じゃあね
変なピロートークだったのを、私は覚えている。
「明日、世界がなくなるとしたら、どうする?」
唐突な彼の質問に、私は彼の胸の中で吹き出しかけた。
「キユウじゃん」
「杞憂じゃないよ」
そう言いながら彼も笑った。私たちは付き合って長い。面白いと感じる語彙ぐらいは共有している。
「だって、世界がなくなったら、怖くない?」
「そりゃ怖いでしょ。ねえ、珍しくない? そんな変な妄想してるの」
「はは、そうかも」
確か、そんな会話を交わした。彼は私なんかにはもったいないほど優秀な人だ。話が高尚なことは多い。でも、いつもは地に足のついた話ばかりなので、ちょっと意外だった。
「ね、君はどうする? 世界がなくなるとしたら」
と彼は尋ねて、私から腕を離し、ごろんと上を向いた。
私は彼に、「君」と呼ばれるのが好きだった。これはよく覚えている。私は真面目に考えてみたけど、案外すぐに、つまらない結論に至ってしまった。
「何にもしない、かな。いつも通り過ごして、世界がなくならないように祈りながら、寝るだけ。だって、そうじゃない?」
彼は真剣に私の冗談を聞いてたけど、聞き終わるとふふふと息で笑った。
「そっか。俺も同じだ」
私は驚いて彼を見つめた。私と彼の意見は、たいてい全く合わない。彼のほうが賢いから。でも、彼は正直な人で、私を気遣って嘘をつくときは、目が泳ぐ癖があった。その夜はむしろ、私にしっかりと目が合ったのだ。私は急に不安になって言った。
「世界がなくならないと、いいね」
「うん」
私は布団を頭から被った。眠くなったときの合図だった。彼は微笑み、起き上がってアラームをセットし、部屋の電気を消して、もう一度ベッドに潜った。
「じゃあね。おやすみ」
そう彼は呟き、温かい手の指で私の額を撫でた。私は彼の肩に頬をすりよせるようにして目を閉じた。
アラームの音で目覚めると、彼はもういなかった。
ただいなかっただけじゃない。私の部屋にある彼の備品は、一つも残っていなかった。パジャマも予備の下着も、歯ブラシもゴムもなかった。スマホを見ると、彼の連絡先は消えていたし、彼と撮った写真もカメラロールには残っていなかった。付き合って一年記念にもらったピアスをつけようとしたら、アクセサリーケースからなくなっていた。
仕方なく他のピアスをつけて、彼の住んでいた寮を訪ねてみると、いつもの寮母さんが出てきた。
「いや、そんな子、知らないねえ。うちにいたことはないよ」
彼のバイト先も、内定していた就職先も、私たちと仲の良かった友達も、みんなこの調子だった。
私は家に帰ると、へたへたと玄関に座り込んだ。
ベッドには彼の温もりが残っている気もしたが、触ってみるともう冷たかった。
私は泣こうとしたが、涙が出なかった。彼の名前と顔が、記憶から消えかかっていた。
はっとして、彼が世界にいた痕跡を残そうと、チラシの裏に彼との思い出を書いた。でも、ほとんど思い出がなくて、昨晩のピロートークしか思い出せなかった。
それが、この殴り書きだ。
私はもう、彼が本当に存在したのか、自分でも不安になってきている。今、前から読み返したら、大したおとぎ話だなと思えてきた。
世界は今のところ、なくなる気配はない。やはりキユウなのだ。
そろそろ大学に行かないといけない。帰ってきたとき、このメモが机の上に残っていたら、嬉しいかも。
10篇 わきの 未知 @Michi_Wakino
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