藤の花

藤堂こゆ

香り悠しく

 しとしとと糸のように降りしきる雨の中を、一人のさむらいが歩いている。

 まとわりつく水気を気にすることなく、笠もかぶらずに歩いていく。

 むっつりと押し黙って、ただ刀の揺れる音だけが、ちゃり、ちゃり、と微かに尾を引いて消えていく。


 じゃり、じゃり、と、ずぶ濡れの草履が草を踏む。

 ここは廃墟だ。

 かつて栄えたこの場所は、焼け落ちて、更地になり、やがて草が生い茂って、全てを包み隠してしまった。


 涙雨の合間を縫うようにして、えもいわれぬ香りが漂ってくる。

 濃密な花の香り。

 士はその匂いにひかれるようにして草をかき分けていった。


 まもなくして、霞む雨の中から湧き出づるように現れたのは、一株の藤の木だった。

 半身を火に焦がれつつも辛うじて焼け残った藤の棚。

 妖しく光るような花房が、いくつもいくつも垂れ下がって、雨に震えている。


 士は妖艶なその香りを深く深く吸い込んで、黒ずんだ幹に手を触れた。

 木の皮は水を吸って冷たい。


「久しいな……」

 士は小さく呟いて、木皮をなでるように僅かに手を動かした。


 虚ろな集落は朽ち果てて、とても静かだ。

 辺りは雨の音ばかり。


 士はおもむろに、藤の根元にどっかと座り込んだ。

 衣の裾が濡れるのも気にしない。

 大刀を腰の帯から抜いて、右手に置く。

 次に脇差を抜く。

 居住まいを正して、刃を鞘から抜こうとしたとき。


『お待ちください』


 頭蓋に直接響くような、不思議な声が、士を呼び止めた。

 士は、藤の花の天井の下で、奉じた刀から虚空へと、ゆっくり顔を上げた。

 一間ほど先に、一人の女が立っていて、士を見下ろしていた。

 今にも消え入りそうな、華奢な女だった。


 薄紫の装束を着ている。その色は裾に降るにつれ薄くなり、それはまるで藤の花のようだった。


『なぜ、ここへ来たのですか』


 女は匂い立つような声で問うた。

 その眼は黒々として深く、士の眼を真っすぐに射抜いた。

 死装束の士は、懐かしむような、憐れむような顔をして、じっと女の顔を見た。


「お前のもとで、死のうと思ったのだ」

 低い声でそう言った。


『なぜ』


 女の表情は変わらない。


「罪科に、心が堪えきれんでな」


『……なぜ』


「…………」


 二人の合間を、雨の音が埋めていく。


『今の今まで、十年も堪えたではありませぬか』


 その声も、銀糸の雨に溶けていく。

 男は泣きそうな顔で、口を真一文字に結んでいる。


『死んではなりませぬ。この藤花が許しませぬ』


 女の顔が、初めて悲哀に歪んだ。


「藤花……」


 瞬きをする間に、女は空気に溶けて消えていた。

 ただ淡い紫の藤の花だけが、そよそよと揺れている。


 男が気づくと、雨はいつのまにか止んでいた。

 濃い花の蜜の匂いが、鼻腔をくすぐった。

 男は脇差を帯にさした。

 大刀を手に取り立ち上がる。


 藤棚の下からよろりと出て、空を見上げる。

 雲の端が白く輝いて、はっとする青さが見えていた。


 士は深く深く息を吐くと、大刀を腰にはき、もと来た道を戻っていった。



(了)

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藤の花 藤堂こゆ @Koyu_tomato

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