槙野 光

 彼女の名前は、あんり。大学の入学式で出逢った彼女は陽キャで、たまたま席が隣り合っただけだというのに一個上の彼氏がテニスサークルに入っているからと、入学式が終わるや否や半ば強引に私を新歓コンパに連れて行った。

 私とあんりは似たような髪色だった。胡桃色。私とあんりは似たような髪の長さだった。肩甲骨。私とあんりは似たような背丈だった。約百六十センチ。

 でも、私とあんりは違う人間だった。

 入学式からひと月も経つと彼女との距離は自然と遠ざかり、代わりに私のスマホのメッセージアプリには彼女の彼氏から――先輩からメッセージが届くようになった。

 テニスサークルは所謂飲みサーで、人付き合いの苦手な私はいつの間にか幽霊部員と化していた。けれど先輩とのやり取りは細々と続いていた。大学二年生の春休み。いつもは参加しない居酒屋の飲み会に顔を出す気になったのは、その日の気温が高くて道端で二匹の野良猫が仲睦まじくしていたからだ。

 あんりがバイトでその場にいなかったのは多分偶然で、先輩が隣に座ったのはきっと偶然じゃない。だから私は、酒に酔った勢いという態で誘われるがままに先輩と居酒屋を抜け出し、鶏ガラの様な身体を差し出した。

 多分、出汁は出ない。

 居酒屋から十分。適当に目に入ったホテル。ダブルベッドの上で私の身体をなぞる先輩の指先は愛撫と言うには程遠く、出口のないトンネルに抜き差しするだけの一方的なただの作業だった。

 行為を終えても、私の身体に先輩の足跡は残らない。

 先輩も多分、足跡を残さなかった。

 双眸に映る景色は一ミリも滲まず、ひとり歩く夜道に吹く風のどこにも春の酸素はなくて。その日から、毎日午前零時に届いていた先輩のメッセージはなくなった。就寝前、先輩に宛てた私のメッセージも、もう既読にならない。

 私は布団の中で膝をくの字に曲げ、スマホに指を滑らせる。

 メモ、消す。カクヨムの下書き、消す。アウトルック、消す。SNSの呟き、消す。消して消して消して消して――最後に、メッセージアプリを立ち上げる。トーク画面に表示される先輩の名前。瞼を下ろすと名前も、先輩とのやり取りも消える。でも持ち上げると、再び現れて。消せばいいのに出来なくて、上書きするように指を滑らせた。

『消すってなに? 私は何を消しているの? 何を消したいの? 過去? 今? 未来? 知らない。何も分からない。何も分かりたくない。ねえ、教えてよ――』

 喉の奥に熱が絡む。画面の向こうには誰もいない。いる筈がない。私は、ひとりで――。


『五月蝿いんだけど』


 突然現れた緑色の吹き出し。棺へと成り果てたトーク画面に現れた素っ気ない黒文字は、優男を装っていた先輩の口癖とは程遠い。

 先輩との繋がりが断ち切られてから一週間、午前零時。日本中の学生のトーク画面に見知らぬ誰かの写真やトークが突然表示され、IDさえ混線した。日本中の学生がパニックに陥ったが、時間にして十分。事態はすぐに収束した。サイバー攻撃を受けたのだとか、学生だけに起きた超常現象だとか嘘か誠か判別不可能な噂が蔓延する中、私はその翌日も布団の中で膝をくの字にしスマホを手にしていた。

