木の間小屋
伏谷洞爺
木の間小屋
木の間小屋(このまごや)
あるところに、ひとりの百姓がいた。遠方に住む妹の祝言に出席するため、ひとり山間を歩いていた。
前日に雨が降ったのだろうか。地面はぬかるみ、思うように前へと進めない。
ほっかむりを被った額に汗がにじむ。
急がなければ、妹の祝言に間に合わなくなってしまう。
百姓は焦りを覚え、先を急ぐ。けれど、急げば急ぐほど、足下に泥がまとわりつく。
思うように前に進めない。うっすらと霧も出てきたような気がする。
背の高い木々が空を遮り、辺りは薄暗い。鳥の声もしない。風もない。
あるのは、ぬかるんだ土を踏みしめる、自分の足音だけ。
やがて道らしい道が見えなくなった。
どこから来たのか、どこへ向かっているのか、わからない。
いつのまにか、左右の景色がどれも同じように見えていた。
ふいに、不安が喉元にこみ上げる。
あたりを見回しても、頼りになりそうなものはなにもない。
(……このままでは、夜を越せぬ)
百姓は立ち止まり、荒い息を整えた。
そのとき、霧の向こうに、なにかが見えた。
木と木のあいだ、斜面の奥。
ぽつりと、小屋の影のようなものが浮かんでいる。
「ああ、助かった」
百姓はほっと胸を撫で下ろし、安堵した。
祝言には間に合わせたかったが、だからといって無理をしては元も子もない。
日は暮れかけている。木々の合間からわずかに見える空、既に暗くなりかけていた。
仕方なく、百姓は一晩をその小屋で明かすことにした。
なぜこんなところに小屋があったのか、百姓にはわからなかった。
由来など、この際どうだっていい。ともかく一晩の寝床さえあればよかったのだから。
百姓は急いで小屋へはいると、戸を閉めた。ようやくほっと一息吐く。
ここまで歩き通しだったので、疲労が溜まっていた。少し休もうと座り込む。
そうすると、急速な眠気に襲われた。うつらうつらと頭が前後に揺れる。
意識が溶けていく感覚は心地よかった。一日の仕事を終え、食事を済ませ、この時間になると生きているという実感が湧いてくる。
百姓はそのまま目を閉じ、眠ろうとした。疲れが限界に達していたのだろう。空腹感より眠気が勝っていた。
体を横たえ、水に溶ける飴のような感覚とともに眠りに落ちていく。
その瞬間だった。
――あはははははは。
どこからか子供の笑い声が聞こえてきた。
百姓の体がびくりと震えた。目を開け、首だけを動かして小屋の中を見回す。
けれど、子供などいなかった。当然だ。ここは人里離れた山奥。
口減らしでもなければ、子供などいるはずがない。何より、先ほど聞こえてきた声は、笑ってた。
疲れているのだろう。今日は一日、歩き通しだった。無理もない。
百姓仕事で体力には自身があったが、これほど歩いたことはなかった。
思えば、生まれ育った村から出るのも初めてだった。
村にいた子供たちの夢でも見たのだろう。そう思い、百姓は眠りにつく。
――あはははははは。
また笑い声が聞こえてきた。
百姓は体を起こし、あたりを見回す。小さな窓からほとんど沈みかけていた夕日が差し込んでいた。
「……気のせい、だな」
しかし、眠気は消え失せてしまった。
百姓は立ち上がり、家の周りを歩く。火を起こすのに仕えそうな枝葉を探す。
両手に拾った枝葉を抱え、小屋へと戻る。囲炉裏の前に座り、拾ってきたそれらを無造作に置いた。
持って来た荷物から火打石を取り出して、火を点ける。何度か試した後、ぽうっと火が灯った。
火が点くと、なんとなく笑い声が止んだ気がした。もともと笑い声なんてなかったのかもしれない。
ただ静かにゆらめく炎を見ていると、気持ちが和らいできた。
もしかしたら、祝言に間に合わないかもしれない。妹にはきちんと説明して、許してもらうしかないだろう。
「あいつ、怒っちまうだろうな」
思い返してみると、妹はいつもべったりだった。
将来は兄ちゃんのお嫁さんになるなんてことを言っていたりした。
「……そんなあいつが結婚か。へっおれも年を取るわけだ」
囲炉裏の火がパチパチと音を立てていた。小さく爆ぜる様子は、わけもわからず百姓の気分を和らげていた。
「それにしても、一体どんな奴なんだろな」
百姓は妹の旦那になる男と顔を合わせたことがなかった。
両親が言うには、純朴な好青年という話だ。家柄も多少ではあるが上だという。
妹が嫁ぐには、よい縁談だったと喜んでいた。
そんなふうに、百姓が祝言に対して想いを馳せていると、どんっと戸が乱暴に叩かれた。
