『まぶたの向こうで春が咲いた』
夕陽で金色になった駅のホーム。
いつもならスマホで音楽流しながら、なんとなく周りをぼーっと見てるだけ。
けど、その日は違った。
視界の端でふと、柔らかい何かが揺れた。
風にたなびく髪。真っ白なブラウス。
ほんの少し、下を向いた横顔。
何気なくそっちに目を向けて、それきり、動けなくなった。
ひとつ先のベンチ。
座ってるのは、私と同じ制服――でも、あの子はきっと一年生。
鞄を膝に置いたまま、ちっちゃくて、すごく静かに座ってた。
文庫本を開いたまま、うとうとしてる。
細い指でページを押さえたまま、ふわっと首が傾いて……また、戻って。
睫毛、長いな……って、思った。
なんか、ちょっと震えてて、ほんとに寝てるのか夢見てるのかわかんない感じ。
その姿が、なんか、
まるで、ガラス細工みたいだった。
触れたら壊れそうで、でも、目を逸らしたら消えちゃいそうで。
――いや、なに言ってんの私。
こんなの、ありえないでしょ。ほんとバカじゃないの。
でも、
息するのも忘れるくらい、きれいだった。
指先が冷たくなって、胸がぎゅって痛くて、心臓の音がうるさかった。
どこを見ていいのかもわからないくらい、全部が、可愛かった。
手とか、制服のしわとか、膝の揃え方とか、
どうでもいいようなとこばっか見てたのに、全部ちゃんと覚えてる。
このまま、声をかけたらどうなるんだろう。
笑ってくれるかな。警戒されるかな。
でも、たぶん私、いま顔に出てる。
こんなふうに、誰かを見つめてる顔、してるって。
寝息みたいな呼吸が止まった気がして、ハッと顔を上げたその子が――
こっちを見た、気がした。ほんの一瞬。たぶん目が合った。
でも、
私の世界は、もう、その一瞬で充分だった。
誰かに「恋ってどんな感じ?」って聞かれたら、
私はたぶん、今日のこの夕方を、まるごと差し出す。
だって、きっとこれがそうだから。
一目惚れって、こういうやつでしょ?
*
電車に乗っても、心臓の鼓動が静まらなかった。
イヤホンから流れるお気に入りの曲も、今はぜんぜん耳に入ってこない。
ぼーっと窓の外を眺めながら、思い出してばかりいた。
あの子の、伏せたまつげ。かすかに動いた指。
本を持つ手の白さと、その表紙の色。
文庫本だった。
装丁、見たことある気がする。たしか、グレー地に淡い花の絵。
……タイトルは、見えなかった。
でも、なんだろう。無性に、知りたくなった。
電車を降りて、改札を出て、帰るはずだったのに。
気がついたら、私は駅ビルの階段を登ってた。
そのまま本屋へ入って、文庫コーナーをくるくる歩き回った。
なにしてんの、私。
心の中で自分を笑いながら、でも止まらなくて。
ふと、目にとまった棚。
あった。
表紙の花、これだ。
「春にして君を想う」――
タイトルを読むだけで、少し息が詰まった。
やっぱり、あの子に似合う。
私はそっと、それを手に取る。
なんでもない風を装ってレジに向かうけど、たぶん顔は、ちょっと赤い。
買った本をリュックにしまうとき、思った。
――同じものを、持ってるかもしれないって、
それだけでちょっと、近づけた気がする。
触れたこともないくせに、なに自惚れてんだろう。
けど、
同じ本を好きだったらいいな、って。
同じページをめくって、同じ台詞に胸を詰まらせてたら、いいなって。
明日、またホームに行こう。
話しかけなくてもいい。目が合わなくてもいい。
でも、バッグの中に、この文庫本を忍ばせて。
あの子と、ちょっとだけ“同じ”を持って、並んでいられたら。
それだけで、
今日は――恋のはじまりとしては、十分すぎるくらい。
*
ページをめくる指が、ぎこちないのはわかってた。
けど、それでもやめたくなかった。
家に帰って、部屋着に着替えて、ベッドの上でうつ伏せになって。
スマホじゃなくて、本を開いてるのなんて、たぶん人生で初めてだった。
しかも、文庫。
表紙の手触りとか、文字の並びとか、なんか、全部が新鮮すぎる。
「春にして君を想う」
題名、なんか切ない。よくわかんないけど。
でも、あの子が読んでたの、これなんだって思うだけで、ちょっとだけ胸があったかくなる。
読み始めて、すぐに気づく。
――難しい。
地の文って、こんな感じなんだ。
会話文ばっかじゃないし、登場人物の心の動きが、ふわふわしてる。
え、いま誰が話してんの?
