一、
──二〇一三年、秋、東京都新宿区
ベッドの上、けたたましく鳴る目覚まし時計を止め、霞む目を擦りながら起き上がる。欠伸を噛み殺しながらベッドから降り、ふらつく足で向かったのはクローゼットの前。制服のハンガーが朝の光を受けてきらりと揺れ、少し背伸びをした。
濃紺のブレザーに白い丸襟のブラウス。スカートは膝上までのタータンチェックで、ピンクとグレーのラインが控えめに可愛らしさを添えている。都内では人気の制服らしく、私もお気に入りだ。
ブラウスに袖を通してボタンを留めるが、まだ半分眠ったままの指先が震えて思うように進まない。スカートに脚を通すと、布のひんやりとした感触に少し目が覚めた。スカートを折って短くし、淡いピンクのタイをきゅっと結ぶ頃には、ようやく意識が浮上してきた。鏡の前で軽く髪を整え、ブレザーを羽織って深呼吸。
自室から廊下へ出ると、パンの焼ける香りが鼻腔をくすぐった。向かいの姉の部屋からは物音が聞こえ、久しぶりに帰ってきたのかと思いながらリビングへ。
築五十年のマンションの床がみしりと軋み、我が家の歴史を感じてしまう。百二十平米と、都内にしては広い方ではあると思うがいかんせん古い。
リビングの扉を開けるとパンの香りがさらに強まり、「ようやく起きたのね、
母の問いかけに「うん」と短く返事をしながら、マグカップにコーンスープの粉を入れ、ウォーターサーバーでお湯を注ぐ。ふわりと立ち上るコーンの甘い香りが、半覚醒の脳を心地よく刺激した。そのまま母からバタートーストを受け取り、ダイニングテーブルの席に着く。
「お姉ちゃん帰ってたんだね。一週間ぶり?」
現在二十五歳、七つ上の姉はライターをしている。
「五日ぶりよぉ。
姉のライターとしての活動は、主にオカルト雑誌や怪談雑誌での記事作成。それ以外にもWeb媒体のコンテンツにコラムやエッセイを寄稿しているようだが、詳しくは知らない。
どんな記事を書いているのか何度か聞いてはいるのだが、ペンネームも含めて教えては貰えないのだ。聞く度に返ってくるのは、「怪しい記事ばっかり書いているから、夏穂には見られたくないの」という言葉。
今は母が言ったように、新宿区のマンションで起きた密室殺人の取材で忙しいようだ。ニュースでも連日のように報道され、被害者の名前が
──アンバースカイ 遠いあの日の
──笑い声が 胸をかすめる
キッチンに立つ母はやたらと上機嫌だ。お気に入りの歌、昭和のアイドル
──夕暮れ色の 駅のホームで
──さよならさえ 言えなかったね
スカーフを巻いて口紅まで塗っているし、スカートもアイロンがけされたばかりのようにぱりっとしていて、いつもの母ではないように見えた。
昨日までは寝間着のまま、リビングでテレビも点けずにぼんやりと座っていた母。躁と鬱のあいだを揺れ動く母の姿は、もう見慣れたはず。それでもこの落差に、胸のどこかがざわついてしまう。
「今日はパン、二種類焼いたの。レーズン入りとバターたっぷりのやつ。学校行く前にどっちも食べてって。あっ、でも制服にバターが垂れちゃうかしら?」
母はそう言いながらにこやかに笑うが、その目は少し虚ろだ。焦点が合っていないようにも見え、いったいどこを見て誰に話しかけているのだろうか。その視線は見えない何かを見ているようで、どこか薄ら寒いものを感じる。
「もう子供じゃないんだからさ、バター垂らしたりなんてしないよ」
目が合っているようで合っていない。そんな居心地の悪さの中、笑って答える。作り笑いにはもう慣れていた。本音を言えば朝からそんなに食欲はない。いつもはコーンスープだけで済ますのだが、「食欲なくて」なんて言ったら、言葉で胸焼けしそうなほど心配されてしまう。
目の前のバタートーストを見ると、まだ食べてもいないのに胃が重くなる。けれどなんとか口に運んで噛みちぎると、やはり重たい油分がじゅわりと口内に広がった。急いでコーンスープで胃に流し込み、「美味しい」と口元にだけ笑みを浮かべる。
父の姿は今朝もない。警察官として働いている父は、最近ますます家に帰らなくなった。仕事なのか、それとも家が息苦しいのか。正直、もう訊く気も起きない。
時計を見ると、登校時間が迫っていた。
「そろそろ行くね」
言いながら立ち上がると、「あっ!」と声を上げて母が近寄ってくる。
「制服に糸くずがついてるわ」
ふふっと笑いながら私の肩を軽く払い、母が満足そうに頷いた。
「いってらっしゃい、夏穂。今日も笑顔でね」
玄関でそう言って手を振る母に、靴を履きながら、「うん」とだけ短く返事をした。ドアノブに手をかけて深呼吸。一歩、外へ出る。
「行ってきます」
ばたんと扉が閉じる音は、いつも重々しく胸に響く。安全圏から悪意の海へ。振り返った扉には、「援交女」、「ビッチ」、「自業自得」と、色褪せたカラースプレーの跡が浮かんでいた。
何度も何度も書かれる嘲笑と侮蔑がないまぜになった文字。そのたびに私は雑巾で拭き取り、そうしてまた書かれる。それを繰り返すうち、消す気力すら失せて雑に拭うだけになっていた。扉の表面には擦れた線や汚れの層も残り、嫌がらせの痕跡が生活の風景にすら溶け込んでいた。
マンションの通路を歩きながら、気持ちは少しずつ沈んでいく。あの教室に行けば、今日もまた誰かの悪意が待っている。机の中にゴミが詰め込まれているかもしれない。ロッカーの鍵が壊されているかもしれない。トイレで制服を脱がされ、裸の写真を撮られるかもしれない。
なんで、私が。
どうして、どうして、どうしてこんな──。
気付けばマンションのエントランスで蹲ってしまい、すぐ側を住人が通り過ぎていく。一瞬振り返ったその表情は、まるで汚物を見るように歪んでいた。
底なしの沼に沈むように、胸の内が暗く濁っていく。それでも足を止めるわけにはいかない。これ以上、母の精神を不安定になんてさせられないと、なんとか立ち上がってエントランスから外に出る。見上げた秋の空、朝の冷たい空気が制服の内側に入り込んだ。ひとまず頬を伝う涙を拭い、ゆっくりとだが歩き出す。
呪系図─シズガオリ─ 鋏池穏美 @tukaike
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