わたしの願いが叶うまで。

西奈 りゆ

reft and right.

reft:


 突然の、雨だった。昨日の天気予報では、降るのは明日の昼からだと言っていたのに。もっとも、最近の不安定な天候を思えば、空模様なんてそれこそ山の天気のように変わりやすいものなのだろう。


 自分の判断の甘さに、内心爪を噛んでいた。


 完璧主義という自覚はないが、外からみれば自分は完璧主義に見えているということは、自覚している。今隣にいる義妹の紗代さよからも、よく言われる。


 その紗代も傘を持たず、こうして田舎のバス停にあった小屋で雨宿りをしているのだけれど、わたしのように眉を曇らすこともなく、むしろ涼しげな表情で空を仰いでいる。その横顔を前にしてため息をつくのもはばかられ、思考はしだいに記憶の中へ埋没していく。それは、今日わたしたちが、ここにいる理由へと。

 

「誰にも褒めてもらえるものじゃない。自分のことは、自分で褒める」というのが片親で育ててくれた母の信条で、けれどわたしはそれを曲解して受け取ってしまった。


「自分で自分を褒めるなんて、ナルシストのすることだ。叩いて伸ばさないと、自分を甘やかすことになる」


 もちろんこんなふうに言語化できるようになったのもつい最近になってからだけれど、年頃になったわたしは常にかりかりしていて、けれど中途半端に勉強はできてしまって、そこそこの成功ルートを通ってしまった。だから、わたしの中の「叩いて伸ばす」方略は、ある種の妥当性を得て、揺るがない正解となってしまった。

 べつに、不仲だったわけではない。だからこそ、感じ方、考え方の根本が相容れない母とは、お互いを匿うように争うことを避けてきた。けれど、それは緩やかな接点の剥離にも似ていて、就職を機にわたしと母との距離は、物理的なものよりはおそらくはむしろ心理的に、またひとつ遠のいた。


 母が他界してから、ちょうど一年が経った。病に気が付いたときには既に遅く、残された時間を手繰り寄せようとしても、そこには後悔ばかりが浮かんできて、苦痛を和らげる言葉も術もないまま、動揺を繰り返しているうちに、母の呼吸は止まった。

 あの日から、一年が。


 薄墨色の喪服に身を包んだわたしに対して、黒のワンピースで読経の席に座ったあなたを見て、時間の経過を知った。たった四年の時間が、あなたを少女から大人の女性へと変えていた。


「お義姉さん、お久しぶりです」


 場を意識してか、控えめに微笑んだあなたの目に釘付けになりそうで、わたしは曖昧な笑みを浮かべてその場をやりすごした。


 一周忌の法要は、つつがなく進行し、終わった。夫は都合がつかず、車の免許を持っていないわたしは、帰りのバス停で思いかけずあなたに会った。手の中の鞄を取り落としそうになった。


 人懐っこくて甘えん坊だったあなたにまた会いたい気持ちと、もう会えなくていいという気持ちが交錯する。自分が必要とされていると、まだ必要とされていると、完璧でなくても存在していいんだと、過去の色を塗り替えてもらえそうで。けれど上書きしたわたしは、ひたすらに前を目指して進んできたわたしを、過去未来からも追放するようで。それが怖かった。臆病なわたしを、慕うあなたに知られてしまうのも。


 実務が追い付いてこないのに、試験だけはパスしてしまうのが、かえってまずかった。「遊び心を持ってください」とアドバイスする塾長の口元は、日に日に歪んでいった。

 

 けっきょく、「遊び心」が何だったのか、今もわたしは分からない。

 ただ、限界を通り越して、ようやくあの場を離れる決心ができた。


「やまないですね」


 隣のあなたは、バスの時間を気にしているのか、時計を見ながら言う。わたしは頷きながら、ふと、傘を持たずに来た自分を許している自分に気がついた。


 この雨に言葉をあてがうなら、それは「守り」だと、そのとき思った。



righat:


 人は他の人の死を、おおよそ一年でほぼ受け止めていく。という話を、何かの本で読んだことがある。義姉のお母さんは、つまりわたしにとっても義理のお母さんということになるらしい。直接会ったのは数回限りだけれど、エネルギッシュで裏表を感じさせない、堂々とした人だった。


 両親が何を思ってわたしを義姉である早紀さんの家に寄こしたのか。たぶん早紀さんが塾の講師だったからだとか、わたしが学校を欠席気味だったのが、おそらくは関係していた。


 早紀さんはじめ兄夫婦は、わたしに対して特に何も要求しなかったし、特に干渉もしなかった。気を遣っているのもあったのだろうけれど、たぶん単純に、余裕がなかったのだろう。わたしの両親は、悪気はないのだろうけれど、どこか押しつけがましいところがある。兄夫婦の了解を、どこまでとりつけていたのかは疑問だ。


 場所というより時間を持て余していたわたしは、掃除だけでもさせてもらおうと、許可を取って早紀さんの部屋に入った。


 所狭しと積み上げられた専門書。啓発書。資料。どれもが子どもについてのもので、けれど内容は教科の教育についてよりも、子どもとのかかわり方についてのものが圧倒的に多かった。


「頭はいいけど、面白みがなくて可愛くないのよね」


 親戚のおばさんたちが、陰で早紀さんのことをそう噂していたのを、少し後にわたしは聞くことになる。唇を嚙むことしかできなかったわたしを、この大好きな義姉は許してくれるのだろう。この人はずっと、優しすぎたから。


 バスはまだ来ない。隣のベンチに座る義姉の表情からは、感情をうかがい知ることができない。それは、四つの感情のどれにも当てはまらない。その目は遠くの、雲の先を見ていた。


「自分が嫌いなんです」と打ち明けたとき、あなたはしばらく考え込んで、困ったように笑って言った。


「わたしも。けど、なんとか生きてるよ」


 傷ついたことを、あなたはやっぱり言わないから。わたしの前では、弱さを見せようとしない。まるで、親鳥のように。


 雨が、やまないといいと思った。ほんの少し、ほんの少しでいい。あなたがわたしに、寄りかかってくれるまで。


 ユキヤナギの白い花弁が一片、道路をつたって流れていった。

 バスなんて、来なければいい。

 



  

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わたしの願いが叶うまで。 西奈 りゆ @mizukase_riyu

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