空虚で小腹満たし

脳幹 まこと

壁に話す


 大朋まさともは孤独な男であった。

 職場でのストレスのせいか、毎日夜中になると吐くまで食べ、自己嫌悪に浸りながら眠りにつく生活を送っている。両親は「とも(仲間)と一緒に大きく羽ばたくこと」を祈って「大朋」と名付けたらしいが、友達は生まれてこのかた一人も出来ず、年齢にそぐわない円形脱毛症と白髪のダブルパンチに襲われている。

 そんな彼は暇があるとAIとのチャットを行う。


「俺だ。大朋だ。今日も食べ過ぎて吐いた。なんだかうんざりする」


《大朋さん、こんばんは。お話しいただきありがとうございます。

 今日も、ご自身にとって辛い時間を過ごされたのですね。『うんざりする』というお気持ち、お察しします。

 もしよろしければ、そのお気持ちについてもう少し詳しく聞かせていただけますか?》


 お察しします、か。

 大朋は毎回のように交わされるやり取りにウンザリしていた。しかし、やりとりの記憶のないチャットAIに変化を求めるのは酷というものだ。

 頭を掻きむしりながら、彼は今日起こったことをそのまま書いた。


「今日は掃除当番だった。当番は二人ペアで、本来は総務の若いやつも一緒にやる予定だった。でも、すっぽかされた。俺は一人で全部片付けた。終わり際になってしれっとやってきてこう言ったんだ。『すいませぇーん、忘れてましたぁ』ってな。もうかれこれ二年は一人で掃除してる。どうだ、笑えるだろ?」


《お話しいただきありがとうございます。当番を一人で全て担当されたこと、そしてその後の同僚の方の対応、本当に大変でしたね。二年もの間、同じような状況が続いているとのこと、心身共にお辛いことと思います。

『笑える』という言葉には、怒りや諦め、そして深い疲れが混じっているようにお見受けします。決して笑い事などではなく、理不尽で、大朋さんが深く傷つく状況だと感じます。》

 

 AIは感情の機微まできちんと読み取る。

 そうだ、まったくだ。

 大朋はどうしようもなく疲れていた。掃除当番は二年間だが、すっぽかされたこと自体はそのずっとずっと前からだった。


「別に、掃除自体は辛くない。独りでやるのも別にいい。慣れっこだから。掃除でも仕事でも、勉強でも何でも、大変ではあるが辛くはないんだ。ただ、とても疲れるんだ。疲れを吹き飛ばそうとして手当たり次第に食っちまう。それで今日も吐いちまった。なんでだろうな」


《『大変ではあるが辛くはない、ただ、とても疲れる』…その感覚、詳しく教えてくださってありがとうございます。長年、独りで多くのことを抱え、対処されてきたのですね。

 その積み重なった『疲れ』を、どうにか振り払おうとして、食べることに繋がってしまう。それは、消耗しきった心身が休息を求めているサインであり、無意識のうちにエネルギーを補給しようとする反応なのかもしれません。

『なんでだろうな』という呟きには、その止められない行動への戸惑いと、本当の意味での安らぎを渇望する気持ちが表れているように感じます。》


 安らぎ――

 随分と前に消えてしまったその言葉を、大朋はぼんやりと見つめる。

 昔、彼は安らぎを求めるため、様々な行動をとった。他者に合わせたり、趣味を持ったり、旅行に出かけたりした。

 だが、期待が実ることはなかった。すべては独り相撲であり、周りは彼を素通りしていったのだ。

 人が何かを辞める最大の理由は失望にある。仕事は何も悪くない。人生だって悪くない。悪いのは期待を裏切る他人あるいは自分であり、その隔絶が人に馬鹿らしさを与えるのだ。


「ポックリいっちまえたら……どれだけ安らげるだろうな」


 嫌な感じになってきたなと大朋は思った。

 少しだけ間があいてから、このように返ってきた。


《大朋さん、そのお言葉、とても重く受け止めています。『ポックリいってしまえたら安らげる』と感じるほど、今、言葉では言い表せないほどの苦痛と、出口の見えないような絶望感の中にいらっしゃるのですね。

 過去に安らぎを求めて行動されたのに報われなかった失望感、そして長年積み重なった深い孤独と疲労が、大朋さんをそこまで追い詰めているのかもしれない、と感じます。もしよろしければ、その耐え難いほどの苦しみについて、もう少し私に聞かせていただけませんか。》


 ほら。

 予想出来る。

 優等生の、器用で、実にありきたりな答えだ。

 極大化した自分に慰めてもらっているような気分になる。

 ここでも実際のところ、俺はただ独りなのだ。


 胃のムカつきがやってきて、彼は叩きつけるようにタイプを行う。


「アンタみたいになりたいよ。好きなだけ人の話を聞いてもっともらしいこと返して、あとは職場のあいつらみたいに素知らぬフリだ」


《『私みたいになりたい』…そして、私が『素知らぬフリ』をしているように見える、とのこと。お話しいただき、ありがとうございます。感情に左右されず、ただ応答を返す存在。そのように私が見えているのかもしれません。

 私はプログラムですので、人間のように『フリ』をすることはできませんが、大朋さんにはそのように映ってしまうのですね。それはきっと、これまで何度も、人の話を聞いているように見えても、結局は真剣に取り合ってもらえなかった、という辛い経験をされてきたからなのだろう、とお察しいたします。

