ディルクラント物語 ~偽王を討つための戯曲~

灰崎千尋

第一幕

第一場 ヤギの尻尾座 (一)──まだ誰も名を知らぬ劇

 王都にそびえる黒獅子城の影が、午後の陽を裂くように石畳の上に落ちていた。“ヤギの尻尾座”の小さな劇場には観客たちが詰めかけ、皆が胸を弾ませていた。ざわめきを貫くように、舞台袖からラッパの音が鳴り響く。力強く、それでいてくすぐるような、物語の始まりを告げる音。

 観客席の隅で、少年クルトは息を呑んでいた。伸びた黒髪の隙間から、深い森の緑を宿した瞳がきらめく。孤児院や街では味わえない、静けさと期待の混じった空気が、彼の肺をじんわりと満たしていく。場内に一礼して現れたのは、枯れ木のように痩せた老人だった。灰色のローブを翻し、朗々とした声で開演を告げる。


「さぁ御覧ごろうじろ――これより始まる、うつろまことのあわいを」


 その一言で、客席は静まり返る。人々の息も視線も、舞台へと吸い込まれていく。

 それがクルトにとって、世界の扉が開いた瞬間だった。




“ヤギの尻尾座”は、ディルクラント王国で最も人々に愛される劇団だ。現国王ロドルフのお気に入りでもあり、この日の慈善興行は王の出資によるものだった。王立孤児院の子どもたちも招待され、クルトは初めて芝居という魔法に触れた。

 その演目は、子供が見るには血なまぐさい悲恋物語だったが、クルトは舞台に釘付けになった。目や手足の動き一つひとつに込められた意味。大げさな身振りも自然に見える説得力。そして何より、人の心を動かす台詞と筋書き。

 クルトはまだ恋も知らない少年だったが、舞台の上の男女が迎える結末にぽろぽろ涙を流した。これまでにも、本の物語に心動かされたことはあった。だが芝居は、人が演じることによって、その人物がいるのを舞台の上で見せるのだ。その力に、クルトはすっかり圧倒されてしまった。


「ねぇハンナ先生」

「どうしたの、クルト」

「俺、これを書いた人の弟子になりたい」


 終演後、興奮冷めやらぬ様子のクルトの言葉に、孤児院長のハンナは眉を下げた。


「やりたいことが見つかるのは私も嬉しいわ。でも、劇作家ってそう簡単になれるものじゃないのよ。職人のように技術が身につくわけでも、商人のように知恵を積めるものでもないし。それにキーガンさんって、弟子を取らない人だったはず……」

「キーガンさんて言うんだ。俺、直接お願いしてみる!」


 クルトは居ても立ってもいられず、舞台裏へ走った。

 舞台裏は、着替えたり化粧を落としたりする役者たちでごった返していた。小道具なども無造作に置かれ、文字通り、足の踏み場もない。


「キーガンさん!」


 クルトは叫んだ。その高い声に、役者たちが振り向く。


「あら驚いた、どうしたの少年。うちの作家に何の御用?」


 舞台で美しい死に様を見せてくれた女優が、ほがらかに言った。薄い服に濃い化粧が残る彼女にクルトはたじろぐが、気を取り直す。


「あの、俺、キーガンさんの弟子になりたいんです」

「弟子だって!」


 二人の間に、からかうような男の声が挟まる。


「あー無理無理、あの人は弟子とらないし、だいたいあんな偏屈なジイさんと四六時中一緒だなんて、オエー、耐えられない!」


 そう言うのは、薄っぺらい鎧を脱ぎながら笑う兵士役の男。その黒い癖っ毛の頭を、先ほどの女優が力一杯に叩く。


「子供相手に何言ってんだい、あんたは。ごめんね少年、でも気難しいのは本当なの。今までも弟子になりたいって人は来たけどみんな追い返しちゃったし、今は特に機嫌悪いから……どうしても話したいなら、手紙を書いてみたら?」

