夏の思い出

秋の香草

本文

 陽の下で汗ばむ季節になると、僕は思い出す。


 世界は、どこまでも続いていた。真っ白な入道雲が、僕の手の届かない遥か遠くで、僕の代わりにその巨大な腕を伸ばしてくれていたんだ。見上げる空、青い空のそのさらに先、濃紺で包まれた天上の世界へ。雲の上には、僕の知らない世界が広がっていた。


 世界は、一つじゃなかった。僕は図書館が好きだった。学校で一番好きな場所は、多分、図書館だった。本を開けば、僕はその本の主人公になれたんだ。


 君に出会ったのも確か、同じ頃だったと思う。君は炎天下の中で、すっかり日焼けした腕で、僕を引っ張ったんだ。近所の竹やぶだとか、雑木林だとか、知らない農道、知らない街並み。君にとってはなんてことない日常だったかもしれないけど、僕には毎日が小さな冒険だった。


 いつだったか忘れたけど、二人で蛍を見に行ったね。すっかり日が沈んだ後、近くの小川に足を運んだんだ。足元の様子も分からないくらい暗かった。幽霊はとっくに信じてなかったけど、昼間はなんてことない木々が、その時だけはお化けみたいに見えて、正直に言うと怖かった。君は確か、くすくす笑っていたかな。その時は口に出さなかったけど実は、君のことがとても頼りに見えたんだ。結局、河原で見られたのは暗闇だけで、蛍の光は全然、宙を舞っていなかったね。


 今だから言うけど、出会ったときは何だがむすっとした顔をしていて、君のことが少し怖かった。でもそれは見かけだけで、僕は君が見せる笑顔が本当に好きだったんだ。本当に、輝いて見えたんだ、傍で羨ましくなるくらいに。


 一つ、聞きたいことがあったんだ。枝垂しだれ桜が一番きれいに見られるのは、いつだと思う? 僕は、夏だと思ってるんだ。桜なら当然春だって、君なら言うかな。でも、緑を深めた枝々が夏の風にそよぐ姿は、どこか涼しげで、見ていていい気分がするんだ。学校の先生に同じ話をしたら、全然分かってもらえなかったけど。君ならきっと笑って、近所の枝垂桜へ連れてってくれたんだろうな。



 君は、陽炎の中に消えてしまった。本は、昔ほどは僕に心を許してくれなくなった。果てしなく続いていた世界は、いつの間にか狭まって、一つになっていた。僕の思い出が、日を追うごとに、色あせていくんだ。あんなに嬉しかったのに、楽しかったのに、怖かったのに、辛かったのに、恥ずかしかったのに、悲しかったのに。全部、過去の思い出に変わっていく。


 夏は、当たり前のように、毎年やってくるようになった。夜が明けること、日が暮れることを疑わなくなった。今の僕が一番夏を感じるのは、クーラーの冷気なんだよ。それもまた一種の趣だと、人は言うのかもしれないけど。



 でも、雲の形が日ごとに違うように、繰り返しやってくる日々も、巡る季節も。違いがないように思えてきっと、一つとして同じものはない、僕はそう信じたいんだ。君は遥か遠くに行ってしまったから、もう君に何かを伝えることはできないのかもしれない。だけど——


 それでも僕は、古びた郷愁を抱いて、澄んだ空にまた浮かぶ入道雲を眺めながら——夏の日差しを、目いっぱいに浴びようとするんだ。

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