なんでこの人、急に泣いてんの?
「胸の奥に靄がかかったようで」って、どういう意味?
……心が霧に包まれるって、なに?
わかんないことだらけで、何回も同じとこ読み返す。
ページは全然進まないのに、目だけがどんどん疲れていく。
ついにスマホで「心理描写 意味」とか検索してる自分に気づいて、笑った。
でも、
途中でふっと、
主人公が「あなたの笑顔が、朝焼けよりあたたかかった」と思う場面があって。
その言葉だけ、すごく、すとんと胸に落ちた。
……わかる、気がする。
私も、あの子を見たとき、
ただ眠ってただけの顔なのに、世界が明るくなったみたいだったから。
ページの隅に、小さく爪で折り目をつけた。
人生で初めて、本にそんなことしてみた。
これはきっと、あの子のことを思い出すページだから。
読むの、下手くそでもいい。
時間がかかっても、意味が半分しか掴めなくても、
それでも私は、最後まで読みたいって思った。
あの子の世界を、少しでも感じたくて。
*
放課後の駅のホーム。
夕焼けの光が斜めに差してきて、風が制服の袖を揺らしてる。
今日は、立ち読みじゃない。本を開いてるの、私。
ベンチに座って、文庫を膝に広げてる。
うつむいた姿勢で、ページに集中してるつもりだけど――
眉間、たぶん思いっきり寄ってる。
「ちょっと〜、めっちゃ怖い顔してるって」
不意に声をかけられて、びくっと顔を上げた。
横に立ってたのは、学校の友達。
あー……ごめん、と小さく笑って、慌てて眉をゆるめる。
「いやー……気になって、続きがさ」
自分でもびっくりするくらい、誤魔化す口調が軽い。
けど、内心はずっとざわざわしてる。
主人公の気持ちが少しずつ見えてきて、今ちょうど――大事なところだった。
「ふーん? なんか意外。読書キャラじゃないし」
「うっさいわ」
からかう声に肩をすくめながらも、目線はつい本に戻る。
早く続きを読まなきゃって、焦る気持ちが胸の奥でつついてくる。
「カラオケ行く?」
少し迷って、それから首を横に振った。
「ごめん、……もうちょっと、読みたいから」
「まじ? 本優先!?」
笑いながら友達は手を振って、階段の方へと歩いていく。
私はそれを背中越しに見送り、もう一度ページに目を落とした。
風が吹いた。ページがめくれるのと同時に、髪が頬に触れた。
そして――
「あの……」
小さな、小さな声だった。
最初は風の音かと思った。
顔を上げると、そこに――いた。
あの子。
昨日、うとうとしていたあの子が、目の前に立ってた。
驚いて、ほんの少しだけ目を見開いた。
けど言葉は出てこない。ただ、心臓の音だけが急に大きくなる。
あの子は、ほんの少し制服の裾を握りながら、そっと言った。
「あなたも、その本……好きなんですか?」
脳がうまく働かない。意味はわかるのに、返事が遅れる。
でも、それでも、どうにか声を絞り出した。
「え……?」
間の抜けた返事になってしまった。
自分でも情けない、って思うくらいの声。
けど、あの子は、にこっと小さく笑ってくれた。
それだけで、膝が抜けそうになる。
「私も、好きなんです」
――うそでしょ。
こんなこと、ある?
