第5話 河羅と智秋

 河羅と智秋がそれぞれの進学のため、アパートに一緒に住むようになって三か月が過ぎた。河羅は六月考査が終わり、水泳部であればまもなく活動シーズンに入る。一方、智秋は法曹界を目指し、私設の勉強会に入っていた。お互いに忙しくなるはずだったが――



「智……あのさ、ちょっと相談があるんだけど……」


 河羅は智秋の部屋に顔を出してそう言った。智秋は勉強中だったが河羅を部屋に招き入れ、河羅は智秋のベッドに腰掛け、智秋は学習用のテーブルに肘を置き背もたれに身を預けながら河羅の方を向いた。


「水泳……辞めようかなって、思うんだけど……」


「なんで?」


「……やっぱり、カワラの力があるのって、ズルいじゃん……」


 河羅は、水の中にいる時の自分が明らかに人間離れしているという自覚があった。水が自分を避けていく。水流が自分を押してくれる。水が空気同然に自分を包んでくれる。水と一体となった自分はまさに最強だ、と河羅は感じていた。タイムも、もはや世界新記録を出せる自信があった。だが、それは自分の努力ではない……そんな葛藤をずっと抱き続けてきた。


「さっさと世界王者になって、悠々自適な人生もいいんじゃないの?」


「何言ってんだよ! それじゃ、他に努力してる人に申し訳ないじゃん!」


「たかが水泳じゃないか。水泳がなくても人類は生きていける。あ、でもスポーツが戦争の代わりだと思うと軽んじてはいけないか」


 智秋は腕組みをして、背もたれをギシギシと鳴らしながら言った。


「……やっぱ、辞めるよ、水泳」


 智秋の冷たい言葉に、河羅は逆に決心がついた。


「でもお前、スポーツ推薦で入学しといてそんなことできるの?」


 河羅は智秋の問いかけに応えるため、服の袖をめくって左腕を差し出した。皮膚がボロボロになっている。まるでまだらな鱗のようだった。


「どうしたんだよ、コレ」


「多分、カワラの影響だと思う。でもね、ただ酷くなってくのとも違って、なんて言うか、気持ち次第なんだ。少し人間から離れてるな〜……って感じになると、皮膚もこうなる」


「なんだよその、人間から離れるって」


 智秋は鼻で笑いながら言った。


「智は無いの? なんていうか、魚みたいにボーッとするんだよ」


「大丈夫か? いよいよカワラに乗っ取られるんじゃないの」


「そう……だったら、どうしようね……。俺が、俺じゃなくなったら。智は……どうする?」


 智秋は軽く言ったつもりだったが、河羅は自分がカワラになってしまうことをこれまで幾度も考えていた。もし、カワラになって「人間」から拒絶されたら、自分は一体どうなってしまうのか……。たとえば、街中に現れた熊のように駆除されてしまうのか、そんなことを想像していた。


「お前に何かあるなら、僕にも何かあるだろう。一緒に逃げるなり、戦うさ。一蓮托生だよ」


 智秋の間髪入れない回答に、河羅はホッとした。


「塩素アレルギーってことで、退部できないかなって考えてるんだ……」


「ああ、それはいい。突発的になってもおかしくないし、引き留めるための代替案もない」


「だよね」


 智秋すら納得するなら、大丈夫だろう。河羅はそう思いつつもため息をついた。幼い頃からスイミングに通い、努力してきた。水泳中はどんな嫌なことも忘れられる特別な時間だった。それが、泳げないからやめるんじゃない、得意すぎてやめることになる。皮肉な話だ。


「……でも残念だよな。せっかくお前も頑張ってきたのに」


 智秋の言葉に、河羅はギョッとした。


「智……にも、そんな人の心が……?!」


「どういう意味だよ。さすがにここは慰めるだろ、普通」


 智秋は微かに笑った。そういうときの智秋は、本当に優しい時の智秋だった。


「……あんまりびっくりして、悲しい気持ちが引っ込んだよ」


 そりゃ良かった、と智秋は言い、河羅も気が楽になった。残念なことに変わりはない。でも今までのこともこれからのことも、わかってくれる人がいる。河羅はそれが嬉しかった。



(第五話 終)

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KAWARA 〜人間×異形の狂気ホラー〜 真白透夜@山羊座文学 @katokaikou

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