「白い息が、触れる距離」

 雪の朝は、世界が少しだけ静かになる。


 音が遠くなって、色が薄くなって、

 そのぶん、隣にいる人の気配だけがやけに近く感じられる。


 通学路を歩く二人の足音も、雪に吸い込まれて小さかった。

 ——代わりに、吐く息だけが白く目立つ。

 前を歩く紬の息は細く長く、りんの息は少し短くて、追いかけるみたいに弾む。


 前を歩くのはつむぎ

 同じ中学一年生なのに、頭ひとつ分くらい背が高い。

 マフラーの端が風に揺れるたび、凛はそれを目で追ってしまう。

 揺れるたび、紬の首元からあたたかい色がちらりと見える気がして、目を逸らせない。


(置いていかれないようにしなきゃ)


 凛は歩幅を少し広げる。

 でも、雪で足元が不安定で、どうしても遅れてしまう。

 靴底が雪を噛む音が、きゅ、きゅ、と控えめに鳴る。

 そのたび、凛の肺が冷たくなる。吸った空気が喉の奥をひやっと撫でて、吐けば白くほどける。


「……滑るから、気をつけて」


 振り返らずに投げられた声。

 それだけで胸が少し温かくなるのが、悔しい。

 紬の声には、呼気が混ざる。寒さの中で少しだけ低くなって、それが凛の耳に触れると、皮膚の薄いところがぞわりとする。


 紬は優しい。

 だから、凛はずっと思っていた。


(優しいだけなんだ)


 背が高くて、しっかりしていて、

 小さい子を放っておけないタイプ。


 自分は、きっとその「守る対象」。

 凛の肩は、制服の上からでも小さい。紬の隣に立つと、世界の見え方が違う。

 それ以上になれるわけがないと、

 そう思い込むことで、気持ちを守っていた。


 雪を踏み外して、凛の足が滑る。


「あっ——」


 転ぶ、と思った瞬間、

 手首を掴まれて、体が引き寄せられた。


 冷たい空気の中で、掴まれた場所だけがはっきり熱い。

 ——布越しじゃない。手袋の縁から、紬の指が凛の素肌に触れてしまったのかもしれない。

 そこだけが、急に現実になる。


「大丈夫?」


 紬の声が近い。

 近すぎて、顔を上げられない。

 凛の吐いた息が、二人の間で白く溜まり、紬のマフラーに吸い込まれて消える。

 自分の息が、紬の首元に触れてしまった気がして、凛の耳が熱くなる。


「……うん」


 凛の答えは、ほとんど息だった。

 短く吐いた白が、すぐほどけていく。

 紬の息はもう少し長くて、凛の頭の上を静かに撫でるみたいに流れる。

 凛はそれを、見てしまう。感じてしまう。


 紬はすぐに手を離そうとする。

 その動きが、少しだけ名残惜しそうに見えて、

 凛の胸がきゅっと締め付けられる。


 ——離れると、また寒くなる。

 体温を知ってしまうと、冷たさが刺さる。

 そんなふうに思う自分が、情けなくて、でも嬉しくて、どうしようもない。


「今日はさ」


 歩き出しながら、紬が言う。


「雪、深いから。手、つないだ方がいい」


 理由は、ちゃんと用意されている。

 優しさの、言い訳。

 紬の言葉は軽いのに、凛の胸の中では重い。


「……うん」


 断れるはずもなく、

 凛は小さく返事をする。


 指が絡む。

 手のひらの大きさの違いが、はっきりわかる。

 紬の手は、凛の手を包むように形が合ってしまう。

 合ってしまうことが、いちばん怖い。


(ああ……)