ぎこちなくうなずいた。
もう、顔が熱くてしょうがなかったけど、それでもちゃんと。
「……うん」
私も、好き。
ほんとに、そう思った。
この本も、この子も。
*
「……うん。わたしも、好き」
そう答えた瞬間、あの子はふわっと笑った。
大きく笑うんじゃなくて、ほんとに、花びらがそっと揺れるみたいな笑顔。
その笑顔があまりにも優しくて、
うそつけなくなった。
「……ほんとは、ね」
ページに視線を落としたまま、ぽつぽつ言葉をつむぐ。
「読書とか、全然してこなかったんだ」
あの子は、驚いたような、けど否定はしない顔で、ただ聞いてくれてる。
「最初、文字多すぎて意味わかんなくて……登場人物の気持ちも、なに考えてんの?ってなるし」
苦笑しながら自分で言って、情けないなあって思うけど、でも止まらない。
「でもさ。
ときどき、ほんとにたまに、ぽとんって、言葉が落ちてくるの。
なんか、胸の奥に“これだ”って響く瞬間があって。
それが気になって、続きをめくっちゃう」
あの子は、うん、と小さくうなずいた。
「まだ半分くらいなんだけど……
なんとなく、あと少し読んだら、掴めそうな気がして」
そこまで言って、急に恥ずかしくなった。
なに語ってんだ、私。かっこ悪。
顔、たぶんもう真っ赤だ。視線を落としたまま、本の表紙を指でなぞる。
けど――
「それって、すごく、素敵です」
あの子の声が、静かに胸に届いた。
見上げると、彼女は微笑んでいた。
言葉じゃなくて、ただその表情が、まっすぐに伝えてくる。
(見てるよ)
(ちゃんと、届いてるよ)
って、そんなふうに。
……なんだろう。
ただ笑ってくれただけなのに、泣きそうなくらい、うれしかった。
まるで、
はじめて誰かに「がんばってるね」って言ってもらえた気がした。
ページの内容はまだ全部はわからない。
でも、この時間だけは、心にちゃんと届いてる。
ただ黙って座ってるだけ。
ただ隣で、文庫本を抱えてるだけ。
それだけで、
いまの私は、もう――幸せだった。
*
「あの……私は次の電車です」
小さくそう言って、あの子は笑った。
「また、お話ししましょうね」
その言葉だけを残して、改札の方へと歩いていく。
振り返りはしなかったけど、私はしばらく、その背中を見送っていた。
*
夜。
部屋の明かりを落として、ベッドに寝転がる。
机のスタンドライトだけが、静かに灯っている。
膝の上には、あの文庫本。
静かなページの中に、私はまた迷い込む。
文字のリズムがすこしずつ身体に馴染んできて、心の動きもわかるようになってきた。
(ああ、この人、寂しかったんだな)
(この台詞、ほんとは嘘だ)
そんなふうに、“読めている”感覚が、少しずつ育っていく。
でも、ふと――
ページの途中で、思考がふっと止まった。
(……私、なんで、こんなに一生懸命読んでるんだろう)
もともと、本なんて読まなかった。
この物語にだって、偶然の出会いだった。
じゃあ、なぜ今、ページをめくる手を止められないのか。
わかってる。
あの子が読んでたからだ。
それだけで、手に取った。
その世界に触れて、同じ景色を見たくなった。
……一目惚れだった。
最初に見た、眠たげな横顔。伏せた睫毛。
胸がぎゅっと締めつけられて、もう、目を逸らせなかった。
ただ、可愛いとか綺麗とか、そういう言葉だけじゃ言い表せない。
あの子が本を読んでいたこと。静かに息をしていたこと。
その全部が、どうしようもなく、私の心に降ってきた。
(……こんな気持ち、言っていいのかな)
“本が好きなんですか?”って言ってくれたあの笑顔。
その穏やかさを、曇らせてしまうかもしれない。
私は、本が読みたかったわけじゃない。
ただ、あなたが読みたかっただけで――
そんな気持ち、
伝えてしまったら、きっと、困らせてしまう。
(ねえ、あたし……ずるい?)
