祠の中の祠
秋の香草
本文
祠とは閉じ込めるものである。閉じ込めるとは、内と外を峻別し、内なるものを依然として内なるものたらしめんとする行為である。では「内なるもの」にふさわしいものとはなにか。これは至極当然の問いである、なぜなら祠はそれ自体が自身を祠たらしめんとしているのではなく、祠という
ここでは、ロシア人形を例に挙げるとしよう(奇妙な例えだが、大目に見てほしい)。すなわち、祠が祠を内包する——実際そのような祠があるかどうかはさておき——状況を考える。このとき、祠を内包する祠は、それが祠を内に留める事により祠として成立する。ここで問題となるのは、祠の内に存在する祠を祠たらしめんとするものはなにか、という問題が依然としてそこに在り続けることだ。祠を暴いた結果そこで仏像なり、神像なり、あるいは怪異に見えんとしたとて、それらが祠と全く同様の、人間もしくはその類的存在、あるいは神的存在の被造物である可能性は当然、検討されなければならない。これを解消するためには、祠の内にある祠の内を白日の下に晒す必要がある。つまり—— (((祠の内にある祠)の内にある祠)の内にある祠) ——のように祠の内へ遷移していった先、内なるものが祠、すなわち境界を規定する象徴に還元できなくなった瞬間、その内なるものがまさに、祠を祠たらしめんとするものと確定するのである。この遅延作業はマトリョーシカ的であるが故に、無限遠へ潜り込む余地を含んでいる。そしてこの再現なき遅延は、祠の内がほか一切のものでない——空であることが確定した瞬間、永久に中断される。
さて、今までは祠に内包される祠に注目してきたわけだが、今度は祠を内包する祠に目を向けてみる。すなわち、ある祠がそれより下位の祠を内に抱える状態が考えられるのであれば、ある祠がより上位の祠に抱えられる状態もまた、考えられる訳だ。これも同様に—— (((祠を内に抱える祠)を内に抱える祠)を内に抱える祠) ——というふうに遷移していく事が可能である。だがこれは形而上学的問いに帰着するのが必然であり、無限遠へと発散するのは避けようがない悲劇である。すなわち、この無限遠への拡張は我々の感性ないし悟性が捉えうる境界を容易に飛び越えてしまうのだ。つまり、祠を内包する祠が、我々が認識している空間、我々が今ここにいると理解している領域それ自体を規定する境界であるという状況は当然、検討されなければならない。故に、内なるものが流出し得る領域は、我々が目に見える範囲に否応なく制限されてしまう。
さて——祠とは往々にして破壊されるものである(言うまでもなくこの行為は大いに道義的問題を抱えているが、ここでは一旦それを置いておいてほしい)。祠を破壊するとは、内と外を規定する境界を我々の認識空間の内で消尽させることを意味する。内なるものを外なるものに引きずりだす、あるいは外なるものが内なるものに引きずり込まれる——境界がもはや存在しない以上、この二つはもはや同義である。仮にかつて祠だったものが依然として残っていたとしても、それは境界を規定する作用を喪失している以上、内なるものがそこに留まり続ける道理は何も無いのだ。故に「閉じ込める」作用が必要だったのである。
ところで——私は今、祠の前に立っている。いや正確には、かつて祠だったものというべきか。それは既に、祠としての機能を喪っているのだ。つまり——私は今、見えるに見えない恐怖、形容するに形容し得ない恐怖、語り得ない恐怖、恐怖そのものと相対している。今、私の目の前にいる怪異それ自体が、今、これを読んでいる貴方の前に現れるような事態は、ついぞ起こり得ないだろう。なぜなら怪異とは
祠の中の祠 秋の香草 @basil_3579
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