第一場 ヤギの尻尾座 (二)──たったひとりの幕あけに

 クルトはキーガンに連れられて、劇場の舞台裏、その二階へと上がっていった。


「ここだ」


 渋々、といった感じを隠そうともせず、キーガンは一室の扉を開けた。

 ひどい有様だった。

 床には殴り書きされたような紙が散乱し、日に焼けて茶色くなった紙束が何段も積まれていた。そのいくつかは雪崩を起こしている。本棚には書物がみっちりと詰まっていたが、その並びに秩序は感じられない。机も紙だらけ、本だらけ、ペンとインク壺もあちこちに転がっている。簡素なベッドの枕元にも数冊の本。幸い、食べ物の残骸こそ見当たらなかったが、空の葡萄酒の瓶が何本か並んでいた。

 自分の手紙がこの部屋に埋もれず、ちゃんと読まれて返事まで来たのは、もしかして奇跡だったのではないかと、クルトは思わずにいられなかった。


「劇場に、お住まいなんですね」


 部屋の惨状に触れないよう、クルトがひねり出した言葉はそれだった。


「家賃がかからんからな。稽古場も近い」


 クルトは紙を踏まぬよう慎重に一歩を踏み出したが、ミシっと嫌な音がした。この大量の紙の重さに、板張りの床が悲鳴をあげているようだった。

 一週間、やるだけやってみるしかない。クルトは腹を決めた。




 なし崩し的に決まった弟子入りの条件を孤児院長のハンナに報告すると、彼女は驚きの表情を浮かべた。条件付きとはいえ、あのキーガンから機会をもらえたことが信じられない、という様子だった。それだけ、キーガンが弟子を取らないことは有名だということだろう。「その幸運を逃がさないようにね」と祈るように言って、ハンナはクルトの劇場通いに正式な許可を出してくれた。


 それからの日々。

 孤児院で掃除や洗濯、ほんの少しの勉強をした後に、クルトは劇場へ向かった。孤児院の外に出るだけでも新鮮だったが、城下町の雑踏の中で目にする露店や品々にも心惹かれた。

 しかし、それ以上にクルトを駆り立てたのは、劇場だった。紙とインクの匂い。キーガンの書いた文字。役者の声。舞台の光。その全てが、クルトにとっては何物にも代えがたい魅力だった。


 片付けたはずの床には毎日新しい紙屑が捨てられていたが、キーガンの机の上には新しい原稿が少しずつ増えていく。

 うず高く積まれた紙束の山を解体すると、それらはやはり完成した脚本だった。クルトはそれを上演の日付ごとに並べ替えた後、さらに劇の種類ごとに仕分けていった。そこで分かったのは、キーガンが驚くほど多様な脚本を書くことだった。クルトの見た悲恋ものの他に、歴史劇、喜劇、風刺劇などもある。特に風刺劇は、実際に起きた事件などを元に書き下ろすので、文字の読めない人にとっては新聞のような役割もあるのだと、劇団員のブロックが自慢げに言っていた。とはいえ、王政を真正面から批判するようなものもあり、クルトは読みながらひやひやした。それでも「ヤギの尻尾座」を贔屓にしているというのだから、ロドルフ王は懐が深い。

 たまに思わず読みふけってしまうような台詞や、詩の断片も混ざっていて、掃除が一向に進まない日などありつつも、クルトはキーガンの部屋をなんとか整えていった。


「……なかなかの手際だな」


 ある日、書き物をしながら横目で様子を見ていたキーガンが、ぽつりとつぶやいた。


「ありがとうございます。でも、まだ半分も終わっていません」

「台本の方はどうだ」

「……まだ、手を付けられていなくて」

「はは、締め切りは待ってくれんぞ」


 この時初めて、クルトはキーガンの笑う顔を見た。ひどく自嘲するようではあったが。


「恐ろしいぞ、締め切りは。書けようが書けまいが、お構い無しにやってくる。劇作家である限り一生これがついて回る。果たしてお前に耐えられるかな」


 そう言って顔を覗き込んでくるキーガンに、クルトはしっかりと頷いた。


「耐えます。まずは一本、書いてみせます」


 キーガンは見定めるようにクルトの顔をじっくりと眺めていたが、やがて「良かろう」と呟いたきり、書き物に戻ってしまった。

 それだけのやり取りだったが、これを境に、キーガンの態度が僅かに柔らかくなった気がした。




 掃除の合間にキーガンの脚本を読み漁り、その内容に魅了されながら、こんなものを書きたい、自分ならどう書くか、と考える。それでもいざまっさらな紙を前にすると、筆が動かない。机に向かい、借りたインクをひとつも使わず、ただ悩む日が続いた。

 誰かの世界を変える芝居を書きたい。

 キーガンにはそう啖呵を切った。とはいえ、初めての自分に書けるとも思えない。それでも、今の精一杯を書くしかない。

 気持ちだけが急く。一週間は、あっという間に過ぎていく。

 

 月の欠けた晩だった。

 クルトは孤児院のベッドの中で、ぐるぐると思い悩んでいた。周りからは、他の子どもたちの安らかな寝息だけが聞こえる。今この夜に、起きているのは自分一人なのではないかと思えるほど静かで、それが余計にクルトを焦らせた。

 その時、ふとクルトは思い出した。前にもこんな夜があったことを。


 クルトは、かつて孤児院の前に置き去りにされた子供だった。「ここで待っていてね」と、そう言ったきり母親は戻ってこなかった。これからもきっと戻ってこない。幼いながらにそう悟ったあの頃、クルトは夜に眠れなくなった。

 皆が寝静まってからも、クルトは目を閉じるのが何故か恐ろしかった。手足の指先がずっと冷たくて、体をぎゅっと丸めると、心臓の音が頭の中を叩くように響いた。衝動的に、クルトはベッドを抜け出した。

