お気に入りのリップ
永杜光理
この色が好き、なんだ。
「リップの色、珍しい色だね。そういうの持ってたんだ」
何気ないその言葉に、どうしてか私は一瞬動きを止めた。
ストローから唇を放す。冷たいダージリンティーの風味が、口の中から消し飛んでしまう。
「……うん、こういうのも好きなんだ」
思い出してしまう。目の前に座っている彼氏ではなくて、高校生の時の、初めての恋人のことを。
同い年のあいつとは、大学進学がきっかけで別れた。でも、仲は悪くなかったと思う。お互いに厳しい家庭だから、あんまり遠出とかは出来なかったけど。
ファミレスで一緒に宿題したり、カラオケでひたすら喋り倒したり、嫌がるあいつをなだめてプリクラも撮ったりしたなあ。私がノリノリで写真を盛る隣で、お地蔵さんのように静かになっていたっけ。
「んーでも、ちょっと色が暗いな。君の顔に似合うのは、もう少し明るい色の気がするけど」
評判になっているカフェで、向かい合って座る私達。はたからは初々しいカップルに見えているのだろうか。
結露のついたコップを見ながら、私は笑みを浮かべる。
「わかってるけど、このリップもお気に入りなの」
そう、お気に入りなのだ。
――そしてこのリップの色を、あいつは否定しなかった。
「どこで買ったの、それ?」
「へ?」
確か日曜日だった。映画の帰りに、感想を言い合いながらハンバーガーを食べていると、あいつが唐突に話題を変えてきたのだ。
「何のこと?」
「そのリップ、ずいぶん暗い色だなって思って」
「うん、そうだね」
重々承知している。私のパーソナルカラーには絶対に合っていないだろう、深いブラウンレッドのリップだ。
でもこれはお小遣いをためて、崖から飛び降りるくらいの勇気を振り絞って買ったデパコスなのだ。高校生がデパコス買うなんて生意気かな、とちょっと思ったけども、どうしても欲しかったし、考えに考え抜いたお買い物なのは強調しておきたい。
あくまで私の中のイメージだけど、このリップが似合う女性は、強くてカッコいい。仕事が出来て、信念を曲げず、嫌がらせにもくじけず、自分の実力を頼りに前に進む。
小さい時にドラマに出てきた女優さんが、こういうタイプのリップをつけていたからそういうイメージがついたんだよね。あの女優さん、クールビューティーで今でもあこがれなんだ。
「悪いけど、あんま似合ってないぞ。服とも合ってない」
私は頬を膨らませた。確かにあの頃は、メイクとファッションのトータルバランスにまで気が回ってなかった。でも指摘されて、ちょっと複雑な気持ちになったのだ。
「いいじゃん、私はこういう恰好したかったの」
「うん、文句を言いたいわけじゃないぞ? でも、もっと生かす装いとか他にあるんじゃねえの? ま、好きにやってくれ。俺は専門家じゃないからアドバイスなんて出来ないし」
そしてまた、話題は映画の感想に戻ったのだ――
目の前の彼氏を、伺うように見る。
優しい人だと思う。出会ったきっかけは、私が大学の構内で財布を落としたのをすぐに拾ってくれたこと。彼は友達にも好かれてるし、誠実で、私を楽しませてくれようと努力しているのもよくわかる。
でも、時々。
彼は、親切で言っているつもりなんだろうけども。
私のメイクやファッションが元々の容姿に合わないと、注文をつけてくるのだ。
それは私も分かっている。でも、似合う恰好と好きな格好は、大抵の場合違うものだと思う。
印象を良くするために似合う恰好に徹するか、自我を貫いて好きな格好をするか、その選択は人それぞれだ。
「お気に入りなんだね?」
「うん、そうだよ」
喉に言葉がはりつくところだった。目の前の彼が、少しだけ残念そうな表情に見えたから。
「そっか……うん、いいと思うよ」
優しい笑顔でごまかされた。今の瞬間は、後々私たちの間で大きなズレになっていくのだろうか。
彼は、あいつを失った私の心を埋めてくれた。それはとっても感謝してる。
でも、どうしよう、この瞬間、気持ちがざわざわしてしまう。
唇の端にダージリンティーが残っているような気がして、指でそっとなぞった。リップの色味が、少しだけ指先を染める。
それを拭って、私はおしゃべりに集中しようと今の彼氏へ笑いかけた。
――そういえば。
ブラウンレッドのリップをつけた日の帰り、初めてあいつとキスをした。
直前にこっそりガムでも噛んだのか、ミントの味がしたのを覚えている。
脳裏の思い出に支配されたくなくて、あわてて首を振り、パンケーキとダージリンティーを立て続けに口に放り込む。
ごめんなさい。今、この時だけは。
かつて好きだった人の唇を、頭の中からどうしても消せないんだ。
大事な人は、目の前の彼。それは間違いのないことだけど。
少しだけ、ほんの少しだけ昔を懐かしむ私を、どうか許してね。
お気に入りのリップ 永杜光理 @hikari_n821
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