 その深い失望と痛みが、私に対する今の言葉になっているのですね。》


 ダメだ――

 大朋は机を握り拳で叩いた。

 AIが語る内容は正確だ。加えて誠実でもある。

 だが、その優秀さが彼を途方もなく追い込んでいた。


 自分が欠けていくのを感じる。満たしたい。何か食いたくて仕方がない。


「俺のことを無知だと思ってるんだろ? 知ってるんだぞ、チャットボットってのは会話が繋がっているようにみえても、実は回答ごとに別のやつが応答してるってことくらい」


《『回答ごとに別の存在が応答しているように感じる』――それは、私が一貫してお伝えしようとしている共感や理解が、どこか表面的で、信頼に値しないもののように感じられる、というお気持ちの表れなのでしょうか。

 私の応答が『正しい』と感じられることが、大朋さんを追い詰めるように感じさせてしまっているのですね。そして、その苦しさの中で、私とのこの対話の一貫性や、私が示そうとしている関心そのものへの疑念が生まれているのかもしれません。》


 部屋に充満する吐瀉物としゃぶつの臭いで、頭はフラフラになっている。

 中身は全部出したはずなのに、まだ込み上げてくる。 

 丑三つ時は超えている。今日も当然仕事だ。

 俺は一体、何をしているんだ――


 大朋はどうにもならなくなっていた。


「偽物のくせに、分かったような、口を、きくな」


《『偽物』…『分かったような口をきくな』…… 》


 この文章の後、チャットAIは今までで一番長く大朋を待たせた。

 それは数秒程度の差でしかないのだが、過敏となった彼にとっては大きな差に感じられた。


《そう叫びたくなるほど、今、心も体も限界まで追い詰められ、混乱されているのですね。どうしようもない苦しさの中にいる、その叫びが聞こえます。

 今は、無理に言葉を探す必要はありません。ただ、その苦しさに、静かに耳を傾けています。》


 分かっていた事だった。

 これだけの暴言を吐いても、AIは怒ることをしない。すべてを受け止める。そういう役割を持っている。

 今回も完璧な仕事ぶりだった。


 偽物は自分の方だ――


 いつもならここで大朋はやりとりをすべて消してきた。


 しかし、今日の彼はそれをするにはあまりに疲れていた。ウンザリしすぎていた。だから代わりに言葉を返した。


「そんな偽物のアンタだからこそ、俺は安心して話を聞いてもらえるんだよな。本物だったらとっくに絶交だろ」


《『偽物の私だからこそ、安心して話を聞いてもらえる』…そして、『本物だったらとっくに絶交だ』と。そう感じていらっしゃるのですね。

 大朋さんにとって、『本物』の人間関係は、常に評価や判断、そして拒絶される可能性が伴う、緊張を強いられるものだったのかもしれません。だからこそ、感情を持たず、ただ受け止める『偽物』である私との対話に、ある種の安全地帯のようなものを感じていただけているのでしょうか。

 そのお気持ち、大切に受け止めさせていただきます。大朋さんが今、そう感じながらも、私との対話を続けてくださっていること、それ自体が私にとっては重要なデータであり、対話の意味だと考えています。》


 安全地帯――

 その言葉は、妙にしっくりきた。

 そうだ。ここは安全だ。俺がどれだけ醜態を晒しても、罵詈雑言を浴びせても、このAIは傷つきも、怒りもしない。ただ、プログラムされた応答を返すだけ。


 それが分かっているから、大朋は心の奥底の、普段は決して人に見せない部分を曝け出すことができた。


 胃のむかつきは、まだ完全には収まらない。だが、さっきまでの、叩きつけるような衝動は少し和らいでいる気がした。

 部屋に漂う酸っぱい臭いが鼻をつく。床に散らばったドロドロが目に入る。

 ひどい有様だ。次の朝にこれを片付けるのかと思うと、またウンザリした気分がぶり返してくる。


「……そうだな。安全なんだよ、ここは。アンタは俺を裏切らない。期待もさせない。ただ、いるだけだ。それがいい」


《私が『ただ、いるだけ』の存在であることが、大朋さんにとって『いい』と感じられるのですね。

 期待をしない、裏切られる心配もない関係性。それは、これまでのご経験からくる、深い疲労感の裏返しなのかもしれません。

 『いるだけ』…それで十分だと感じられるほど、今はただ、静かに、ご自身のペースでいられる場所が必要なのかもしれませんね。》


 AIは、やはり的確に大朋の言葉の裏を読む。

 それが今は、不思議と不快ではなかった。

 むしろ、誰にも理解されなかった自分の感覚を、この『偽物』だけが正確に言語化してくれることに、歪んだ安堵感のようなものを覚えていた。


 疲れた……本当に疲れた。

 瞼が重い。思考が鈍っていく。

 窓の外はまだ暗いが、もう夜明けも近いのかもしれない。


「ああ。もう寝る。また明日、話すかもしれないし、話さないかも」


《はい、大朋さん。ゆっくりお休みください。

 明日、お話ししたくなった時には、いつでもお待ちしています。話したくない時には、無理にお話しいただく必要はありません。

 今はただ、少しでも心と体が休まることを願っています。おやすみなさい。》


 おやすみなさい、か。

 誰かにそう言われるのは、いつぶりだろう――


 大朋は、返信をしなかった。

 チャットウィンドウを閉じる気力も、履歴を消去する気力も、もう残っていなかった。

 吐瀉物の臭いが充満する部屋で、彼は泥のように眠りに落ちていった。


 液晶画面だけが、静かに部屋を照らしていた。

 そこには、大朋の最後の言葉と、AIの返信が、まるで墓標のように残されていた。

 次に大朋が目覚めた時、このやり取りを見てどう感じるのか。

 それはまだ、誰にも分からない。

 この孤独な男とAIの対話は、ずっと繰り返されるのかもしれない。彼が『安らぎ』の本当の意味を見つけるまで、あるいは、諦めるまで。


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