 好きだ、と思ってしまう。

 どうしようもなく。

 手の熱が、じわじわと指先から腕の内側へ昇ってくる。

 その熱が、心臓の近くまで伝わってくる気がして、凛は息を整えようとする。

 でも息を吸うたび冷たくて、吐くたび白くて、余計に紬に気づかれそうで。


 凛は、こっそり手を握り返す。

 ほんの少しだけ。

 紬が気づかない程度に。——気づいてほしい程度に。


 でも同時に、

 この手は、いつか自分じゃない誰かとつながれるのだと、

 そんな未来も勝手に想像してしまう。

 紬の大きな手が、別の子の手を包んでいるところ。

 その想像が、凛の喉をきゅっと締める。

 吐いた息が、途中で引っかかって、白が小さく途切れた。


 学校が近づくにつれて、

 凛の胸は重くなっていった。


 この時間は、校門で終わる。

 いつも、そうだ。

 手が離れる瞬間が見えてしまうと、今の温かさが急に痛みに変わる。


「ね、紬」


 凛は、雪を踏む音に紛れるように声を出す。


「なに?」


「……紬ってさ」


 言いかけて、止まる。


 ——私のこと、どう思ってる?


 そんなこと、聞けるわけがない。

 聞いた瞬間、いまの手の温度が、ただの「優しさ」に確定してしまうのが怖い。

 温かいものが、温かいまま終わってしまうのが怖い。


「……寒くない?」


 代わりに、どうでもいい言葉が出た。


 紬は一瞬驚いた顔をして、

 それから少し困ったように笑った。

 その笑みが、白い息の向こうで柔らかく見える。


「凛が寒そうだから」


「え?」


「手、冷たい」


 そう言って、絡めた指に力を込める。

 ぎゅ、と包み直される。

 凛の指先が、紬の掌の中心に収まって、逃げ場がなくなる。

 熱が増える。

 その熱が、凛の皮膚の薄いところをじかに押してくるみたいで、思わず息が漏れた。


 凛の心臓が、どくん、と大きく鳴った。

 白い息が、かすかに震える。

 息を吐くとき、紬に聞かれてしまいそうで、凛は唇を噛む。


(ずるい……)


 そんなこと言われたら、

 期待してしまうじゃないか。

 でも、きっとこれも、

「小さい子が寒そうだから」。


 ——そうやって、また自分で自分に言い聞かせる。

 言い聞かせないと、手の温かさだけで泣きそうになるから。


 校門が見えてくる。

 風が強くなって、雪が少し横に流れる。

 紬のマフラーが揺れて、凛の頬に冷たい粒が当たった。


 凛は、覚悟を決めたように息を吸う。


「……私さ」


「うん」


 紬の返事が、妙に近い。

 同じ歩幅のはずなのに、いつのまにか紬は凛の速度に合わせている。

 それが、凛にはわかってしまう。


「早く、背、伸びたい」


 紬が、少しだけ立ち止まる。


「どうして?」


 問い返されて、凛の喉が乾く。

 雪の冷たさとは別の熱が、胸の奥でふくらむ。


「……追いつきたいから」


 言葉は、半分しか本当じゃない。

 でも、半分は本当だった。

 追いつきたいのは、背じゃなくて——隣の、距離のこと。


 紬はしばらく何も言わず、

 それから、凛の手を離さずに、少し屈む。


「じゃあさ」


 目線が近くなる。

 凛の吐く白い息が、紬の唇のあたりで揺れる。

 紬の息も混ざって、二人の間の白が、ふっと濃くなる。

 息が、触れている気がして、凛は息を止めた。


「伸びるまで、待つ」


 その一言で、凛の胸がいっぱいになる。


 待つ、という言葉の意味を、

 凛は深く考えないようにした。

 考えたら、涙が出てしまう。

 温かさが、ただの温かさじゃなくなってしまう。


 雪はまだ降り続いている。

 二人の足跡は、身長差のぶんだけ、

 少しずつ間隔がずれているけれど。


 手は、最後まで離れなかった。

 ——離れないように、凛がそっと握り返したことを、

 紬が少しだけ強く握り返して返したことも、

 凛は「偶然」だと思うことにした。


 そうしないと、胸が、あまりにも熱かったから。

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街角百合【不定期連載】 鈑金屋 @Bankin_ya

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