ページの上に、視線を落としたまま、ひとりごとのように思う。
恋って、こんなに苦しいんだ。
胸があったかいのに、ずっと痛い。
読み進めても、どこかに“答え”があるわけじゃなくて、
でも、それでも――
私は、
また明日も、ホームに行くだろう。
言葉にはできない気持ちを、本のページに挟みこんだまま。
*
数日たっても、私の通学ルートは変わらなかった。
放課後はまっすぐ駅のホーム。
あのベンチの、端っこ。文庫本を膝に置いて読むふりをする。
……いや、読む「ふり」じゃない。ほんとに、読んでる。
前よりも少しだけページが進むようになってきた。
前よりも、ほんの少し、言葉が心に届くようになってきた。
あの子に会えるかどうかは、日によって違う。
でも、今日は――いた。
あの時と同じ、制服。
今日も髪はきれいに揃っていて、手には文庫本を抱えていた。
階段から降りてきて、私のすぐ近くのベンチに、そっと腰を下ろす。
……どきどきが、止まらない。
「こんにちは」
静かな声が、私の肩をやさしく叩いた気がした。
「……あ、うん、こんにちは」
挨拶ができた。それだけで、心が跳ねる。
「その後、どうですか? 本のほう」
私は少し口ごもってから、正直に答えた。
「うん……なんかね、前よりずっと、わかるようになってきた。
前は、言葉の意味ばっか気になってたけど、今は――なんか、気持ちが入ってくる」
「わかります。意味じゃなくて、“感じる”ようになるんですよね」
その言葉に、思わず目を合わせた。
あの子は、また、あの微笑みで私を見ていた。
(この笑顔がずるいんだよ……)
心の奥がまた、じんわり熱くなる。
「実は、わたしも昨日、二回目を読み終えたんです」
「二回目?」
「ええ。最初に読んだときと、まったく違う場面で涙が出ました。
……あなたも、きっと、二回目を読んだら、もっと好きになります」
なんだろう。
ただ“本の話”をしてるだけなのに。
それだけで、自分の気持ちが通じたような、受け止めてもらえたような――
そんな気がした。
けど、
それでも、やっぱり私は迷っていた。
(この気持ちを言ったら、全部壊れるかもしれない)
私がこの本を読んでる理由。
頑張ってる理由。
本当は“文学に目覚めた”わけじゃない。
ただ、目の前にいるこの子が、私のすべてを変えてしまったから。
けど、それを言葉にしてしまうには――
あまりにも、彼女の笑顔がまぶしかった。
だから私は今日も、本の話だけをする。
それだけで、幸せだと思えてしまう自分が、少しだけ、情けない。
でも、
きっと、いつか。
“あなたが読んでいたから、私も読もうと思えた”って、
言える日が来ると信じてる。
*
今日もホームのベンチには、ふたり。
並んで座るけれど、ぴったり隣ではなくて、ほんの少し間を空けて。
肩が触れることはない。でも、その隙間はもう、気まずくない。
風が吹くたび、制服の裾が揺れる。
めくれそうになるページを、お互いそっと指で押さえる。
そんな些細な仕草が、自然と重なるようになっていた。
沈黙の中で、それぞれの文庫本を開いていた。
そしてふと、あの子が静かに言った。
「……わたし、あのシーンが好きです。
主人公が、ひとりきりで歩きながら、自分の気持ちを探す場面。
“さみしさと、あたたかさは、ときどき似ている”っていう、あの台詞」
わたしは息を飲んだ。
それ、昨日、読んだばかりだった。
「……わかる。
あたしも、そこ読んだとき、なんかこう、胸に引っかかった感じがした」
「引っかかる、っていうの、すごくわかります」
あの子はうれしそうに笑った。
その顔を、わたしは横目で見ながら、少し迷ってから言った。
「……ねえ、どこに栞挟んでる?」
あの子は目を瞬かせて、手の中の本を見つめた。
「え……たしか、このあたり――」
わたしたちは同時に、ページを開いた。
――同じ場所だった。
ほんの数行のズレもなく、
まったく同じ場面に、栞が挟まれていた。
あの子が、そっと息をのんだのがわかった。
「……すごい偶然ですね」
「……うん」
けど、それ以上、言葉は続かなかった。
なにかを言えば、いまこの気持ちが崩れてしまいそうで。
胸の奥がじんと熱くなる。
偶然じゃないって思いたい自分と、偶然だと思わなきゃいけない自分。
そのふたつが、心のなかで押し合ってる。
あの子は、そっと目を伏せた。
風の音だけが、ホームを撫でていく。
ほんとは言いたい。
「それって、あなたとわたしが同じ気持ちだったってことじゃない?」って。