 時刻は午前零時――三十秒。

『いますか?』

 高鳴る鼓動を抑え光の中で打った黒文字。十秒後、既読になりぽんと新たに浮かぶ三文字。

『何それ』

 息を呑んだ。瞬きを繰り返し、短い息を吸い文字を編み直す。

『ノック』

 けれど彼は、文字を崩す。

『変な人』

 私は指を止める。十秒後。返ってきた三文字には、プラスハテナが付いていた。

『名前は?』

 躊躇い、私は二文字を返す。

『何で?』

『不便だから』

 光の速さで返ってきたのは真っ裸の五文字で、私は僅かに空いた唇で呼気を閉じ込め、微かに震える指で『あんり』となぞるように文字を打った。

『あんり? 平仮名? 珍しいね』

 熟考とは言えない間を空けて浮かんだ文字はまるで心を見透かすようで、私は喉を鳴らしスマホを握りしめた。真っ暗闇に、白い光は眩し過ぎる。

『知らないから』

『知らない?』

『彼女の漢字』

『彼女?』

『先輩の彼女』

『先輩?』

『テニサーの先輩』

『その彼女?』

『うん』

『貧しいね』

 指を止めた。白い光の中に浮かぶ黒文字が輪郭を濃くする。くっきりと瞳に灼きついた言葉に、私は双眸を細め下唇を噛んだ。

『うん』

 時刻は、零時十一分過ぎ。文字は既読にもならず未読にもならず、瞬きの間に跡形もなく眼前から消えた。

 私は、器からはみ出た残像を双眸に映し出す。一秒、二秒、三秒――六十秒。滲む様な痛みが目の奥から溢れ出て、涙の薄膜が双眸を覆う。

 ――もう、やめたら?

 耳にしたことなどない彼の言葉が顔を出す。私はスマホを胸に抱き、そっと瞼を下ろした。

 道行く誰もが平時を取り戻す中、私のメッセージアプリは彼と絡み合ったままだ。午前零時から零時十分。日本中の学生がパニックに陥った時間、十分。


 時刻を過ぎると、彼とはもう繋がらない。


『私は思うのです。どうして私は私で、貴方は貴方なのかと。例えば私が貴方で貴方が私であったのなら、顔も身体も心臓も分かち合えたのなら、私が私である必要も、貴方が貴方でなければならない理由もなかったでしょう。私達はまるで皺だらけのレシートか、履き潰した革靴のよう。私がわたしでもワタシでもないように、貴方があなたでもアナタでもないように、私達の器は酷く貧しいのです』

『長い』

 午前零時五分。三分ほどの沈黙の果て、ぴしゃっと叩きつけるようにスマホの液晶に現れた黒文字は、相変わらず切れ味が良い。けれど鋭利な刃は誰かを斬りつけようとはきっと思っていない。例え私が傷だらけになって泣き噦ったとしても、彼は飄々と返すのだろう。

 だから何、と。

 彼はそう言う人で、だから私は彼との繋がりを断ち切れずにいるのだろう。

『きみは毎回長いし五月蝿いんだよ。かまってちゃんはうざいだけだから止めたら?』

 私はとんとんとん、とリズミカルに指を進める。

『じゃあ放っとけばいいんじゃない?』

 沈黙。一拍二拍三拍。浮かぶ緑。重なる黒。

『そうして欲しいなら、そうするけど?』

 指を止め、布団の中で握りしめたスマホが微かに軋んだ。彷徨わせ、結局頭を垂れた女の子のスタンプを選ぶ。ポンッと浮かんだスタンプはすぐに既読になった。

『きみは本当に面倒くさいね』

 私は彼の言葉を唇の内側で反芻し、再び指を進める。


『何で零時から零時十分なんだと思う?』

『きみが、きみを嫌ってるからじゃない?』


 大学二年生。三月最終日。カレンダーが切り替わるその日、一分程の間を空けて返ってきた彼の文字が双眸を通り越して突き刺さる。もしその文字を真っ二つにしたらば、綺麗な断面図が出来上がるのだろうか。

 一文字ずつ飲み込むように視線をゆっくりと滑らせる。スマホに乗せていた指を浮かせると、こくりと喉が鳴った。唇を開けて引き結び指を乗せる。そしてひとつ、またひとつと文字を打つ。

 ――そうかも。

 打ち、そして消し、考えまた指を滑らせる。

 ――あなたも?