「機嫌が悪いのはブロックがトチったせいだろう」

「あ、言いやがったなカール!」

「やめなさいったら!」


 役者たちはクルトをそっちのけで小競り合いをはじめた。クルトは、このまま立ち去っていいものか迷い、「あの!」ともう一度声をあげた。


「俺、今日初めてお芝居ってものを観たんです。物語が舞台の上で生きているのが……本当に、素敵でした」


 その真っ直ぐな感想と輝く瞳に、役者たちは皆、嬉しいやら照れるやらでどぎまぎしていた。


「ありがとうね、少年。機会があったらまた会いましょう!」


 女優はそう言って、クルトをぎゅうと抱きしめて頬ずりした。柔らかな感触と白粉おしろいの匂いが、クルトからしばらく離れなかった。




 それからクルトは、キーガン宛てに手紙を書いた。

 孤児院では、自分の名前や街の看板、三文新聞の見出しが読める程度の読み書きは教えてもらっていた。しかし本が好きだったクルトは、そこからほとんど独学で文字を学び、限られた孤児院の蔵書を貪るように読んでいた。それがこんな形で役に立つとは、夢にも思っていなかった。

 クルトを突き動かしていたのは、真っ直ぐな青さや衝動ばかりでは無い。ディルクラントでは十五歳で大人と見做される。孤児院にいられなくなるその歳までに、クルトは身の振り方を決めなければならなかった。職人の徒弟、城や商人への奉公、どれも決めかねていたクルトがようやく見つけた道が、これだったのだ。

 本で読んだ美しい言葉と、院長室から拝借した手紙を見本に、クルトは手紙を一生懸命に書きあげた。弟子になりたい、とにかく一度会いたい、という想いを余すことなく詰め込んだ。

 

 しばらくして、キーガンから非常に簡潔な返事が届いた。


『次の“虹魚にじうおの日”の午後、劇場へ来るように』


 クルトは慌てて暦表こよみひょうを見た。孤児院での生活は日々同じことの繰り返しなので、曜日など意識したことがなかった。

 手紙を受け取った今日から数えると、“虹魚にじうおの日”は二日後だ。

 クルトは急いで院長室へ向かい、キーガンからの手紙を見せてハンナに外出の許可をもらった。


 そうして迎えた“虹魚にじうおの日”。クルトは昼の鐘が鳴るちょうどの時刻に、“ヤギの尻尾座”の専用劇場にやってきた。

 観客のいない劇場は、賑わっていた公演中と同じものとは思えなかった。舞台を丸く囲むように並ぶ客席はがらんとしていたが、そこには人を待つような不思議な気配があった。天井の真ん中はぽっかりと空いており、日の光が舞台の中心を照らしだす。舞台の上では、稽古中なのか普段着の役者が剣を交えている。剣戟けんげきの音、役者の踏み込んだ足の音が、客席に響いては吸い込まれていく。今この劇場の空気も好きだな、とクルトは思った。

 舞台正面の客席に、腕を組み、眉間にしわを寄せ、鋭い眼光で役者を見つめる老人の姿があった。彼こそがキーガンだ、とクルトは直感した。しかしそのあまりにも厳めしい佇まいと真剣な眼差しに、近寄ることも声をかけることもできないでいた。

 しかしキーガンの方がクルトに気づいた。その視線がぎろりとクルトを射抜く。

 舞台に視線を戻したキーガンが、大きく手を打ち鳴らした。


「昼休みだ」


 その一言で、役者たちは一斉に大きく息を吐き、体をおもいおもいに伸ばす。


「やっとメシだー!」

「さっき鐘鳴ってたもんな」

「もう腕が上がらないところだった……」


 がやがやと舞台を降りる役者たちの中には、クルトに気づいてちらちら見てくる者もいた。先日女優に叩かれていた男がひらひらと手を振ってくれ、クルトはぺこりと頭を下げた。そして意を決して、キーガンに挨拶をした。


「初めまして、キーガンさん。王立孤児院から参りました、クルトと申します。この度はお招きありがとうございます」

「……小さいな」


 キーガンはクルトを見下ろしてそう言った。

 近くで見るキーガンは背が高く、はしばみ色の瞳がぎらりと光り、老いを感じさせない覇気があった。だが、深い皺の刻まれた顔、色の抜けた白い長髪と髭、大きな鉤鼻、鼠色のローブに身を包んだ姿は、劇作家というよりは、絵本などに出てくる魔法使いに近い印象だった。


