眠れぬ夜の『16小節のラブソング』
隅田 天美
拝啓 池波正太郎先生へ
お墓参りには何度か尋ねていますが、こうして、ファンレターを書くのは初めてです。
墓前での非礼は(特に最初の頃)は本当に申し訳ありませんでした。
最初に墓前に立った時。
私の頭はパニック状態でした。
--好きな作家の前にいる
これだけで喜びやら恐怖やらが脳内を駆けまわりました。
それから、もうすぐ、四半世紀が過ぎようとしています。
お寺の人とも大分話せるようになりました。
本来なら、万年筆で手書きが最善だと思いますが、私は字が下手なうえに先生が今いる住所が分かりません。
空の番地なんてありませんから……
なので、このような手段で手紙を書いています。
四半世紀。
世界や日本では色々なことが起こりました。
私自身、瞼にシミが出来たり通っているスポーツジムで出来ていた運動が出来なくなりました。
職場では、現場の中で最年長になっています。
去年、私史上最強の友達が先生のいる場所に逝きました。
彼女には会ったでしょうか?
元気でしょうか?
とてもいい子なので可愛がってください。
そんな中、さすがに私も年齢などを考えて、ほんの少し、自分の死というものを考え始めました。
世の中には、正確には倫理と呼ばれる世界では『絶対主観』と『相対主観』というものがあることを知りました。
端的に書けば、『絶対主観』とは自分ルールで観ること。
『相対主観』とは周囲に合わせて観ることです。
先生の盟友、司馬遼太郎先生の評を見る限り、池波先生は『絶対主観』が強いんだなと個人的に思いました。
ただ、そのルールを相手に押し付けませんでした。
私のことになりますが、子供のころから「みんな」という『相対主観』によって周囲から虐められました。
『みんな』という曖昧模糊とした相手に私は、疲弊しました。
--いっそ、みんなを殺して、自分も死んで負けてやろうか?
そんなことを毎日毎日考えていました。
今で言うのなら鬱です。
そんな時に時代劇小説にハマりました。
読んでいる時だけは、自分は救われました。
それから、エッセーなどを読み始めました。
賛同することもあれば、相違を感じることもありました。
そんな中で、みんなではない自分の『相対主観』が出来たのだと思います。
自分を少し、客観視できるようになったのかもしれません。
『結局、色々あったけど、それなりにいい人生を歩んでいたんだな』と今ならば、そう思います。
もちろん、私がこの後の人生をどう進み、どう感じ、どう終わらせるかは分かりませんが……
もしも、そちらで会うことになったら私が見た世界、映画の話をたくさんすると思います。
--あの時、死なないで好かった
--あの世界(この世界)には、たくさん、面白いものがあった
そんな話になると思います。
そろそろ、夜が明けてきました。
まとまりのない文章ですが、ここまで読ん下さりありがとうございます。
柴田錬三郎先生、遠藤周作先生にもよろしくお伝えください。
追伸・友人が傍にいたら、「私はそれなりに少し色あせた世界で生きている」と言ってください。
眠れぬ夜の『16小節のラブソング』 隅田 天美 @sumida-amami
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