豚の誘惑 原稿用紙5枚

CHARLIE(チャーリー)

豚の誘惑 原稿用紙5枚

 周りには豚しかいない。

 わかっている。わたしだって豚だもの。ここは養豚場と呼ばれている場所なのだもの。藁を敷かれてフェンスに囲まれて。

 ものごころついた頃からわたしには違和感があった。お母さん、きょうだいの豚たち。ちっとも親しみが湧かない。嫌悪感さえ覚える。だけどあるとき、妹の瞳に映っているブサイクな豚が、紛れもなく自分の姿なのだと気づき、わたしはひどく絶望した。彼と同じ生きものではないことに失望した。

 彼の声を聞いたことがない。彼の動作はいつも決まっている。フェンスの扉を開ける。銀色のバケツに入った餌をフェンスの中へ投げ込む。バケツの底を三度叩くとフェンスの鍵を閉めて隣の小屋へ行く。小さな黒い瞳をしている。その瞳の色が変わった様子をわたしは一度も見たことがない。そしていつも交わりの匂いを漂わせている。彼は男、性行為の相手をする女性がいるのだろう。そのことも、些かわたしを傷つけた。


 わたしが初めて聞いた彼の声は、

「早く喰えよ!」

 という怒鳴り声だった。その日の彼の瞳は揺らいでいて、交わりの匂いがなかった。

 わたしはバケツをごんごんと叩く彼をじっと見上げる。

 彼はわたしの視線に気づく。

「お前なんかに哀れまれたくねえんだよ」

 彼はわたしを叱る。それでもわたしは彼を見つめ続ける。

「ちっくしょう!」

 彼はバケツを藁の上へ投げ付ける。わたしはそんな彼からも目を離さない。

 彼はわたしを見る。

「チッ」

 舌打ちをして去って行く。フェンスの鍵を閉めることもしないで。

 ほかの豚たちは投げ込まれた餌を奪い合うことに必死になっている。

 わたしはひらいたままのフェンスから外に出る。初めて歩く小屋の外。彼の後ろ姿はだんだんと遠ざかって行く。

 わたしは精一杯両手足を動かして彼のあとを追う。彼の背中を凝視する。

「気づいて、お願い。待って、お願い。あなたを愛しているの!」

 彼へ向けた視線に念じる。

 と。

 彼が振り返る。わたしを認めて立ち止まる。

「お前……なのか?」

 彼の声はなんとかわたしに届く。わたしは頭を上下に動かして肯定の意志を伝える。

 わたしは彼の元へ向かう速度を上げる。彼は驚いた様子でそこに立ち止まっている。驚いた瞳。初めて見る表情。ますます強まる彼へのいとおしさ……。

 わたしは彼の膝へ頭をこすりつける。彼はわたしの頭を撫でてくれる。

「何があったか聞かせて」

 わたしの思いは彼に届くだろうか?

 彼がしゃがみ込む。わたしと目線を合わせる。

「話ができるのか?」

 彼の声にわたしはうなずく。わたしは心で彼に尋ねる。

「悲しいの?」

「離婚したんだ……って、わかるか?」

「大事な女の人と別れたのね?」

「そういうことだ」

「わたしはずっとあなたを愛してた。わたしの魂がこの体に入ったことは誤りだったのよ」

「へえ」彼は信じていないようだ。からかっているような調子で言う。「豚に同情されるなんてな」

 彼は自分を嘲っている。

 こんなとき、彼を抱きしめて包み込む長い腕を持たないことを悔しく感じる。

「愛しているの」

 わたしの念にも暗い翳が射す。

「ありがとよ」彼はわたしの頭を軽く撫でる。微笑むと、目尻に少ししわができる。「お前の小屋のフェンスの鍵、閉めておかないとな」

 わたしたちは並んで歩き、小屋へと戻った。


 それ以来、彼はわたしの小屋へ来る度に、わたしだけに笑顔を向けてくれるようになった。わたしを見分けてくれるようになった。

 わたしにはもうそれだけで充分だ。本当は彼と交わりたい。だけれそれは彼の理性が許さないだろう。もういい、充分なんだ。

 ある日。わたしは横腹をこすり付けて来る雄豚の求愛を受け入れた。それは、これまでわたしの理性が拒んできたこと。

 わたしが雄豚と交尾をしているとき、彼が餌を撒きにやって来た。彼の瞳に嫉妬の翳が宿ったように見えたのは……摩擦による悦楽が見せた幻であろう……。


 四百字詰め原稿用紙 五枚 了


 参考

 YouTube『歴史雑記ヒストリカ』「動物裁判」

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