金色の風、白の追想
鍵崎佐吉
金色の風、白の追想
我々には米が必要だ。それがコミュニティの出した結論だった。
第三次世界大戦とそれに連動して勃発した無数の紛争はあらゆる文明と社会に致命傷を与えた。特に激戦区となった東アジア地域は人間の居住が不可能なほどに荒廃し、わずかに生き残った人々も故郷を捨てざるを得なかった。彼らは行く先々で忌避され、差別を受け、それでも身を寄せあってなんとか生き抜いた。そしてその過程で多くの文化と伝統を失わなければならなかった。
それから百年の時が経ち、ようやく世界に復興の兆しが見え始めた。閉鎖的な現実を打破し、皆で手を取り合って新しい未来を創ろうという機運が生まれつつあった。だがそれは同時に我々のコミュニティが解体の危機に瀕しているということでもあった。我々を結びつける思想的な繋がりは百年の間にほとんど失われてしまった。遠い祖先を共有しているだけの我々が集団として瓦解するのは時間の問題のように思われた。
しかしたった一つだけ、我々が共有できる壮大な夢があった。
「米が食いたい」
それが遺伝子に刻まれた記憶なのか、それとも集合的無意識からの呼び掛けによるものなのかはわからない。だが百年前に土地を捨てて細々と生きてきた我々は、一度も本物の米を見たことがないにも関わらず、それを無性に食ってみたいと思うのだった。大地の汚染によって農業が廃れ、生産効率を重視した合成食糧が主流になってからは、我々は常に本物の食に飢えていた。
残されたわずかな資料と老人たちの曖昧な昔話を元に米を再現しようとする試みも実行されたが、どれほど頑張っても満足のいく結果は得られなかった。かつて先祖が口にしていたそれは数千年の歴史の上に成り立った奇跡と努力の集大成なのだ。我々の付け焼き刃の真似事では到底そこには届かない。それでも米さえあればコミュニティは再び団結を取り戻し、我々の失われたアイデンティティーを復活させることができる。どんな手段でもかまわない、とにかく我々には本物の米が必要だった。
「米を取り戻そう。我々の失われた過去から」
そうしてコミュニティの中から志願者が募られ、崩壊した東アジア地域への探索隊が結成された。
彼らの目的は本物の米を見つけて、そのサンプルを持ち帰ること。しかし未だ紛争の絶えない旧中国領土への侵入は容易ではない。そこで探索隊は日本列島を目的地とし、太平洋側から海路での上陸を目指した。オーストラリアからの長い船旅の末、探索隊は旧四国地方の高知と呼ばれていたエリアに到達する。比較的戦争の被害の少ない地域であったはずだが、それでもすでに人間は一人もおらず、汚染された土壌と大気は防護服なしでは五分と持たない。探索隊は慎重に行動を開始した。しかし百年の間に田畑は完全に自然と同化しており、自生する米を見つけるのはほとんど不可能に思われた。
「収穫された米ならどこかの倉庫に眠っているかもしれない。そこに賭けるしかないだろう」
直接栽培することはできなくても、成分や遺伝子配列さえわかればそれに近いものを作ることはできる。探索隊の隊長はそう考え、都市部の捜索へと方針を切り替えた。ひび割れたアスファルトを踏みしめ、錆びついたシャッターをこじ開け、いくつもの倉庫や集積場を探し回った。しかし米に限らずあらゆる食料はすでに食い荒らされ、ほとんど残っていなかった。絶望と諦めの色が隊員たちの表情に浮かび始め、隊長の脳裏にも「帰還」の二文字がちらつく。そして不幸はそれだけでは終わらなかった。
倉庫内を探索していたその時、不意に閃光と爆音が満ちて辺りを木端微塵に吹き飛ばした。不発弾が何かの弾みで暴発したのか、それとも地雷でも仕掛けてあったのか、原因ははっきりとしない。隊員たちは倉庫の床に皆なぎ倒され、ぴくりとも動かない。朦朧とする意識の中で、隊長はどうにか体を起こして辺りを見回す。
「……これでお終い、か」
そう呟いた時、足元に何かが転がってくる。拾い上げてみると、それは百年前に製造されたインスタント食品のようだった。カップ麺なら今までもいくつか見つけたが、我々が求めているのは米なのだ。ため息と共にそれを投げ捨てようとしたその瞬間、ふとそこに書かれた字に目が留まる。一部がかすれてしまって完全には解読できないが、そこには「飯」の一字が印刷されていた。それは日本語で炊いた米を意味する言葉ではなかったか。
「まさか、これは……!」
湧き上がる感動と同時に急激な目まいが体を襲う。まさかと思って確認してみれば、先ほどの爆発で防護服の一部が破損していた。応急処置はしたが、後どれほど持ちこたえられるかわからない。隊長はふらつく体を気力で支えながら、どうにか歩き始める。例えこの命に代えても、米をコミュニティの元へ届けなければならない。パサついた乾パンや味の薄いゼリーのような食事しか知らない子どもたちに、茶碗一杯の米を食わせてやりたい。米が炊けた時のその匂いを、奥歯で噛み締める食感を、でんぷん質がもたらすであろうほのかな甘味を、我々の魂が望んでいるのだ。視界が歪み、徐々に平衡感覚が失われていく。もはや自分が前に進んでいるのかどうかも判然としない。それでも必死に足を動かして、ただ皆の元へ帰ることだけを考えた。
その時、ふと背後から声が聞こえた。振り返ってみるとそこに倉庫はなく、緑の生い茂る美しい田園風景が広がっていた。唖然とする隊長の前を二人の子どもが競走をするように駆けていく。そしてその向こう側には、金色の稲穂を実らせた広大な田んぼが広がっていた。牧歌的な暮らし、自然との調和、そして日々の食事への感謝と喜び。そこには我々が失ってしまった全てがあった。隊長の頬を涙が伝う。ここが人間の生きる場所、我々の還るべき場所なのだ。宝物のように抱きかかえていたインスタント食品を隊長はそっと足元に置く。そして目の前の光景の中へと一歩踏み出していった。
少年はふと足を止める。今、そこの田んぼの中に誰かがいるような気がしたのだ。だけどそこには収穫前の稲が生えているだけで人の気配はない。まさかお化けかな、と思ったが、こんな昼間に田んぼの中に現れるお化けなんて聞いたこともない。
「おーい、置いてくぞー」
道の先からもう一人の少年がそう呼びかける。今はお化けなんかより、とにかく腹が減って仕方がなかった。早く家に帰って、そうすればきっと母さんがおにぎりでも作ってくれるはずだ。少年は前を向いて走り出す。
彼らの背を見送るように金色の稲穂が風に揺れていた。
金色の風、白の追想 鍵崎佐吉 @gizagiza
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