あっとアート

香久山 ゆみ

あっとアート

「あの町のどこかに、きみに宛てた作品を遺しておくから」

 私が北加賀屋を訪れたのは、そう言われてから半年後のことだった。

 で?

 どこに私に宛てた作品があるって? 検討もつかない。まるで謎解きです。いや、謎解きよりも難易度が高い。ヒントさえないのだから。ちゃんと訊いておかなかったことを今更ながら後悔する。けど、あの時はそれどころではなかったから。

 とりあえず、地下鉄を降りて、地上を南港へ向かって進んでいく。

 彼が、作品を遺したというのだから、こちら方面ということにはまず間違いないだろう。

 大阪の南港にある北加賀屋という土地は、元は造船業で栄えた町だ。しかし、近年は工場移転などにともない閑散とした町になっていたところ、地元の有志が発起して「アートの町」としての地域再生を目指している。実際、工場や倉庫跡が現代アートの製作・保管場所として活用されており、今や大阪で「アートの町」を挙げろといわれれば必ず名前が出るくらい定着した。

 特に、「MASK」という倉庫では、年に一度収蔵作品の一般公開を行っており、夫と何度も脚を運んだ。倉庫内に所狭しと置かれた巨大アート群。著名なアーティストの作品を手が触れるほどの距離で見られることに興奮したものだ。

 芸術鑑賞が趣味で、週末には連れ立ってどこかの美術館へ出掛ける。平凡な夫婦、のはずだった。

 三年前、夫が会社を辞めた。私に黙って、突然。事後報告だった。

 それで、夫は北加賀屋の小さな空き倉庫を借りて、作品を作り始めた。かつて芸大生だった頃に作っていたような、とても自宅では製作できないような巨大な作品だ。

 私たち夫婦には子どもがいない。すでにそれなりの貯えもある。だから、夫が再び芸術の道を志すことについてはやぶさかではない。ただ、事前に相談してしかるべきなのではないか。私たちは夫婦なのだから。そう主張したが、夫はへらへらと笑うばかり。

 それで、私は臍を曲げたし、夫は夫で北加賀屋の倉庫に籠って平日休日問わず製作活動に励んでいるから、夫婦で出掛ける機会もほとんどなくなった。

 廃材を使っているとはいえ、つくる作品の大きさが大きさなので、出ていくお金もまとまった金額だ。

 作品を完成させては、どこかのギャラリーやイベントなど展示の機会を見つけて発表していたけれど、無名であるし、作品が巨大すぎるということもあり、購入希望者は現れない。誰にも引取られなかった作品は、倉庫に返ってきて、でも別で保管場所を借りるほどの余裕はないから、次の作品製作のために解体される。

 私は、夫に隠れてこそこそと展覧会を覗きに行っては、学生時代と変わらず良い作品なんだけどなーと思うんだけれど、そんな甘い感想を直接夫に伝えることはしなかった。

 それでも夫は黙々と作り続けた。

 ただ好きなことに打込んでいるはずの夫は、少年のようなひたむきな表情をしていたが、時折何かに追い立てられるような切羽詰まった眼差しで工具を振るった。どうかしたのかと問うても、すぐに表情を戻して「大丈夫だ」と笑うばかり。

 そんな夫の事情が知れたのは、昨年夫が倒れた時だった。

 入院してようやく、夫は私に打ち明けた。夫に残された時間はすでに半年を切っていた。夫が会社を辞めたのは余命宣告を受けた直後のことだった。

「どうして私に言ってくれなかったの?」

 夫婦でしょ、と夫に泣きながら詰め寄った。

「言ったら、きみは作品づくりを止めただろ」と夫は笑った。

 そうだ、きっと私はそうしただろう。だって、巨大な作品をつくるのはなかなか体を酷使する。そんな体力消耗することはよして、ゆっくり休養しなよ。良くなったら作ればいいよ。そう言っただろう。私は夫のアートが好きだけれど、夫のことはもっと大切だから。

 長期入院中、病室に紙や鉛筆や筆や木片や色んなものを持ち込んだけれど、私が付いている間に夫がそれらを取ることはなかった。また、数度の一時帰宅の際も、どこかへ出掛けたりはするものの、もう倉庫へ巨大作品をつくりに行くようなことはなかった。