でも言えない。怖くて、怖くてしょうがない。
けど――それでも。
そっと、あの子の本と自分の本を、少しだけ近づけた。
並んだページが、まるでひとつの物語みたいに見えた。
そのとき、あの子が言った。
「……この本を、誰かと一緒に読むのって、
はじめてです。うれしいです」
言葉の意味よりも、声の響きに心がふるえた。
わたしは、そっと笑った。
うまく笑えたかはわからないけど、今はそれでいいと思った。
今日も、本の話だけしかできなかった。
けどそれでも、
こんな偶然ひとつで、私は世界中の幸せをもらったみたいだった。
*
夕陽が沈んだあとのホームは、やわらかな青と街灯のオレンジに包まれていた。
今日も、彼女とベンチに並んで座っていた。
けれど、本は開かれていなかった。
私は、ずっと悩んでいた。
今日こそ、言おう。
そう思っていたのに、いざ隣に座ると、指先が冷たくなって、喉がからからになった。
あの子は、何も言わずに待っていてくれてるようだった。
それがまた、胸をしめつけた。
私は、深く息を吸って、それから小さく、言った。
「……ねえ、わたし、ひとつ、おすすめの本があって……」
あの子が、少し首をかしげて、こちらを見た。
「タイトルは『雨のあと、君がいた』っていうやつ。
恋愛小説……なんだけど、静かな話。
雨が降ってるあいだ、ずっと会えなかったふたりが、やっと傘の下で言葉を交わすってだけの……地味なやつ」
ポケットから、それを取り出して、彼女の手にそっと差し出す。
けれど、渡す寸前で、言葉が喉に詰まった。
「……でも、やっぱ、薦めない方がいいかも」
「え?」
「この本、わたし、すごく好きなんだけど……
それは、内容がいいとか、文章がきれいとか、そういうんじゃなくて」
言葉が、ぽろぽろこぼれるように出てくる。
「……あのね、わたし、最初から、本が好きだったわけじゃないんだ。
あのとき、駅のベンチで、眠そうに本読んでた、あんたの姿見て……
それ見て、なんかもう、世界が変わった気がした。
あんたの読んでた本を、わたしも読みたくなった。
同じ気持ちを知りたくて、近づきたくて、読書を始めた。
……それだけ」
視線を落として、手をぎゅっと握る。
「だから、あんたに本を薦める資格なんて、ほんとはないんだ。
読書家でもないし、言葉も知らないし……
この本を薦めるのも、ただ――
“あんたに、何かを渡したかっただけ”で。
意味なんて、たぶん、そんなにない」
しばらく、沈黙が降りた。
それがつらくて、目をそらしたまま、
震える声で続ける。
「……あたし、たぶん、あんたのことが……好きで。
一目見たときから、ずっと、気になってて。
毎日、本の話してるのも、本を読むのも――
あんたと一緒にいたかったからで……」
声が、少しだけかすれた。
「もし、気持ち悪いって思ったら、ちゃんと言って。
距離、取るし……
本も、薦めなくていいから」
それだけ言い終えて、私は目を閉じた。
目を開くのが、怖くてたまらなかった。
でも。
そっと、あたたかな指先が、私の手に触れた。
目を開くと、
彼女は、そっと私の手の上に、指を重ねていた。
「……わたし、今日もあなたと話せてよかった、って思ってます。
この本、読んでみたいです」
その言葉は、震えるほど静かだったのに、
世界中の音よりも大きく響いた。
「好き、って気持ち。
わたしも……まだ、よくわからないけど。
でも、あなたといると、心が落ち着いて、あたたかくなって。
それって、たぶん――いいことなんだと思います」
私は、ただうなずくしかなかった。
泣きたくなるほど、うれしくて。
怖かったのに、ほんとうに言ってよかったって思った。
渡せなかったはずの本が、
今は、彼女の手の中にある。
それだけで、今日は世界が、優しく見えた。
*
告白のあと、わたしたちは「付き合う」という言葉を
はっきりと交わしたわけじゃなかった。
でも、それでいいのかもしれない。
たしかに気持ちは伝わった。
彼女の手のあたたかさが、それをちゃんと教えてくれたから。
その日曜日、駅ビルの下にある本屋さんで待ち合わせをした。
彼女が制服じゃない姿で現れたとき、
なんだか妙にドキドキした。
白のブラウスに、淡い青のカーディガン。
その袖口から覗く細い手首を見ただけで、
「わたし、今この子とデートしてるんだ」って、実感がふわっと湧いてくる。
けれど、いざ並んで歩き出すと、距離の取り方がわからなかった。
わたしは、どうすればいいんだろう。
恋人って、どう歩くの? 手、繋いでいいの? 変じゃない?
