幼馴染の彼とわたしの恋愛結婚まであと五歩。

糸(水守糸子)

幼馴染の彼とわたしの恋愛結婚まであと五歩。

 鹿乃子かのこの初恋は、幼稚園児の頃。相手は坂上さかがみかおるくんという。


 その頃の鹿乃子は、ひまわり幼稚園に君臨する、通称「女帝」だった。

 四月生まれの鹿乃子は、ほかの子たちよりも身体が大きくて、声も大きくて、口も達者だった。幼稚園に入園するや、あっというまに年少のペンギン組を掌握し、年長にあがる頃には、となりのペリカン組にまで勢力を広げ、幼稚園の女帝となった。

 どのあたりが女帝かというと、ひまわり幼稚園で大人気の滑り台の頂点に君臨し、滑り台の通行権を握っていた。鹿乃子におやつやぴかぴかの折り紙やシールを上納すると、通行許可がもらえる仕組みである。


「かのは、ひまわり幼稚園の女帝だもん!」


 そして毎日、調子にのって周囲に威張り散らしていた。

 頭がちょっぴり回るけれど、相当性格がわるい女児だったのだろう。


 そんなある日のことである。

 彼である。

 鹿乃子が支配せし滑り台に、彼が――坂上馨くんが現れた。


 馨は、鹿乃子の近所の神社のひとり息子で、親たちいわく、赤子の頃から顔見知りらしい。鹿乃子はあいにく赤子の記憶なんて持っていないが、とにかく物心ついたときには、馨はとなりにいた。一緒に縁側でお昼寝をして(鹿乃子がだいたい蹴り落とした)一緒にごはんを食べて(似たものを食べているのになぜか鹿乃子のほうがだいぶ発育がいい)一緒に通園をはじめた。


 びっくりするほど、ぼーっとした男の子である。

 鹿乃子が三輪車で神社の境内を五往復するあいだも、石段に座ってぼけっとしている。肩を揺らして寝ているときもある。なんだか知らないが、何もない場所に向けておしゃべりしているときもある。

 鹿乃子に比べると身体もちいさく、生育不良の子猫みたいにちまっとしているので、ときどき、近所の暴れん坊たちにいじめられていたりする。鹿乃子はよく暴走三輪車でもって、彼らを制圧した。

 ひまわり幼稚園の女帝を自称する鹿乃子にとって、ぼうっとしていても馨は守るべき臣民である。たすけてやるのが筋というやつだろう。


「ばか。あほ。きえろ。かおるくんの前に二度と現れるな」


 暴れん坊たちを追い返し、ふんすと胸を張っていると、馨はこわごわ、鹿乃子の背から顔を出した。女帝万歳、と跪くのかと思えば、心配そうな顔つきで鹿乃子の腕を引く。


「なに、かおるくん?」

「かの、腕から血が出てるよ」

「えっ」


 指摘されると、確かに腕から流血している。

 暴走三輪車で一度横転したから、そのとき擦りむいたのか。

 びっくりして鹿乃子は涙目になる。だが、すぐに自分が誇り高き女帝であることを思い出し、首を横に振った。


「こ、これは名誉の負傷だもん」

「痛くないの?」


 馨は鹿乃子の目をじっと見つめてくる。

 陽が射すと、ふっと琥珀に似たひかりが宿る、すこし色素の薄い眸だ。

 鹿乃子はまじまじと馨を見返した。


 ――なんてきれいな目をしているんだろう……。


 急に呼吸ができるようになった気がして、視界がみるみるゆがんだ。


「痛いよう……」


 堰を切ったようにぽろぽろ涙が頬を伝った。

 誇り高い女帝の王冠がぽろっとどこかに落ちて、ただの葉山鹿乃子、六歳に戻る。顔をのぞきこんでいた男の子にしがみついて、うわーんと泣き出した。


「わあ、そうだよね。ごめんね……」


 馨は泣いている鹿乃子の背中に腕を回してくる。

 おそるおそる、背中をさすってくれているようだ。

 泣いているうちに鹿乃子の身体は燃えるように熱くなる。汗と涙でべしょべしょだ。でも、いやがったりせずに馨は泣きやむまで鹿乃子の背中をさすってくれた。

 鹿乃子が泣きやんだあとは、ぐすぐす言っている鹿乃子の手を引いて、一緒に家に帰った。自分よりちいさいのに、その手はなんと心強かっただろう。


 主従の逆転。

 女帝の地位の転落。

 

 なんということだ。

 なんということだ!

 これはゆゆしき事態である!


 そういうわけで、鹿乃子はひまわり幼稚園の臣民たちのなかで、馨が苦手である。

 あの大泣き事件以来、あまり自分からはちかづかないようにしている。

 かのってえらぶっているけどほんとうは泣き虫なんだよー、なんて皆のまえでバラされたら大変である。謀反が起きて、滑り台から引きずり下ろされるかもしれない。


 なお、事件の翌日、口止め料として、鹿乃子がいちばん大事にしているソーダ水みたいな透明なビー玉をあげにいくと、馨はなぜか「交換するの?」と尋ねて、自分が持っていたビー玉をくれた。桜色をした可憐なビー玉で、鹿乃子の趣味ではなかったが、なぜか鹿乃子はそれをいつも大事にポケットにしのばせている。

 そして、滑り台のうえで、ポケットから取り出した桜色のビー玉を眺めて、物憂げな息をついたりしている。

 何をしているのだろうか?

