現代のノア

 現代のノアは仰天した。

 アパートの郵便受けに、巨大な宇宙船の設計図が送られてきたのだ。ノアは不審に思ってこれを捨てようとした。しかし図面を手に取ると、どこからともなく天の声が聞こえてきた。

「この星の人間どもは悪事を働きすぎた。まもなくばちが当たります。世界を滅ぼす大洪水が訪れ、文明という文明が流され壊されるでしょう。この設計図の通りに宇宙船を作りなさい。そうして全ての生き物と、正しき者を救いなさい」

 現代のノアは宇宙船技術者である。彼はかしこまって天の声を聴き、大学の旧友をかき集めて、事の重大さを説いた。まもなく山一つ分ほどもある「方舟はこぶね」が建設され始めた。

 

 一つ問題があった。「方舟」のスケールが大きすぎて、このプロジェクトは多少、政治的なものになってしまった。

 もちろん「方舟」関係者は手間賃を要求してきた。寄付金を出した富豪たち、設計を手伝った技術者たち、場所を貸した地主、建設を担当した業者の株主、騒音で寝られなかった近隣住民。

 そうこうするうちに、政府の情報筋まで嗅ぎつけてきた。この国の大統領と閣僚たち、彼らに投票している各界の有力者。彼らを支持するマスコミ。友好国の政治家とその家族。国連関係者。建前上は一応、仲が悪い国の首脳陣も招待された。

 現代のノアは敬虔な博愛主義者であった。「方舟」の乗船者リストは、瞬く間に膨れ上がった。まず細菌の部屋が、次にキノコの部屋が、そして植物、昆虫、海洋動物、陸上動物の部屋が、次々と人間の居住スペースに書き換えられていった。他の生物を載せる余裕が一つもなくなっても、政府は乗船者を増やし続ける。


 現代のノアが最初のお告げの内容を思い出した時には、既に彼自身が乗船する余裕すらなくなっていた。彼は慌てて政府に異議を申し立てた。

「全ての生き物と、正しき者を救いなさい、と言われたんですけど」

「ノア殿 貴殿の異議を受け入れ、『方舟』の乗船者は、厳正な抽選で決めることとする」

 こう記された手紙がノアのもとに届いた。彼は怒って政府に詰め寄ったが、行政官たちは彼を役所から締め出した。

 ほどなくして、「方舟」乗船者の抽選が行われた。抽選が恣意的ではないかと議論になった。特権階級ばかりが、定員を大幅に超えて当選したのだ。もちろんノアは抽選から漏れてしまった。

 現代のノアは、友人たち、そして全ての生物に、小さな宇宙ポッドの設計図を配布した。人類の技術を結集しても、「方舟」には遠く及ばない。洪水の期間はわからないが、このようなちゃちな宇宙船では、数日も命が持ちそうになかった。


 時が来た。

 現代のノアは涙を呑んで宇宙ポッドに乗船した。有力人物を満載した「方舟」のエンジンがかかるのが、小窓からかすかに見下ろせた。やがて南極の氷が崩れ、地表をくまなく覆う大洪水が始まったが、そのころには大気圏を離れた小舟の中で、現代のノアは泣き疲れて眠っていた。


 割合にすぐ、洪水は止んだ。

 たった数時間だろうか。現代のノアは敬虔にも、洪水は四十日ぐらい続くと思っていたので、早送りでもされた気分であった。

 彼は地表にドローンを放った。やがてオリーブの葉を格納したドローンが戻ってきた。

「もう地上に降りても大丈夫です」

 現代のノアは不思議な天の声をもう一度聞いた。そこで彼は宇宙船を着陸させて外に出た。大地には他の宇宙ポッドも帰ってきて、彼の友人や家畜や野生動物たちが次々と現れた。


 地上には「方舟」もいた。死んだように眠っていた。

 現代のノアは、その様子を見て、すぐに理解した。

(離陸に失敗したのか)

「方舟」は積載量をオーバーしたのである。それは水死体を満載した棺桶であった。

「もう二度と、地球を滅ぼす大洪水は起こらないでしょう」

 天の声はそう言って、現代のノアと家族たちを祝福した。彼と友人らは、空に不自然な虹を見た。全地の民は彼らから出て、これから広がるのである。現代のノアは「方舟」を前にしておいおいと泣いた。

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