第18話。最終話。:凪いだ海に、波紋は消えず
小説「防波堤」 最終話:凪いだ海に、波紋は消えず
あれから、二年が経った。
季節が三度目の秋を連れてきた。豊かさの中に、どこか寂寥の影が差す、澄み切った空。航平は銀行のATMの前に立っていた。慣れた手つきで画面を操作し、封筒から取り出した数枚の紙幣を吸い込ませる。振込先は『タカハシハルナ』。毎月二十五日、彼が彼自身に課した、決して途切れさせてはならない贖罪の儀式だ。
画面に表示される『取扱完了』の文字を、航平はいつもより長く見つめていた。その無機質な文字列の向こう側に、公園の砂場で笑う樹の顔がぼんやりと浮かぶ。もうずいぶんと会っていない。親権を失い、あの子を傷つけた身に、会う資格など、ないのだから。
「……行くか」
誰に言うでもなく呟き、ATMを後にする。隣のスーパーで、今夜の夕食の材料を買わなければならない。沙織から頼まれたリストをポケットから取り出す。『玉ねぎ、人参、豚ひき肉』。その下に、彼女の震えるような筆跡で『あと、おむつ。Sサイズ』と書き足されていた。
家に帰ると、部屋の明かりは消えていた。
「ただいま」
返事はない。リビングのドアをそっと開けると、沙織がソファで毛布にくるまり、赤ん坊を抱いて眠っていた。生後三ヶ月になる娘、海(うみ)。二人の罪の結晶であり、そして、二人が共に生きることを選んだ唯一の理由。
彼女は、無事に出産した。稀な血液型によるリスクは、最後まで二人を苦しめたが、奇跡的に、海は五体満足で生まれてきた。航平が真っ先に感じたのは、歓喜よりも深い安堵だった。そして、すぐに重たい現実に引き戻された。
航平は、沙織の隣に静かに腰を下ろす。寝息を立てる海は、時折眉をひそめ、小さな口をへの字に曲げる。その表情が、ふと、記憶の中の樹と重なり、胸が鋭く痛んだ。夜泣きに二人で対応する時、ふと目が合う瞬間がある。その瞳の奥には、かつての愛ではなく、互いの罪を映し出すような、複雑な感情が宿っていた。
「……おかえり」
沙織が、うっすらと目を開けた。その声は、ひどく掠れている。
「起こしたか。ごめん」
「ううん。ちょうど起きたところ」
沙織はゆっくりと身体を起こし、海の寝顔を見つめた。その眼差しは母のものだったが、かつて航平に向けられていたような、光はなかった。彼らは、恋人ではない。夫婦ですらない。ただの、『共犯者』だ。
航平がキッチンに立ち、買ってきた食材を冷蔵庫にしまいながら、ぽつりと言った。
「今日、振り込んできた」
「……そう」
沙織は短く応えると、立ち上がってミルクの準備を始めた。その背中は、あまりにも小さい。彼女もまた、航平と同じだけの罪を背負っている。いや、違うのかもしれない。航平は過去を償おうとしている。けれど私は、手に入れたこのささやかな生活を、娘を失うことを恐れて、今も真実から目を逸らし続けている。その卑劣さを、隣にいる男は決して責めない。それが、何より重い罰だった。
「ねぇ、航平くん」
ミルクを哺乳瓶に移しながら、沙織が背中を向けたまま言った。
「陽菜さん……元気にしてるかな」
その問いに、航平は答えられなかった。知らない。知る由もない。最後に言葉を交わしたのは、半年前。区役所の前で偶然会った時だ。陽菜は樹の手を引き、航平の姿を認めると、まるで道端の石ころでも見るかのような、何の感情も含まない目で一瞥し、黙って通り過ぎていった。その時、樹がこちらを不思議そうに見ていたのを、航平は忘れられない。
「……きっと、元気にやってるさ」
航平が絞り出した言葉は、ひどく空虚だった。