びくんっと体が浮き上がるほどの驚いた。
「な、なんだ……」
百姓は目を見開き、戸を振り返る。
棒を噛ませ、戸締りはしている。人通りは皆無で、こんな時間に誰かがやってくるとも思えなかった。
もし人間だったなら「ごめんください」の一言があってもおかしくはない。
百姓は浅い呼吸を繰り返しながら、じっと戸を睨み付けていた。
野生動物の可能性があった。熊やおおかみだったら、手の付けようがない。
命の危機を感じて、背筋を汗が伝う。とりあえず、武器になるものを探すべきだ。
百姓はゆっくりと持って来ていた荷物へと近付いた。何か、武器になるものはあっただろうか。
そう思い、荷物へと手を伸ばしている。すると。
――あははははははは。
また聞こえた。笑い声だ。子供の笑い声。
先ほどは夢かと思っていた。まどろみの中で百姓が見た夢。
しかし、今度は違う。しっかりと頭は冴えていたし、命の危険すら感じている。
こんな状況で夢など見るはずながない。
百姓はごくりと唾液を飲み下す。
ここに至って、確信に変わる。声は、実際に聞こえているのだと。
つまり、子供の笑い声はしている。楽しげな、遊んでいるかのような声だ。
あまりにこの場にそぐわない声音だった。少なくとも、百姓にとっては恐ろしいだけだった。
「だ、誰だ……誰かいるのか」
誰何の声が震えてしまう。武器になるものを探していたが、百姓の手持ちの荷物から見つかったのは先ほどの火打ち石くらいだ。
こんなもので、熊やおおかみに太刀打ちできるわけがない。
しんと静まり返っている。戸が破られる気配はない。
熊が破ってくることはなく、わずかな時間静寂が支配する。
真っ暗だった。囲炉裏の火だけが百姓を照らしている。
ぺたぺたと、足音がした。明らかに動物のそれではない。
どこから? 百姓は耳を澄ませ、音の出所を探る。
ぺたぺたぺたぺた。
四方八方から聞こえてくるその音に、全身が強張った。
――あははははははは。
足音と同時に、子供の笑い声。
「だ、誰だ! いるなら出てこい!」
――あははははははは。
「なんの真似だ!」
――あははははははは。
「だから、誰だと……」
言いかけて、百姓は言葉を止めた。
笑い声と同時に、足音が聞こえていた。
ぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺた。
足音が、止まった。再び、静寂が訪れる。
百姓は額から玉の汗を流していた。首筋を伝い、ささくれだった板張りの床へと落ちていく。
気配が消えた。先刻までの笑い声は消え、足音は鳴りを潜めている。
「……おじさん、遊ぼう」
「う、あああああああああああああああああああっ!」
いなくなったと思った子共の足音と笑い声。しかし、それらは明確な姿を伴って百姓の目の前に現れた。
目玉が無くなり、落ちくぼんだ眼窩。耳は削がれ、ボロの着物来た男の子がそこにいた。
あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっ!
ひと際甲高い笑い声が、小屋全体に響く。
百姓は腰を抜かし、尻餅を突いた。そしてそのまま、気を失うようにして眠りに落ちたのだった。
後日、妹の旦那宅での酒の席で、百姓はこの話をした。
「……ああ、それはきっと坊主山のことだな」
「ぼ、坊主山でございますか?」
妹の旦那の父親が言うには、百姓が越えて来た山は坊主山と言われる山だそうだ。
そこには、戦国時代に戦に巻き込まれて死んだ子供や遊女がこさえた望まれた子供の遺体が捨てられていたそうだ。女の子ならまだ売り払うこともできるだろうが、それでも遊郭に売れる年齢までは育てなければならない。
貧しい山間部でのことだ。子供を育てる余裕なんてない人間は五万といる。
あの山には、そういう子供が生きたまま捨てられたり、殺されて捨てられたりしたという。
どちらにせよ、動物の餌だ。生きて出ることはできなかっただろう。
そうした子供たちの魂が寄り集まって、あの夜化け出たのだろう、と旦那の父親は語った。
そう聞くとただ怖がってしまっていたことが申し訳なく思えてくる。
少しは遊んでやればよかった、という気持ちが湧いてくるのだ。
しかし、帰りは遠回りではあるが、坊主山を迂回して帰ったのだった。
完。
木の間小屋 伏谷洞爺 @kasikoikawaiikriitika3
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