何度も視線を送って、でも言えなくて、
とうとう文庫コーナーにたどり着くまで、モヤモヤしていた。
彼女がふと、ある棚の前で立ち止まったとき、
思い切って、そっと……ほんとにそっと、指先を差し出した。
「……繋いで、いい?」
彼女は驚いたように目を瞬いたけれど、すぐに、静かに笑って、
おそるおそる、わたしの手を握ってくれた。
冷たくも熱くもない、やわらかい温度。
不思議と、体の力が抜けていった。
それからの時間は、ずっと手を繋いだまま、本を見て回った。
文庫コーナーをひとつずつ歩いて、
「これ、タイトルが気になる」「あ、この作家さん知ってるかも」
そんな他愛もない言葉のやりとりだけで、
なぜだかすごく幸せだった。
恋人っぽいことなんて、たぶん何もできていない。
キスもしてないし、名前を呼び捨てにもできてないし、
そもそも「付き合おうね」って、ちゃんと言ってもいない。
でも――
繋いだ手の中に、ちゃんと全部がある気がした。
「ねえ、これ……」
彼女が立ち止まって、一冊の文庫本を引き抜いた。
表紙には、小さな白い椅子が描かれていた。
『ふたり、ひとつの椅子にすわる午後』
タイトルを見ただけで、胸があたたかくなる。
「……じゃあ、次はこれ、ふたりで読んでみようか」
わたしは、そっと彼女の手をぎゅっと握りなおした。
彼女も、握り返してくれた。
本の中にある世界を、ふたりで歩くのは、
きっと、こうやって手を繋ぎながら進むことなんだと思う。
恋の正解なんて、まだわからない。
でも、この手のぬくもりがある限り――
間違ってないって、信じられる。
*
付き合い始めてからの時間は、
劇的でも、派手でもなかった。
ふたりで本を選んで、
一緒に読むスピードを揃えて、
「このページ、好きだったな」って笑い合って、
次はどんな話が読みたいか、少しずつ語り合った。
休みの日には、本屋さんに寄ってから、カフェに行った。
制服姿じゃない彼女が、少しずつ近くなっていくのが、うれしかった。
たまに、手を繋いで歩いた。
勇気を出して、名前を呼んだ。
ある日は肩に頭を預けられて、
ある日は帰り際に、ほんの少し袖をつかまれて。
恋人らしさってなんだろう、と迷いながら、
それでもふたりで、丁寧に積み上げてきた。
──そして今日。
高校の卒業式。
春の風が強くて、髪が揺れた。
教室の黒板には「ご卒業おめでとう」のチョークの文字。
最後のHRが終わって、みんながワイワイ写真を撮ってる中、
私は静かに、屋上への階段をのぼっていった。
そこには、彼女がいた。
制服姿。リボンをきれいに結んで、両手で鞄を持って。
風にあおられながら、でもまっすぐに立っていた。
目が合った瞬間、ふっと笑ってくれた。
「……来てくれて、ありがとう」
「来ないわけないじゃん」
近づいて、ふたり並んで柵にもたれる。
下では、卒業アルバムを掲げて走り回る声が聞こえる。
けれど、ここは静かで、時間が止まっているようだった。
「ねえ、今日って……なんか、特別な日だよね」
「うん。たぶん、ちゃんと“卒業”する日なんだと思う」
「なにから?」
「迷いとか、不安とか……“わからない気持ち”から」
そう言った彼女の横顔は、少しだけ大人びて見えた。
風が、彼女の髪をさらって、私の指先に触れた。
その髪をそっと払って、私は、ほんの一瞬だけ、目を閉じた。
「……しても、いい?」
言葉にするのが、まだ怖くて、
でも、言わずにはいられなくて。
彼女は、うなずいた。
私は、彼女の頬に手を添えた。
その指のあたたかさに、心がすとんと落ち着いた。
制服の袖越しに触れた肩。
そして、ほんの短い、けれど、すべてを伝えるようなキス。
柔らかくて、やさしくて、
でも、ちゃんと恋人のキスだった。
離れたあと、彼女がそっと目を開けた。
「……やっぱり、あなたのこと、好きです」
私は、もう一度、彼女の手を握った。
「わたしも。ずっと、好きだよ」
世界の中で、ふたりだけが静かに答えを見つけた。
それは、まるで一冊の物語のラストページのようで――
でも、きっと、続きがあるんだと思えた。
まだ知らない季節のページを、
またふたりで、めくっていくために。
(おわり)
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