 打ちかけて、手を止めた。

 かつて先輩と繋がっていた場所で、私は彼と文字を交わし続ける。彼は先輩じゃない。だからと言って、私でもわたしでもワタシでもない。貴方でもアナタでもない。

 半径五メートルの法則。

 生活環境の半径五メートル以内で、人は人間関係を構築している。だとすれば、『半径五メートル』が人を形造っているということにもなり得るのだろうか。

 彼の顔も声も名前も私は知らない。それでも彼は、私の半径五メートルに存在している。けれど彼は。彼はどうなんだろう。彼の中に私の場所はあるんだろうか。私は彼の半径五メートルの中にいるんだろうか。考えている今にも、時刻は十分を過ぎようとしている。

 文字を打つ。

 『いる?』

 文字が、届く。

 『馬鹿じゃないの?』

 辛辣なそれに小さな笑いが口から溢れる。かち、と十分が過ぎた。タイムリミットだ。途端、胸の奥が急激に冷めていった。私は彼の文字を瞳に映し、右上にある受話器のアイコンに視線を滑らせる。このアイコンを押せば、もしかしたら十分を過ぎても彼と繋がるかもしれない。幾度も思う。でも結局押せなくて、代わりにスマホを胸に抱き瞼を下ろした。

 季節は、私を置き去りにして移り変わる。大学三年生、四月初旬。春休みが終わったその日から彼のメッセージが途絶え、私のメッセージは宙に浮くようになった。

 冬の風が心に吹き差し胸を抉る。金槌で打たれたように疼痛が響く。景色が、滲んだ。


 講義と講義の合間。午後二時。私は大学の中庭のベンチにひとり座り、スマホ片手に彼の文字を双眸に映す。

『何が言いたいの?』『つまらない』『愚か』

 彼の文字はどれも辛辣だ。けれど飾らない文字が私を結びつける。幾度も幾度も手繰り寄せ、それでもスマホの文字は過去ばかりで、過ぎ去った日付が視界を掠める度胸奥に知らない感情が溢れ出る。色の三原色を全て混ぜたような混沌とした色。

『馬鹿じゃない?』

 遡っては進み視界に飛び込んできた彼の文字に、指が持ち上がった。そしてスマホの右上に滑りぽつぽつとインクを垂らしたようなコール音が鼓膜を揺らす。はっとすぐに我に返る。けれど、耳からスマホを離せなかった。握りしめた手のひらが熱い。鼓動が早鐘を打つ。そして。

「はい」

 声がした。

「もしもし?」

 気怠げ、でも耳に馴染むほどよく低調な声。唇の合間から漏れ出る息は熱いんだか覚めているんだか分からない渇きがあって。

「あ――」

 紡ぎ出そうとする彼の言葉に、咄嗟に終話ボタンを押した。不整脈。乱れる心拍。あと五分で退屈な心理学が始まる。仰ぎ見た空は鈍く重い。燃え滓で染めたように疎らで、どっちつかずの中途半端な色をしていた。

 縒れた雨が落ちてくる。息を吐き歩き出すと背負ったリュックが揺れ、背中を叩いた。


 十階建てのビルに足を踏み入れ、入り口奥のエレベーターで四階。降りて、足を右に向け廊下を歩き視界に入るM0404のシルバープレート。後方の出入り口に立ち、息を整え静かに戸を引く。室内に足を踏み入れ見渡すと、半円の机が一段二段三段四段。講義室の段々畑は豊作の兆しがある。

 前を見る。教壇に立つ教授が話を区切るところだった。教授の両肩が上がる。歯と歯の合間から息を吸っては吐く癖のある話し方に、くすくすと底意地の悪い笑い声が後方で広がっていく。

 私たちは生き物だ。息を吸う度、誰かに触れた酸素が体内に入り込む。私は使い捨ての息を吐き、もう一度室内を見渡す。すると、出入り口からすぐの席がひと席空いていた。ひとりぼっちで座る青年の横。右隣。ペンを手にした青年の頭が下がる度、頭頂部に生えた三日月のような寝癖が一本柔く動く。躊躇いながら、右隣の椅子に可愛げのない黒一色のリュックを置く。なるべく音を立てないようにしたが隣に座ると微かに鈍い音が響き、引っ張られたように青年が私の方を向く。