やがて調理を終え、航平は二人分のカレーを食卓に並べた。向かい合って座るが、会話はない。スプーンが皿に当たる音と、ベビーモニターから聞こえる海の小さな寝息だけが、沈黙を埋めている。ふと、沙織がスプーンを止め、ぽつりと言った。
「……美味しい」
その一言に、航平は顔を上げられない。それは味への感想ではなく、ただ、この静寂に耐えきれず発せられた音に過ぎなかった。ありがとう、とも、そうか、とも言えず、ただ無言でカレーを口に運ぶ。家族の食卓とは、到底呼べない空間。ここは、罰を分かち合うための場所だった。
その日の午後、陽菜は樹と二人で海辺の公園に来ていた。
潮風が心地よく、空は高く澄み渡っている。
「かあさん!見て!おっきい船!」
防波堤の先を指さして、樹が歓声を上げる。その無邪気な笑顔が、陽菜の全てだった。
「ほんとだ。大きいわね」
彼女は微笑み返し、コンビニで買ってきたおにぎりの包みを開けた。航平からの養育費には一切手を付けていない。それは全て、樹の将来のために、別の口座に積み立てられている。意地だった。あの男の金で生活してたまるか、という、最後のプライド。
防波堤。かつて陽菜は、この場所が嫌いだった。航平が何か思いつめた顔で、一人でよく来ていたからだ。彼がここで何を考えていたのか、今なら痛いほど分かる。自分を災厄とみなし、この壁の向こうに追いやりたかったのだろう。
だが、今の陽菜にとって、この防波堤は違う意味を持っていた。
あれは、自分と息子を守る壁だ。過去のしがらみや、面倒な真実から、この小さな世界を守ってくれる、頼もしい壁。
おにぎりを頬張りながら、樹がふと、動きを止めた。
「かあさん」
「ん?」
「あのね、この前、幼稚園でね、みんなでお父さんの絵を描いたんだ」
陽菜の心臓が、小さく跳ねた。来たか、と思った。いつかは来ると、覚悟していた問いだ。
「……それで?」
努めて平静を装い、息子の言葉を待つ。
「僕、描けなかった。僕のお父さんって、どんな顔してるの?写真とかないの?」
陽菜は、食べかけのおにぎりを置いた。そして、樹の前にしゃがみこみ、その小さな肩に手を置いた。視線を、まっすぐに合わせる。ごまかさない。これが、自分にできる誠意。そして、母としての覚悟だ。
「樹」
陽菜は、ゆっくりと、そしてはっきりと告げた。
「樹にはね、お父さんはいないのよ」
樹の目が、大きく見開かれる。
「いない……の?」
「うん。いないの。だから、お母さんだけ」
陽菜は、自分の声が震えていないか、それだけを気にしていた。航平の存在を、その人生を、愛する息子の世界から消し去る。これが、あの男への、私からの最終判決。
「……お母さんだけなの」陽菜は、祈るように言葉を続けた。
「それじゃ、だめかな?」
数秒の沈黙。潮騒だけが、やけに大きく聞こえる。
樹は、陽菜の顔をじっと見つめ、何かを考えているようだった。やがて、こてん、と首を傾げ、
「そっか。じゃあ、しょうがないね」
そう言うと、まるで何事もなかったかのように、にぱっと笑った。太陽のような笑顔だった。
「うん!お母さんがいれば平気だよ!」
その屈託のない言葉が、陽菜の胸に突き刺さる。涙が滲みそうになるのを、ぐっと堪えた。
ありがとう、樹。これでいい。これでいいのよ。
陽菜は立ち上がり、海を見た。かつて荒れ狂っていたように見えた海は、今は穏やかに凪いでいる。だが、水面の下では、今も複雑な潮の流れが渦巻いているのだろう。
投げ込まれた石の波紋は、決して完全には消えない。
それでも、生きていく。この、愛しい息子と二人で。
陽菜は、もう二度と、航平のいた方角を振り返ることはなかった。
【了】
防波堤 志乃原七海 @09093495732p
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