マッチポンプ

奈良山直立

マッチポンプ

 この日は雨が降っていた。けれど、濡れることはない。僅かに香る木材の臭い。雨どいを流れる雨水の強かな音。今日日、珍しい木造のアパートだ。光に攫われる羽虫のように、僕は吸い込まれた。


 ここの1DKという間取りの物件に特別な感情があるわけではない。ただ、光っていた。それだけだ。この仄暗い灰色の雲に覆われた空の下にあって、この物件が輝いていたのだ。


 僕は事故物件ハンター。


 今日も今日とてまだ見ぬ戦慄を求め都内の物件を巡る。


「ここ事故物件じゃないですよ……?」


 不動産会社の営業マンが僕に話しかける。目の下には隈がありひどくやつれている。二十台後半だというのに、見た目はとうに四十代だ。学生の時はラグビーでもやっていたのか、身長は高く、しっかりとした体格。けれど、多忙なようで筋肉は落ち、代わりに分厚い脂肪が体を覆っている。


 もちろん、ここが新築で事故物件でない事など百も承知だ。けれど、そんな事は関係ない。なぜならこれからそうなるのだから。


「大丈夫ですよ。今からあなたを殺しますから」


 僕は事故物件ハンター。事故物件を巡り、それを動画に収めて、収益を得る。けれど、事故物件を巡るだけでは物足りないのだ。人を殺し事故物件に変える。予言者の如く、未来の事故物件を巡るという企画は人気なのだ。


「……設備は新築だから整ってます」


 僕の話が聞こえていなかったようだ。はっきりと大きな声で言ったつもりだったのだが。


「設備は関係ないですよ。今からあなたを殺しますので」


 殺される人の慄いた顔を眺めるのだ。殺される間際の顔は千差万別。はたして、今日はどんな顔が見られるのやら。


「ええ。そうですか。新築なので即入居なんです。引っ越しはいつになりますか?」


 人の話を聞かず、礼儀のなっていない男に僕は憤りを覚えた。これから、殺されるというのに顔色一つ変えないとは肝が据わっている。


 だから、僕は彼の恐怖にゆがむ顔が見たくて持っていたトートバッグから包丁を取り出して見せつけた。


「見えますか? この包丁。今からあなたを刺し殺すんです。怖くないですか? 怖いですよね?」


「怖いだなんて。滅相もありません。むしろ、嬉しいくらいです。早く殺してください。さあ、早く」


 男の目つきが変わり、その瞳は煌々と輝く。気だるげな声色にも芯がこもり、本当に終わりたいのだと伝わった。


「……う……」


「その鋭利な包丁でズバッとお願いします。でも、痛いのは勘弁してください。できれば、一刺しで──」


「なんか違う! こういうのじゃない! 僕は快楽殺人者なんだ。死にたい人間を殺すほど人は出来ていないし、お人好しじゃない!」


 僕の事故物件ハンターとしての誇りはずたぼろに切り刻まれた。例えるなら、カードの収集はパックで当てる事が醍醐味なのに、カードショップ屋でショーケースの中から欲しいカードを単品で買うようなものだ。


「どうしたら、殺してもらえますか?」


「どうしたら、こうしたらもないですよ! そも、どうして死にたいんですか?」


 怒り心頭の僕ではあるが、男の死にたい理由には興味があった。なんなら、それ如何では殺してやってもいい。


「もう十四連勤なんです。終電では帰れず、深夜でタクシー。営業のノルマを達成できなければ、上司からのパワハラ。おまけに、恋人にもフラれ……とにかく、こんな業界糞くらえだ。ここも事故物件になれば……いい気味だと思いませんか?」


「やめれば……仕事辞めればいいんじゃないですか?」


「そ、それが出来れば苦労しないんですよ……!」


 ここで男は初めて声を荒げた。僕はとてもじゃないけれど、男の言っている意味を理解しかねる。だって、退職届を一通叩きつければいいだけなのだから。最近では電話でも退職出来ると聞く、それが出来るのなら電話一本だ。


「……あなたの会社の電話番号を教えてください」


「それ、今関係ありますか? そんな事より殺してください」


「知っていますか……? 最近のトレンド、退職代行。僕が電話してあげますよ」


 男は何やら考え込んでいるようだ。


「僕がわざわざ電話してあげようと言っているのだから、迷う必要はないと思うけれど」


「いえ、その手があったのだと思いまして。なるほど。でも……これからどうすれば……」


「それならば、僕と一緒に事故物件ハンターをしませんか?」


 今まで幾度となく人を殺してきたけれど、初めての感情だった。だから、この気持ちを言葉にするすべを僕は持たない。人を助けるというのはこんな気持ちなのだろうか。


「ええ! それはいいですね」


「でしょう! 簡単ですよ。人を殺して事故物件にするんです。そして、物件の価値を下げる。動画にすれば報酬もたんまりもらえますよ」


 男の顔がパッと華やいだ。そうだとも。僕が心底見たかったのはその顔なのだ。その絶望から這い出たような顔なのだ。明日の晩御飯を考えられる余裕のある顔だ。


「それじゃあ、電話番号を教えてください」


 重苦しい世界の中にあって、シーリングライトだけが部屋を軽く照らすようだ。しきりに降る大粒の雨は今もなお降っている。薄い屋根を穿つようにぽつぽつと頼りない音だ。


 男から差し出された電話番号に電話をする。


「お世話になっております。退職代行ヤーメタッの草加くさかと申します」


 血流が速まり、心臓の音が響く。胸の奥に何かがつっかえるようで、落ち着かない。人を殺した時よりも緊張していた。


「………あなたの会社の渡辺さんが退職したいと言っておりまして……」


 電話の相手は焦った様子がない。男が辞めるという事を薄々感づいていたのだろうか。


「……はい。……じゃあ、書類で………」


 退職代行がどういうものかは知っていた。前にニュースでやっていたからだ。大抵のやり取りは書面でやるらしく、最初に辞めると伝えるだけで終わりらしい。


「じゃあ失礼します」


 男は僕が電話している間も佇立していた。少し見せた笑顔は元通りである。この仏頂面を見ていると何だか僕まで気が滅入る。


「出来ましたよ。退職。書類はあなたの家に送られるみたいです」


 男は再び笑顔になる。


「ありがとうございます。……こんなに優しくしていただいて。ましてや、仕事まで」


 機は熟した。この笑顔が歪む瞬間を見るためにわざわざ電話までしたのだ。さあ、殺そう。さあ、喰らおう。この顔ならば僕が殺すに値する。


「ありがとう。僕にこんな楽しい機会を与えてくれて。自らで救って自らで殺す。それこそが一番のエンターテイメントだったのだよ」


 僕は男に包丁を振りかざす。


「……えっ? ……どういう!?」


 僕の体に熱い痛みが迸る。生暖かい血がフローリングを汚している。


 ああ、そうか。僕が刺されたのだ。


「本当にありがとうございました。俺も君みたいに生きるよ」


 そう言うと男は部屋から出ていった。


 僕はその場へへたり込む。消えゆく命を感じるようだ。部屋を照らすシーリングライトが眩しくて目を瞑った。

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マッチポンプ 奈良山直立 @n_ranpo

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