 眉間に刻まれた縦皺。縁のない眼鏡を透かす褐色気味の黒い瞳。僅かな苛立ちは一瞬で。視界からすぐに外される。最後列ドア側、隅からひとつ中央に寄った目立たない席。それでも講義を受けるその瞳は熱心で、そのちぐはぐさが胸の奥で絡まった。

 ――変な人。

 彼が打った文字が脳裡を過ぎる。私は机上にキャンパスノートと教本を置き、リュックの外ポケットからスマホを取り出す。教授の視界から隠すように膝と膝の合間を机代わりにして、メッセージアプリを立ち上げた。

 今日の午後二時を迎えるまで、彼との最後のやり取りは春休み最終日の午前零時十分だった。けれど今は違う。午前零時十一分を過ぎた午後二時。受話器のアイコンに音声通話の文字。

 もしもし。

 唇の内側で、彼の言葉をなぞる。

 もしもし。

 もしあの時私が言葉を返したら、彼からはどんな言葉が返ってきただろう。どんな言葉に触れることができただろう。断絶音の残響が脳裡に浮かぶ。唇を引き結ぶと奥歯がぶつかり合い、硬質さを帯びた音が重なった。

 瞼を下ろし持ち上げる。手のひらに滲んだ汗はそのままで。短い息を漏らしリュックの外ポケットにスマホを閉じ込めようとすると、手のひらから逃げるようにスマホが滑り落ちていった。あっと声を上げる間も手を伸ばす間もなく、かつ、と乾いた音が鼓膜を揺らした。一瞬の内に見失う。屈むように自分の足元を覗き見るけれどそこには黒のパンプスしかなくて、胸の奥で嫌な音が響いた。

 焦燥のままに視線を必死に巡らせる。けれどやっぱり見つからなくて、鼓動が荒波のように激しさを増していった。でも――。左の視界に、不健康そうな白い手が伸びた。私の足元から五十センチほど離れた青年の足元。見知らぬ手が掴んだ透けたピンクのスマホカバー。馴染みのあるそれに今度こそあっと小さく声を上げると青年が私にスマホを差し出す。視線を交わし上から覗き見た画面は光を帯びたまま。

 私と彼の緑色の吹き出しもそのままだ。

「……ありがとう」

 私は返ってきたスマホを胸に抱く。喉元から絞り出した声は羞恥で揺れた。俯き、安堵の息を吐く。そしてもう一度顔を上げると眉を顰め、まじまじと私を見る青年がいた。

 青年の口が僅かに開き、閉じる。そしてゆっくりとまた口が開き――紡がれた三文字に、脈拍が不規則に揺れた。

「あんり」

 じわじわと身体の奥から押し寄せる衝撃に瞬きさえ忘れ、唇が振動する。手のひらから再びスマホが滑り落ちそうになり慌てて握りしめると、青年が――彼が、呆れを滲ませたように吐息を漏らした。

「馬鹿なんじゃない?」

 静かに、でも馴染みのある辛辣な物言いに心臓が大きく飛び跳ねた。私が瞬きを繰り返すと彼は何事もなかったかのように前を向き、シャープペンを掴む。ノートに綴られていく文字は少し右斜に上がる癖があって。

「見すぎ」

 私は彼の言葉に促されるように前を向き、机上代わりにした膝の合間でもう一度メッセージアプリを立ち上げた。文字を打つ。消えていく。文字を打つ。消えていく。画面右上、受話器のアイコン。指の距離一センチ。指を下げる。指を上げる。息を吐く。息を吸う。

 指を、止める。

 講義が終了し皆がノートや教本をバッグに詰め込む中、私は彼が席を立つのを待った。握りしめたままの熱いスマホに足早な鼓動。彼はトートバッグを手に立ち上がり、私はリュックを背負い一拍置いて立ち上がる。声を掛けようとしたけど出来なくて。彼は立ち尽くす私を一瞥し、通り過ぎる。室内から廊下に出る間際、彼が一瞬だけ立ち止まったような気がした。けれど気のせいだったのかもしれない。