 女帝である鹿乃子といえど、ときどき意味不明の行動をすることはある。

 

 ――回想はおしまいだ。

 とにかく、鹿乃子の君臨せし滑り台に、その日、馨が現れたのである。

 いつもは幼稚園の片隅でのほほんと花に水をやっている馨が。

 女帝たる鹿乃子の前に、現れたのである。

 これはゆゆしき事態である!


「何しにきたの?」


 滑り台のうえから馨を見下ろして、鹿乃子は腕を組んでえらそうに言った。

 追い返す気概まんまんである。左右に侍った側近が隙なく馨を警戒している。


「滑り台、つかいたいの?」


 訊きながら、ふいに鹿乃子の胸のうちにふしぎな衝動が湧いた。

 馨になら、上納なしで滑り台を使わせてあげてもよい。

 なぜかそう思ったのである。

 おやつも、ぴかぴかした折り紙も、シールもいらない。

 馨だったら、いらない。

 そう思ったのである。


「ううん」


 馨は首を振って、滑り台のすぐ脇に生えている桃の花を指した。

 華やいだ香りが漂っている。薄紅色の可憐な花がまんかいだった。


「桃の花がほしいんだけど、かの、取ってくれる?」


 左右の側近たちが、えっ、という顔で鹿乃子と馨を見比べる。

 ペリカン組の影が薄い花の世話係が、今、オオタカ組の我らが女帝に頼みごとをしたのである。

 ゆゆしき事態であった。いつもなら、鹿乃子の雷が落ちる。

 鹿乃子も同様に、目をみひらいて、馨のことを見下ろしていた。


 ――ばか。かのに命令する気!?


「どの花?」


 口から出かかった言葉の代わりになぜか素直に尋ねていた。

 側近たちが目を剥いたが、馨だけはなんということもないようすで、「かのの横にある、ふたごみたいな花」と言った。鹿乃子は花枝を手折って、するすると自ら滑り台を下り、馨に桃の花を差し出した。


「はい、あげる」

「ありがとう」


 花枝を受け取ると、馨はほのぼのとした口調でお礼を言った。木漏れ日の輝きが増した気がした。

 鹿乃子の胸がきゅうっと締め付けられ、なんだかわからず、ぱちぱちと目を瞬かせた。


「だれかにあげるの?」

「うん。見る?」

「……見る」


 むっつりしたまま、こくりとうなずく。

 桃の花を持った馨が歩き出したので、鹿乃子はあとを追った。

 いつもひとを率いている鹿乃子にはめったにないことである。側近たちが滑り台のうえで戸惑っているが、もうかまわなかった。さようなら、滑り台。わたしの玉座。もうどうだっていいや。


 馨が鹿乃子を連れて入ったのは、幼稚園の遊戯室だ。

 わあ、と鹿乃子は思わず声を漏らした。


 見事なひな壇が目の前にそびえている。


 そういえば、毎年、ひな壇は遊戯室に飾られていた。

 でも、鹿乃子は古い人形には興味がなかったので、ひなあられの上納だけもらって適当に流し見ていたのだ。

 あらためて前にすると、ひな壇は天井にそびえるほど高く、着飾ったお雛さまとお内裏さまにはじまり、三人官女、五人囃子と、華やかに彩っていた。


「桃の花、持ってきたよ」


 馨はひな壇の横に置いてあった花瓶に花を挿すと、誰ともなしに声をかける。

 それは、湖の底のように静かで、春のそよ風のようにやさしい声だった。

 開けっ放しの窓から舞い込んだ風が、桃の花を揺らす。


 鹿乃子はそのとき、つかの間、十二単のうつくしい女性がふわりと馨の前にあらわれ、耳元で何かを囁き、くすくすとわらい声を響かせて消えるのを見た。


 ぽかんとして、目をこする。

 幻影は消えていた。桃の花だけが鮮やかに咲き誇っている。


「かおるくん、いま、何かいた?」


 思わず尋ねると、馨はふしぎそうに瞬きをした。


「見えたの?」


 見る?と尋ねたくせに、見えるとは思っていなかったような口ぶりである。

 そのことに腹を立てるのも忘れて、鹿乃子は言った。

 

「見えた……。着物のきれいなおんなのひと……。かおるくんも見えるの? もしかしていつも? すごいね!」


 馨は目を瞠り、鹿乃子を見返してきた。

 なぜか、そのときはじめて、鹿乃子は生まれたときから一緒に昼寝をして、一緒にごはんを食べて、過ごしてきたはずの男の子の、心に触れた、と思った。やわらかな、まるい心の端に触れたと思った。それは泣きたくなるような静かな感動を鹿乃子に与えた。


「ないしょだよ」


 陽光に溶けるようにふわっと微笑み、馨は人差し指を口元に立てる。

 鹿乃子は射すくめられたようにその場で固まった。

 とくとくと速く打ち鳴る心臓の音を感じながら、頬を真っ赤にする。

 

 主従の逆転。

 女王の地位の転落。


 これはゆゆしき事態だ。

 ゆゆしき恋だ。


 ひまわり幼稚園オオタカ組、葉山鹿乃子、六歳。

 のちの結婚相手、坂上馨にこのとき恋に落ちる。


 ――これはその一歩目の物語。

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幼馴染の彼とわたしの恋愛結婚まであと五歩。 糸(水守糸子) @itomaki

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