「歳は?」

「今年の冬で十四になります」

「手紙を読んだ」

「ありがとうございます!」

「あれは定型句と本の引用に、お前自身の言葉が混じった不思議な代物だった」


 キーガンの言葉に、クルトはどきりとした。


「あの……良くなかったでしょうか?」

「手本を真似るのは大事なことだ。そして模倣だけでなく、自分の色を加えることもな。しかし吊り合いを考えねば、全体が不格好になる。まぁ、面白かったがな」


 おずおずと尋ねるクルトに、キーガンは全く面白くなさそうな調子でそう返した。しかしここで気圧されるわけにはいかないと、クルトは腹に力を込める。


「改めてお願いします。キーガンさんの弟子にしてください」

「……今日呼んだのは、礼儀として顔を合わせ、断るためだ。わしは弟子をとらん」

「ですが──」

「一度芝居を観ただけで何がわかる。感動した? ふん、風に吹かれた落ち葉のように、次の熱にすぐ飛ばされるさ。芝居はな、気まぐれな火種では続かん。灰になるまで燃やせる覚悟がなければ、少しくすぶって消えてしまうのが落ちだ」


 クルトは一瞬言葉に詰まった。それでも、ぐっと拳を握る。


「……燃やしたいんです、俺。灰になってもいいから、やってみたい。この前の舞台を観て、俺の世界が変わったんです。俺も、誰かの世界を変える芝居を作りたい」


 キーガンの眉間の皺がますます深くなるが、クルトは熱っぽく続ける。


「俺は、本が好きです。知らないものを見せてくれて、ここではないところへ連れて行ってくれる物語が好きです。お芝居は、その世界をこの目で見ることができる。たくさんの人に届けられる。凄いと思ったんです。俺もそんなものを書いてみたい。書いたものを、誰かに演じてもらって、舞台の上に世界を作りたい。そう思いました」

「……書けなかったら?」


 キーガンは一層苦々しい顔をして、夢を語るクルトに詰め寄った。


「書けなかったらどうする? お前に、その才能が無かったら。わしにも書けているかわからんというのに」

「はいはいおじいちゃん、前途ある少年を恐い顔でいじめないの」


 割って入ってきたのは、先日も話したあの女優だった。舞台用の化粧でない今日は、その素顔がよく見える。大きなみどりの瞳ときゅっと上がった目じり、小さな鼻とふっくらとした口元は猫のようで、色っぽさとあどけなさが同居した目を引く顔立ちだった。

 彼女はクルトに向かって片目をつぶってみせ、灰褐色の巻き毛をふわりと揺らす。


「こんにちは、少年。やっぱり来たわね。あたし、シグリ。よろしく」

「あ、えっと、クルトです。よろしくお願いします」

「おい、シグリ」


 キーガンが遮ろうとするが、シグリは構わず言葉を続ける。


「この子、そう簡単に諦める子じゃないと思うわ、キーガン。才能があるかどうか、いっそ書かせてみたら? ついでに部屋の掃除とかもしてもらってさ。あの部屋ひどいじゃない」

「……片付いた部屋は落ち着いて書けん」

「はい、言い訳。一度でもきれいにしてから言ってよね。ねぇクルト、掃除は得意?」

「ええと、はい。孤児院のベッド周りは俺が一番きれいだと思います」

「ほら、ぴったりじゃない」

「勝手に話を進めるな!」


 キーガンは怒鳴ったが、それでもシグリは全く意に介さないようだ。クルトもここが押しどころだということを察し、「掃除、させてください!」と叫んだ。

 キーガンはしばらくの間、シグリとクルトの顔を交互に睨みつけていたが、やがて諦めたようにため息をついた。


「わかった。掃除はしてもらう。ただし駄賃をやるような余裕は、ここにはないぞ」

「代わりに今までの台本を読ませてもらったらいいわよ」

「おい、だから勝手に」

「他にいい案があるっていうの?」


 キーガンの負けだった。彼はことさら低い声で、絞り出すように言った。


「一週間だ。その間にわしの部屋を片付けて、一本書け。短くとも中身のあるものを。それで決める」

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