 暗い廊下には柱時計の振り子がぼんやりと揺れていた。裸足の足裏に、古びた床板がひた、と張りつく。そのままどこへともなく進んでいくと、廊下の奥に小さな明かりが見えた。その明かりがあんまり温かそうに見えて、クルトはふらふらと吸い寄せられた。

 薄く開いた扉の陰から覗き込むと、そこは院長室で、ハンナが何やら書き物をしていた。その後ろには王国の紋章——翼を広げた黒獅子が掲げられている。それはこの孤児院が、王国によって建てられたことを意味していた。

 ハンナがクルトの存在に気づくまでに、そう時間はかからなかった。ハンナは穏やかに微笑んで、「いらっしゃい」と手招きする。

 もじもじと歩み寄ったクルトの体を、えい、と持ち上げ、ハンナは膝の上に乗せてやった。


「ディルクラントの子供はね、この歌を聞くとぐっすり眠れるのよ」


 クルトの胸をとん、とん、と優しく叩きながら、ハンナは歌う。


『ねむれや ねむれ

 黒獅子の 影はやさし 夜を抱き

 あかつきの光 つばさに受けて

 いとし子の道 まもられん』


 揺らぐ波のような旋律。夜露を纏ったような声。薄い毛布よりもずっと温かな手のひら。

 クルトはぽろり、ぽろりと涙の粒をこぼしながら、いつの間にか眠ってしまっていた。


 その幼い頃の夜を、クルトは今はっきりと思い出した。

 書けるかもしれない。

 クルトは暗闇の中でごそごそとペンを握り、筆先を走らせた。






『暁の獣』


 薄暗い谷。冷たい風の音。旅人が一人佇む。


「また、夜が来た。どれだけ歩いても抜けられない。帰る場所があったはずなのに、その名も、匂いも、何も思い出せない」


 その時、旅人の遠くで影が揺らめく。旅人は後ずさりながらそれを見つめる。


「……そこに、何かいるのか?」


 その声に答えるように、獣に似た影が歩み寄る。


「ついてくる……私が力尽きるのを待っているのか。

 それでも、立ち止まるのはもう嫌なんだ」


 しばしの静寂。それから影は、ひらり、ひらりと谷の上へ跳び上がっていき、旅人を静かに見下ろす。


「行け、と言うのか。

 いや、違う……“行ける”と、言っているみたいだ」


 谷の向こうに淡い光が差した。夜明け前の青。影は大きな翼を広げてそれを迎える。

 旅人はほうっと息を吐く。


「夜が、ほどけていく。

 影よ――ありがとう。お前が道を示してくれたのか、それとも……私がやっと、見ようとしただけなのか」


 獣の影は飛び去るように消え、旅人の前には細く光の道が伸びる。


「行こう。

 夜を越えた先に、何があっても」





 書き終えた後、クルトはふと手を止め、自分の書いたものを見つめた。

 それは、ほんの数枚の紙きれだった。だが、その一枚一枚に、彼の中の「何か」が確かに刻まれていた。

 クルトは震える手で、紙の端を整えた。

 それをキーガンに渡すとき、どんな反応が返ってくるか、まるで想像もつかない。だが、それでも渡したいと思った。

 この物語を、誰かに読んでもらいたい。誰かと共有したい——そう、強く思ったのだった。




 次の夜、クルトは書き上げた台本を胸に抱えて、キーガンの部屋を訪れた。

 そこには相変わらず紙の山があり、インクの香りと僅かな葡萄酒の匂いが混じっていた。

 キーガンは机に向かいペンを動かしていたが、クルトに気づいて顔を上げた。


「できたか?」

「……はい」


 クルトは両手で大切に抱えていた台本を差し出した。キーガンはそれを無言で受け取り、蝋燭の明かりのもとで静かに読み始める。クルトは手を強く握りしめ、揺れる緑の瞳でじっとその様子を見つめていた。

 長い沈黙の末、キーガンは最後のページを閉じ、ふうと息を吐いた。

 それから腕を組み、クルトの顔を見下ろした。


「……詩に近い。構成は未熟、台詞は甘い。劇としては、まだまだだな」


 俯いたクルトの心が、胸の奥でひりついた。けれど、その言葉には続きがあった。


「だが、妙に深いところに触れるような……そんな匂いがする」


 クルトが驚いて顔を上げると、キーガンはゆっくりと目を細め、鼻で小さく笑う。


「『黒獅子の子守唄』か、考えたな。あれは古い歌だが、子供を寝かしつけるだけではない。“いつか必ず朝が来る”と信じさせるものだ。それをこう解釈するのは、悪くない。歌の力を借りているとはいえ、そこにお前自身の“歩きたい”という意志が混じっているところもな」 


 クルトは、はっと息を呑んだ。


「それにお前は、孤独を知っている。この仕事は、孤独に耐えられなければ続かないものだ。だからこそ、そんな生き方をする人間を増やしたくなかったものを」


 キーガンはしばらくむっつりと黙り込んだ後、おもむろに口を開いた。


「約束だったからな。お前を、弟子として認めてやる。ただし──」


 キーガンはぎろりとクルトを睨む。


「食事も寝床も、孤児院より粗末になると思え。芝居は儲からん。わしの書いたものは自由に読めばいいが、手習いのように教えてもらえるとは期待するな。書き方はお前自身で見つけるものだ。それで良いなら、明日にでも来い」


 クルトは、深く頭を下げた。


「ありがとうございます。がんばります!」

「せいぜい足掻け。それでも、ものになるかはわからん世界だ」


 この時から、クルトはキーガンの弟子になったのだった。

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ディルクラント物語 ~偽王を討つための戯曲~ 灰崎千尋 @chat_gris

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