 廊下に反響する賑々しい足音、そこに混じる彼の足音。

 私と彼は先ほどまで半径五メートル以内にいた。けれどその隔たりは半径五メートルよりも遠く、たった十分の合間で交わした文字のほうがよっぽど近かった。

 近いけど遠い、彼との距離。

 下唇の内側を噛むとぴりっと静電気が走ったような小さな痛みが広がり、滲み出た鉄の味が舌を侵食していった。


 あ、またいた。


 講義室。中庭。電車。駅。意識をすると、彼の姿はあちらこちらにあった。私が彼の近くに寄ったのでも、私が彼の近くに寄ったのでもない。知らなかっただけで、私たちの行動範囲は多分元から重なっていた。時折彼とすれ違った。立ち止まると視線が交差する。一秒、二秒、三秒。そして時に彼から、時に私から、目を逸らす。

 彼はいつもイヤホンをしていた。私は彼が誰かと一緒にいる姿を見たことがない。私と同じ。いつもひとり。

 声を掛けるタイミングはいくらでもあった。でも夏を過ぎ秋が過ぎても彼との距離は重ならず、時間だけが刻々と過ぎていった。反面、スマホに残る彼の文字はどんどん鮮明になっていく。輪郭を濃くしていく彼の文字とは対照的に、先輩の文字がぺら紙のように薄れていく。

 大学三年生。彼と過ごした春休みが再び訪れる。ボロアパートの布団に包まりスマホを手にした午前零時。

『いますか?』

 一秒、二秒、三秒――。十秒後、既読になりぽんと浮かんだ三文字に、目の奥が熱くなった。

『何それ』

 滲む景色を誤魔化すように瞬きを繰り返し、短い息と共に三文字を編み直す。

『ノック』

 そして彼もまた、文字を編み直す。

『相変わらず変な人』

 辛辣な文字の中でくすりと笑う彼の声が聞こえたような気がした。その日から、私と彼は何事もなかったように再び文字を交わし始めた。酔っ払い親父よろしく、くだをまく私に彼は相変わらず辛辣だし、私の文字は相変わらず定まらない。

 場所、ボロアパートの布団の中。時間、午前零時から零時十分。季節、冬と春の境。

 私と彼が繋がるには、多分条件がある。

 サイバー攻撃か超常現象かと判別不可能なあの日をなぞるように、大学生の春休みでなければ私と彼は繋がれない。だとすれば、私と彼の糸は少しずつ解れているのかもしれない。そして来年の――大学四年生の春休みを終え社会人になったその時。

 きっと、彼との繋がりは断ち切られる。

 でも、本当は分かっている。

 私と彼は同じ大学に通っている。私と彼は同じ講義を受けている。私と彼は行動範囲が似ている。受話器のアイコンに触れればいつだって糸を結びなおすことができる。けれど私はきっと触れない。触れられない。

 何故――。何故私は「あんり」と名乗ったのだろう。何故私は彼女の名前を告げたのだろう。もし私が「あんり」と名乗らなければ、彼は私の名前を呼んでくれただろうか。あの講義室。あの時、彼は立ち止まって振り返ってくれただろうか。すれ違い様、彼はもしかしたら。

『馬鹿じゃない?』

 いや違う。彼じゃない。私だ。私が、わたしでもワタシでもない私にした。貴方をあなたでもアナタでもない貴方にした。糸を解れたままにしたのは、私なんだ。

 過干渉な実家が嫌いだった。

 上澄みだけの地元が嫌いだった。

 だから大学一年が過ぎた頃レトロな見た目が気に入ったと嘯き、今にも崩壊しそうな安普請のアパートを選んだ。壁という名の薄っぺらい板。隣人の歩く音、ベッドの軋む音、淫らな言葉、嬌声。午前零時に始まる虚偽と現実の交わりは恐らく隣人の嫌がらせで。

