水平線のワルツ

カッコー

第1話

ーーー水平線が立ち上がって、地上が闇となるのを、あなたは見たことがありますかと、その老人は言ったーーー


まだ明るさを残して暮れてはいない広い浜で、その老人は火を起こしていた。もうそこにあるものは、陽が沈むと訪れる闇だけだった。老人はせっせと流木を拾いその火に焚べていた。闇が来る前に、その仕事を終えてしまいたいようだった。ようやく老人は落ち着いたように焚き火の前に座った。僕は火の傍でその作業をずっと見ていた。老人の横にはうず高く積まれた焚き火用の流木があった。僕は偶然にそこを通りかかっただけだ。老人はそんな僕を気にも止めずにいた。

少し暮れかかった海は、ことのほか静かで、焚き火の傍ではその波の音は聞こえて来ない。傾いた陽の光の中に飛び去る鳥の姿が消えて行った。その陽の光は煌めく影をまるで記憶の中を探るように海面にのばしていた。

老人は手慣れた手つきで火に流木を焚べた。火は決して人の背の高さを超えなかった。火が揺れて、少し風が出てきたのが解った。もう水平線は闇の中に沈み、火影は夜に浮いていた。

「寒くないか?少し火に寄れ」

老人は焔を見つめながら、突としてそう言った。低いけれど、はっきりとした声だった。はいと僕は答えた。そう答えてから、慌てて僕は周りを見た。やはり僕に言ったのだ。

「すみません、見ていたら帰りそびれてしまって」

「そうさ、みな立ち止まる」

ええ、とだけ僕は答えた。

ときどき、時間の隙間を埋めるように、焚き火がぱちぱちと爆ぜた。老人は手を動かして、焚き木の位置を変えていた。そのたびに、細かな火の粉が夜に消えた。焔はずっと一定の高さを保たれたままだった。僕は両手の手のひらを火に向けて翳した。手のひらからその熱が背筋に伝わるのを感じた。

「少し風がでてきたようだ」

「そうですね、首筋が寒く感じます」

「あと、1時間くらいだよ」

「何がですか?」

「4〜5メーターの風が吹き出す」

老人はそう言って振り返った。でもそこには闇に覆われた暗い夜があるばかりだ。老人はそのまま闇の中を見続けた。その姿は闇を見ているようではなく、その中のただ1点を凝視しているように見えた。

「おじさん、きたよ」

そう言って、いきなり女の子が現れた。それは本当にいきなりだったから、僕は少し驚いた。僕は少し遅れて、こんにちはと言った。

「ああ、きたか、待っていたよ」

女の子は丁度僕の正面に座った。焔が揺れて、女の子の顔はよく見えない。

「少し寒くなったね、風が吹くんだね」

「解るようになったな」

「うん、人の死の数だけ火は形を持つ。それは天下無双だ、でしょ」

「覚えていたのか」

「うん、だから今度は私がダンスを教えてあげる番だね」

「ああ、それも覚えていたか。しかたがないな」

老人は焚き火から少し離れて砂の上に立った。女の子は老人の方へと近づいて行って正面に向いた。

「ねえ、158センチ?」

「もちろんそうだ。比べて見るか?」

女の子はチラッと焚き火の方を見て首を傾げて微笑んだ。

「信用するわ」

「あたりまえだ」

女の子は老人が握った手を大きく振りかざすと、足でリズムを取りながら、砂浜の上を踊り出した。老人は躓きながらも、その女の子の動きについて行っていた。

僕はどうにかその女の子の顔を見ようとしたけれど、夜の影と焚き火の火の射り(てかり)でどうしても見えなかった。二人は夜の砂浜の上をまるでワルツが流れてでもいるように、自由に踊り続けた。潮騒が拍手を送り、風が歓声をあげた。時は永遠を奏で、夜が光を輝かせた。二人は笑顔に満ちていた。白い歯が溢れ、時々何かを話しているようだった。これで月でも出ていたら、もっと素敵だろうと僕は思った。

その時、月のある日にあの娘は来ない、と横で老人の声がした。僕は驚いて横を見た。そこにはその老人がじっと焔を見つめて座っていた。

僕は慌てて砂浜の方を見た。でもそこには誰も見えない。もちろん女の子の姿もなかった。潮騒の音が大きくなり、風が強く吹き出していた。

「もう十数年も前になる。ここで大勢の人間が死んだ。波に拐われたんだ」

「はい、知っています」

「そうか、あんたもか」

「いいえ、僕は」

老人は、ちりちりと燃え沈む焚き木たちをひとつひとつ砂に埋め始めていた。まるでそれらを埋葬するみたいに。

僕は老人の言葉を待っていた。僕が話すべきではないと思った。

「あの日、私はここであの娘を見つけた」

老人の声は静かに聞こえてきた。海から吹く風のもがりが夜の中を、動き出した潮騒とともに暗い闇のさらなる奥へと、うねりながら彷徨い続けていくようだった。

「砂に埋もれていた。かわいそうに」

僕は何故か、その意味を感じとることができた。たぶんあの女の子は、この焔の中へ帰って行ったのかも知れない。風は本当に強く吹いて来た。

老人はその赤く潤む焚き木が最後のひとつになると、それを持って海に向かった。荒れだした海は波飛沫をその老人に向かって容赦なく浴びせた。波際まで近づくと老人はその白く烟る焚き木を思いっきり海へ投げたのだ。夜の闇に、束の間だけ明るい閃光が見えたような気がした。

「あの女の子はどうしたでしょうか」

そう僕は老人に尋ねてみた。

「今ごろは温かい布団の中で、夢でもみてるだろう」

そう、老人は答えた。

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水平線のワルツ カッコー @nemurukame

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