春の歌
清泪(せいな)
聞こえるか 遠い空に映る君にも
――春の風には、音がある。
それは決して耳で聴くものではない。
網戸の隙間から差し込む日差しの中で、畳に微かに落ちた塵がふわりと舞うような、目に見えない動きのなかに紛れている。
埃まみれの障子を通して感じるその音は、かつて母が使っていた箒のかすれた擦過音にも似て、けれどもっと柔らかく、胸の奥にひっそりと沈んでいた何かを撫でていった。
草太は、寝転んだまま天井を見ていた。
畳の匂いが鼻をくすぐる。湿り気を帯びた埃が、冬を越えてなお張りついたままだ。
生きているというより、ただ呼吸だけが続いている状態。それがどれほど長く続いていたのか、もうわからない。時計の針は、彼の世界では役に立たない。代わりに、季節が静かに輪郭を描いてくる。
春の風は、その境界を破った。
少なくとも、彼にとってはそうだった。
ふとした拍子に、窓の向こうから香った土の匂いに、彼は息を吸い直した。
それはまるで、地中から指先が伸びてきて、自分の胸元にそっと触れたような感覚だった。拒むこともできず、追い払う気力もなく、草太は、ただその感覚に導かれるまま、障子を開け、窓を開けた。
光が、舞い込んだ。
それは暴力的でも、祝福的でもなく、ただ自然な現象として、長年閉ざされた部屋の隅々にまで染み込んだ。
その光の中に、小さな命が震えていた。
庭の片隅。
母が生前、最後にしゃがんでいたあたり――そこに、小さな双葉が顔を出していた。
まるで、土が母の言葉を憶えていたかのように。
いや、違う。彼の中に、ずっと残っていたのだ。その姿が。あの日の光景が。
ふたつ並んだ葉のかたちは、まるで耳のようだった。
自分の声を聴いてくれる何かが、そこにある気がした。あるいは、母が今も自分の声を待ってくれているような錯覚にさえ陥った。
涙は突然こぼれた。何かが少し、ほどけたような気がした。あるいは、何かが小さく、音を立てて芽吹いたのかもしれない。
それから、毎日、彼は庭に出るようになった。
最初は双葉の様子を見るだけだった。だが、気づけば小さな鍬を手に、周囲の雑草を抜き、崩れかけたプランターの縁を直していた。
まるで、地面が譜面になって、彼に何かの旋律を弾かせているようだった。
それは懐かしい調べだった。だが決して過去に戻るための音ではない。土の中から這い上がってくるような、不器用な、けれど確かに前に進む音だった。
彼の手が土に触れるたび、母との日々が微かに蘇る。
夕焼けに染まるキッチンでの背中。雨の日の匂い。湯気の向こうにあった、笑っているのか怒っているのかわからない顔。
言葉にはできなかった思いが、少しずつ、土に混ざっていく。
ある日、庭に出たとき、あの双葉がほんのわずかに、背を伸ばしていた。
その姿を見た瞬間、草太の中でひとつの思いが確かなかたちになった。
「育てよう」ではない。ただ、「生きてもいいのかもしれない」。
その感覚は、春の空に浮かぶ雲のようにあいまいで、けれど確かにそこにあった。
彼の生活は、まだ不完全だった。外に出る勇気はなかったし、人と話すことも、未来を考えることもできなかった。
けれど、土は黙って受け入れてくれた。陽は差し、雨は注ぎ、風は草の匂いを運んできた。
自然は、どんなときも彼に「今」を知らせてくれる。
やがて、双葉に白い蕾がついた。
音のない旋律が、ようやくその花にたどり着いたようだった。
その日、彼は久しぶりに空を見上げた。何の意味もない青が、こんなにも美しいと思ったのはいつ以来だろう。
母の姿は、もう思い出のなかでしか動かない。
それでも、あの双葉のように、自分もまた地中で何かを待っていたのかもしれない。
風にそっと揺れる白い花は、まるで彼の心のなかに灯った小さな明かりのようだった。
春の歌 清泪(せいな) @seina35
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