第17話:ただ、愛しているから
小説「防波堤」 第十七話:ただ、愛しているから
法廷の全ての視線が、後方の扉に突き刺さった。そこに立っていたのは、病院の白い寝間着の上にコートを一枚羽織っただけの、あまりにも儚げな沙織だった。その顔は血の気を失い、傍らで震える肩を支える母・久美子の顔もまた、涙でぐっしょりと濡れていた。
「沙織……! なぜここに……!」
航平の悲鳴にも似た声は、彼女には届いていないようだった。廷吏が制止しようとするのを久美子が必死に押しとどめる中、沙織は一歩、また一歩と、まるで夢の中を歩むようにゆっくりと証言台へと向かった。その足取りは頼りなく、今にも崩れ落ちそうだったが、その瞳には、昏い決意の光が宿っていた。
「私が、ここに来たのは、高橋航平さんを弁護するためではありません」
凛として響いたその第一声は、法廷の空気を完全に変えた。航平は息を呑み、陽菜は驚きに目を見開く。沙織は、航平に一瞥もくれず、ただまっすぐに陽菜を見つめていた。
「陽菜さん……ごめんなさい。私は、あなたの苦しみに、本当は気づいていました」
沙織の静かな告白が始まった。
航平の古い荷物から見つけてしまった、病院のパンフレットと和子からのメモのこと。最初は意味が分からず、考えないようにしていたこと。だが、陽菜からの電話で、全てのピースが不吉な形で繋がったこと。そして、その真実を航平に問い質すことができず、ただ沈黙を選んでしまったこと。
「信じたくなかったんです。航平さんが過ちを犯した人間だなんて、認めたくなかった。そして何より……私が、あなたから彼を『奪った』という事実を、どうしても受け入れたくなかったから、私はその真実から目を逸らしました」
それは、航平への愛ゆえの、しかしあまりにも利己的な沈黙の「罪」の告白だった。自分もまた、この悲劇を作り上げた共犯者の一人なのだと、彼女は自らの言葉で断罪した。
「私が倒れたのは、陽菜さんの言葉だけが理由ではありません。航平さんとの……嘘の上に築かれた幸せの重みに、私自身の心が耐えられなくなったからです。……こんな私が、航平さんの隣にいる資格も、このお腹の子を産む資格も、そして……あの子の『母親』になろうとする資格も、ありません」
沙織は深く、深く、頭を下げた。その姿は、航平にとって、陽菜側の弁護士から浴びせられたどんな痛烈な言葉よりも重い刃となって、心を抉った。自分は、愛する女性にここまで深い傷を負わせ、罪の意識を背負わせてしまったのだ。
もう、終わりだ。
航平は、ゆっくりと立ち上がった。もはや、弁解も、自己弁護も、何の言い訳も浮かばなかった。ただ、自分の傲慢な独善が全てを破壊したという、冷たい真実だけが胸に残った。
「裁判官。全て、私の責任です」
その声は、自分でも驚くほど静かだった。しかし、その静寂は、内なる嵐が過ぎ去った後の、絶対的な諦観を含んでいた。
「私が、陽菜を信じなかった。私が、母の嘘と支配を見抜けなかった。そして私が、沙織を追い詰め、苦しませた。全ての原因は、私の弱さと、身勝手さにあります」
航平は、陽菜に向き直った。数年ぶりに、正面から彼女の目を見る。そこには、憎しみも怒りもなく、ただ深い疲労と悲しみが淀んでいた。
「ですので……長男、樹の親権は、母親である陽菜に渡されるべきです。それが、私が息子に対してできる、唯一の、そして最低限の償いです」
そして、航平は頭を下げた。法廷の冷たい床に額がつくほど、深く、深く。
「陽菜、本当に……すまなかった」
数年分の過ちの重みが、その一言に込められていた。
陽菜は、ただ黙ってその姿を見ていた。憎しみも、勝利の高揚も、もう彼女の心にはなかった。目の前で頭を下げる元夫と、その隣で静かに涙を流す女性。このどうしようもなく絡み合った悲劇の果てに、ようやく一つの真実が姿を現しただけだった。
全ての証言と陳述が終わった。法廷は、判決を待つ重い沈黙に支配される。
沙織は力尽きたように椅子に座り込み、久美子がその背をさすっていた。航平は、ただ固く拳を握りしめ、これから下される審判を待った。冷たい法廷の空気が、まるで自分の罪の重さを測るかのように、ずしりと肌にのしかかった。
やがて、裁判官が静かに判決を読み上げ始めた。事実関係を確認する事務的な言葉が、まるで遠い世界の出来事のように響く。そして、誰もが固唾を飲んで待っていた、その瞬間が訪れた。
「――主文」
厳粛な声が、廷内に木霊した。
「申立人の長男、高橋 樹(たかはし いつき)の親権者を、母である申立人、高橋 陽菜(たかはし ひな)と定める」
短い宣告が、全てに終止符を打った。
航平は、崩れ落ちそうになるのを必死でこらえた。視界が白く霞み、息ができない。沙織は、久美子の腕の中で、声を殺して泣き崩れた。
陽菜は、判決を聞いても、表情一つ変えなかった。ただ、固く閉じていた瞼から、一筋の涙が静かに流れ落ちた。それは、長かった戦いの終わりを告げる涙であり、これから始まる、孤独だが我が子と共にある人生への、決意の涙だった。
裁判が終わり、人々が波のように引いていく法廷で、航平、沙織、そして陽菜の三人は、言葉もなく立ち尽くしていた。広々とした空間に、それぞれの重い息遣いだけが響く。
失われたもの、守られたもの、そしてこれから背負っていくもの。
それぞれの胸に去来する想いは、あまりにも重く、あまりにも複雑だった。
分厚い雲に覆われた空の下、高くそびえていたはずの防波堤は、跡形もなく崩れ去った。
濁流が全てを洗い流した更地の上で、彼らはこれから、何を見つけ、どう生きていくのだろうか。
その答えは、まだ誰にも分からなかった。
(第十七話 了)
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