 大学二年生のあの日。桜の花弁が萎み始めたあの日。先輩と混ざり合えば、何かが変わると思った。でも結局混ざり合えなかった。私は私で、先輩は先輩で。

 先輩なんてちっとも格好良くない。「あんり」なんて別に羨ましくない。こんなボロアパートだって本当は住みたくない。何もかもを誤魔化し続けてきた。でも、本当は――。

 私は、私のことが好きじゃない。

『五月蝿いんだけど』

 取り繕うことをしない彼の文字。堂々とした彼の文字はいつだって鮮烈で。目にする度、鈍く重い雲が裂けて少しだけ。ほんの少しだけ光が差したような気がした。

 午前零時、世界が切り替わる時間。私を置いて走り出す新しい毎日、瞬間。何も変わらないことに怯えて、何も変えようとしないことに憤って。せめて少しでも過去に縋っていたくて。たった十分。その時だけ私は、過去と今の狭間にいられた。


 きっと、私でいられた。


 でもそれも終わる。終わってしまう。

 考えるとなかなか眠りに就けなくて。でもいつの間にか瞼は下りて、春休みは瞬く間に過ぎていく。

 だから最終日を残したその日。後一年を残して、私はスマホから先輩のIDを消した。

 私は布団の中で丸くなる。自分を守るように膝をくの字に曲げ、背を丸める。

『だからきみは愚かなんだよ』

 彼の文字が脳裡を過り、私は硬く目を瞑る。

 私は一体何を守ったのだろう。何を守りたかったのだろう。考えても考えても分からなくて。胸に抱いたスマホは――ひどく冷めていた。


「ねえ、なんで何も言ってこないわけ?」


 大学四年生。四月四日。講義と講義の合間。中庭のベンチ。スマホを手にひとり薄青の空を眺めていると、突然前方から影が差し込んだ。頭頂部に生えた三日月みたいな寝癖が一本。艶やかな黒髪。縁のない眼鏡。褐色を帯びた黒い瞳。ネイビーのスプリングコート。

 私を見下ろした彼はコートのポケットに両手を突っ込み、呆れを孕んだ吐息を漏らす。

「どうせまたぐだぐだ考えてるんでしょ」

 私がぐっと言葉を詰まらせると、彼は私の返事を待たず隣に腰掛ける。そしてポケットの中から左手を出す。その手の中には透明カバーで保護されたシンプルなスマホがあって、彼は手早く操作して私に画面を見せる。

「ほら、早く読み取る」

 彼のスマホに現れたQRコード。透明じゃない彼の糸。彼を見る。彼が、私を見る。微かに震える唇をぎゅっと引き結びスマホを翳し読み取ると、ぽんっと彼の名前が私のスマホに表示された。

「はると……」

 呟くと、彼が足早に言葉を綴る。

「何か送って」

 促され、私はスマホに指を乗せる。なんて送ろうかなんてそんな時間はいらなかった。

 彼の前では、いらないんだ。

『あんり』

 緑色に浮かぶ三文字。

 彼が目元を和らげ、口を開く。

「あんり? 平仮名? 漢字は?」

 私は再び指を滑らせる。少しして彼がスマホを見る。三拍後、顔を上げた彼と目が合う。私はコンタクト。彼は眼鏡。違う形のレンズが重なり透けて届き、彼がふっと小さく笑う。


「本当に馬鹿だね、きみは」

 ――杏里あんりは。


 彼がスマホに指を滑らせる。私のスマホが手の中で緩やかに震える。インクを垂らしたようなぽつぽつとした着信音に、スマホに表示された彼の名前。


 ――春冬はると


 彼がスマホを耳に当てる。私はスマホの通話ボタンを押し、耳に当てる。

「馬鹿だね……」

 双眸に映る景色を滲ませながら私が言うと、彼の柔い声が鼓膜を揺らす。


「でも、それがきみなんでしょ?」


 スマホ越しの彼の言葉が私の喉元に熱を生む。唇を引き結び、寄り添うような柔らかさに瞬きを繰り返すと彼の声が再び鼓膜を揺らした。


「――杏里。きみは、ここにいる」


 彼の言葉が、春の風を連れてくる。悴むような冬が終わり、雪原に緑が咲く。


「僕も、ここにいる」


 私と彼の合間を春が通り抜けていく。彼が笑い、私は眦から涙を溢す。そして瞬きをし酸素を吸って。

 彼と同じ温度で私も、笑った。

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槙野 光 @makino_hikari

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