に増す。呼吸を試みるたび、胸の中で焼けつくような痛みが走り、それは肺全体に広がっていった。苦しい。怖い。ここから出たい。パニックを抑えながら闇雲に手足を動かす。心臓の鼓動が耳の奥に響き渡った。視界が狭まり、周囲がゆっくりと回転して見える。意識が断片的になり、絶望が心を飲み込んでいくと、やがて全ての感覚が遠のいていった。
完全な無に包まれ、僕は死を受け入れた。
どこかで、短い電子音が鳴った。
目覚めた瞬間、自分が呼吸をしていないことに気づいた。深く息を吸おうとするも、空気が上手く肺に取り込めない。何度か浅く、速く呼吸を繰り返した後、やっと正常なリズムで息ができるようになった。
室内は静けさに満ち、早朝の薄明かりが窓から差し込む。胸には鈍い痛みが残っていた。睡眠時無呼吸症候群という奴だろうか。実際に、僕の呼吸は止まっていたのだ。枕元のスマホを見ると、ロック画面に「お得なクーポンが届いています」と表示されていた。買い物アプリの通知音で、偶然目が覚めたのだろう。もし音が鳴らなければ、二度と目を覚ますことはなかったかもしれない。
僕は慌てて玄関から外に出て、外壁を確認した。こぶし大の穴が、ジュースの空き缶で塞がれている。おそらく通行人が、穴にゴミを捨てたのだ。
それから引っ越し代を貯めるまでの半年間、僕は毎日穴が塞がれていないかを確認する日々を送った。
その後、別の街の小さなアパートへ引っ越し、悪夢に悩まされることもなくなった。例の家をGoogleストリートビューで見ると、画像は更新されていて、しゃがみ込んで外壁を確認する僕が映っている。
(了)
窒息する家 鬱ノ @utsuno_kaidan
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