5. 再生

 《世界A' : 2032年11月12日 神代祐》


 死体の臭いがした。

 嗅いだことなんてもちろんなかったけれど、命が絶えた臭気を、嗅覚だけでなく、肌でも直で感じていた。湿った秋の風に混じって、生の名残と、腐敗の兆しとが、奇妙に混じり合っている。それは、鼻を突くというより、むしろ空気そのものが腐りかけているようだった。

 僕も、こうなっていた未来があったのだろうか。そういう想像をすると、申し訳なくなる。それがもう嫌だ。申し訳ないと思うこと自体に、憐れみの感情が隠しきれなくて、自分が死に対してあれこれ思うこと自体、嫌悪感に満ちた行為だ。

 一度手を合わせて、軽く会釈をする。

 そうしてもう二度と、振り返ることなんてないと、泥と埃のがまとわりついた草臥れたジーンズのポケットの中に手を入れて、前へと進む。

 支援物資の一つとして給付された、シードペーパーの切れ端が入っている。

 これは古紙を原料とし、内部に花の種子を入れ込んだものだ。最後には自然に還り、大地として蘇る特徴がある。紙を大量消費し、尚且ついくらかのスペースと時間を要してしまう千羽鶴に取って代わって、全く新しい形での「平和の象徴」となっている。

 それに書いた文字を、僕は口に出して読んでみた。道の瓦礫を片付ける復旧作業もあるというのに、なぜか記憶にもない誰かのことを思い出してしまった。


 首都直下地震の影響で、様々な二次被害が起こった。

 政府は混乱を極め、自治体は崩壊した。その結果、的確な指示が出来ずにいた政府は各自治体へのサポートも不十分になり、国民の生活は一時瀕死状態にまで陥った。

 それと同じくらい批判を受けたのは、とある宗教団体のことだ。潤沢な資金がありながらも、各地支援活動そっちのけで、壊れた本部の母屋を修復しようとした。

 そうして全国民に批判の的となり、彼らは一時的に活動を停止している。

 地震から半月程度経っていても尚、話題はひっきりなしに変わっていく。悪い流れがひと段落したと思ったら、また違う悪い流れが立ち込めてくる。

 ああ、嫌になる。何もかも。

 だけど、生きていかなければいけない。

 自分の為だけじゃない。誰かの為にも。

 脳内がそんな思いに辿り着くと、瓦礫の隅っこに、白百合の花束がひっそりと置かれていた。

 風が揺らす白百合の花弁に、心の奥で、ふと違和感が生まれる。遠いどこかで、知らないはずの誰かに、会っていたような、そんな感覚。


 ――この光景を、どこかで見た気がする。

 ――誰かと一緒に、何かをしていた気がする。


 思い出そうとしても、名前も、声も、姿も掴めない。

 ただ、白い光の中で、誰かが僕に対して、「ありがとう」と小さく囁いた記憶だけが残っている。それは、形のない幻のように霞んで、結局名前も姿も、性別も思い出せないままだった。

 不思議とそれが、僕が家庭支援や医療支援を行いたいという、僕の将来の野心へと繋がっている気がする。

 僕はゆっくりと目を閉じた。

 ほんの僅かなお供物の影が長く伸びて、秋の終わりを告げている。

 刹那の記憶は、いつしか薄れて、冷たく湿った空気の中に消えていくのだろう。

 だが、それでも僕は生きている。

 選ばれたこの世界で。

 世界の中で、人は想像するのだ。

 想像しないと、現実がじわじわと心を侵食するから。

 もう一つの世界。オルタネイト。

 僕と反対の世界で、君は生きているのだろうと。

 そう願って、何も知らない僕は、死ぬまで知らないであろう君に、これまで以上に、祈るのだ。


「『さよなら。オルタネイト。』」


 一生の平和と、平穏と、無事を。


 僕の声は、風の音と、ダンプカーのエンジン音、バールの破壊音に混ざって、消えていく。

 だけど、きっとどこかで、誰かが同じ言葉を呟いている。

 まだ見ぬもう一つの空の下で。


 僕の足はまた、どこかへと向かってゆく。

 冷たい夕闇が茜色を覆ってしまっている、普通になれない秋空の下で。


 ✧


《世界B' : 2032年11月12日 鈴木涼》


 死のうと思った矢先、地震が発生した。

それから十数日経ったにも関わらず、瓦礫の山の間を、重機の音が幾度となく響き渡っていた。

 乾いた鉄の音が、崩れた街にゆっくりと反響していく。

 私の存在した場所は、もう遠い記憶の彼方だ。

 家は崩れ、所有物も、思い出も、大切にしていたであろう物も、全部失った。唯一残っていたのは、携帯食や防災グッズを詰め込んだ非常用リュックと、カラビナにぶら下げられた、何の変哲もない折りたたみ傘だった。

 それ以外は、全て壊れた。

 でもそれよりも先に壊れたのは、人の心だった。一度穴が開いてしまうと、再生なんてできずに延々と空白が広がってしまう、人の心だった。

 ママは言った。

「ごめんなさい」と。

 私はママの涙を拭った。

 だって、この絶望の中で、泣くよりも先にすべきことがあるような気がしたから。

 今やっとの思いでこの場所に立っている自分が壊れないように、そうやって誰かを気遣うしかなかった。


 静まり返った町では、撤去作業員たちが無言で瓦礫を片づけている。

 その背中が、ひどく遠くに見えた。動く人間たちの輪郭はぼやけて、感情のない空洞のように見えた。

 私だけが世界の端で、音も色も持たずに立ち尽くしている。自分がここにいることすら、曖昧な気がした。


  食料を配給するボランティアの手伝いが終わったあと、お礼として小さなチロルチョコを貰った。

 その瞬間、胸の奥で何かがきゅっと鳴った。

 涙がこぼれそうになる理由は、うまく言葉にできない。

 ただ、包み紙の手触りを指先で確かめながら、「私は、今、ここで生きている」、と思っていた。

 それだけで、どうしようもなく息が詰まった。唾を飲み込むようにして涙をこらえた後、私はただ、そのパッケージを見ていた。

 そこには、胸の奥に小さな違和感があった。

 ――この場所で、誰かに出会ったような気がする。

 名前も、声も、姿も覚えていない。

 けれど、心が揺れていた。

 まるで、かつてこの街で会話を交わしていたように。

 空を見上げた。こんなにも絶望を纏って、見窄らしく変わってしまった街にも、いつもと同じように優しい午後の青空が広がっている。冷たい風が汗ばんだ頬を撫でて、上空には綿飴のようなふわふわの白い雲がまったりと動いている。

 ああ、世界は、なんて優しくて、なんて苦しいのだろうか。

 こんな綺麗な空を見ても、やはり思い出せないでいる。

 目を閉じて、私は言った。


「ありがとう」


 なぜだろうか。

 決して記憶なんてなくても、これだけは、今すぐに言わなければいけない気がした。


 右手にちょこん、と置かれた正四角錐台のチョコとは別に、左手で握りしめた凹凸紙が、弱弱しい皺を作っていた。

 その紙片には、私の字が、黒インクによって淡く滲んでいる。

 私はその言葉を口に出してみた。

 誰かの為と、自分の為に。

 全て人は、願うのだ。

 誰かがこの世からいなくなると、もう一つの世界では、誰もいなくならないように。

 一生の平穏と、そこでの幸せを。

 いつかまた、遠いどこかで。

 形は違っても、何らかのの記憶はきっと深く絡み合いながら、浅く息をし続けているから。


 記憶も、存在も、儚くも確かに繋がっていた証として、種子を抱いた一枚の手紙は、やがて風に乗って、前へ前へと進んでいく。

 いつか花になって、再び会えるであろうその日まで、光よりも微かな希望を絶やさぬまま。


「『さよなら、オルタネイト。』」


 完


 

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さよなら、オルタネイト。 一ノ宮ひだ @wjpmwpdj

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