「さすがにもうそんな体力はないよ。好きにさせてもらって、十分満足した」

 すっかり頬のこけた夫は、変わらぬ笑顔を向けた。

 こんなことならば、私の貯金をはたいてでも大きな倉庫を買って、あなたの作品を解体なんてさせずに全部保管したのに。そう訴えると、「だから、きみには言わなかったんだよ」と夫は言う。

「きみは、この先も生きていくのだから」と。

 けれど、一つだけ。あの町のどこかに、きみに宛てた作品を遺しておくから。

 夫はそう言って、本当に私から何一つ失わさせてくれなかった。そのくせ、あなた自身という一番大きな喪失だけを遺して、逝ってしまった。

 半年間程は、葬儀や法事、役所回りや相続手続で慌しくして、ようやく諸手続が落ち着いた時に、私はひとりぼっちでぽっかり大きな穴が開いていて、あなたに会いに行きたくてどうしようもなくなった。

 そんな私を慰めるように、ふと夫の言葉を思い出した。

「あの町のどこかに、きみに宛てた作品を遺しておくから」

 それ以上詳しいことは聞けなかったし、その後一気に悪くなったから訊く暇さえなかった。

 けれど、夫が私のために遺してくれたもの。それがきっと私の穴を埋めてくれる。

 そう信じて、ずいぶん久し振りに北加賀屋を訪れた。

 まずは、夫が借りていた倉庫跡へ行った。もぬけの殻だった。一時退院の時に、夫自身で解約手続を終えたらしい。どこかに何か一つくらい、夫の痕跡が残っていないかと探したが、何も見つからない。退去の時に、病身をおして丁寧に掃除をしていったらしい。いい入居者さんでしたと、不動産屋も褒めてくれた。

 仕方ないので、私は空っぽの倉庫に夫の作業姿を思い浮かべた。なぜか学生時代の彼が浮かぶ。差入れでも持って、もっと様子を見にこればよかった。

 倉庫内を見せてくれた不動産屋に礼を言って、アトリエをあとにした。

 ここでないとすれば、どこだろう?

 一箇所ずつ、夫と何度となく訪れた北加賀屋の地を巡って行く。

 美術館。ない。初めて来た時、現代アートは難しくて分からないという私に、夫はその魅力を力説した。ふだん物静かなのに、妙に熱っぽいのがおかしくて笑うと、我に返った彼も照れくさそうに笑った。

 MASKではちょうど一般公開で倉庫を解放していた。自分もいつかこんな大きな作品をつくってみたいと、夫は目を輝かせて巨大なアートたちを見上げていた。私は著名なアーティストの作品にミーハー心丸出しできゃあきゃあはしゃいでいたら、夫に呆れられた。本当は、デートが嬉しくて抑え切れない興奮が溢れ出ていたのだけど。

 当然、ここにも夫の作品はない。

 さらに、海の方へ向かう。途中、路傍にパブリックアートがある。生活の中にアートが溶け込んでいて、人々が自然にそれを享受しているのは素晴らしいことだと夫は言っていた。彼のそんな話を繰返し聞くうちに、いつの間にか私もすっかり現代アートにはまってしまった。ある種評価の定まった古典的なアートとは違って、どこにその作品の良さがあるのか鑑賞者に委ねられる面が大きいのがおもしろいと思えるようになった。「誰に伝わらなくても、たった一人の人生を揺るがすくらいの作品をつくることができれば素晴らしいだろうね」元芸大生はそう言って目を細めた。

 夫の作品を見つけられないまま、南港の海辺まで出る。

 ちょうどイベント期間中で、造船所跡地の敷地内に入ることができた。

 跡地とはいえ、まだ敷地内にドッグもクレーンも残っており、まるで映画のセットに入り込んだみたいで、初めて来た時には二人で感動した。ここでは、アートイベントだけでなく、音楽ライブにも参戦したことがある。

 今日もイベントなのだろう、人が多くて賑やかだ。なのに私はひとりぼっちだという気持ちが溢れてきて、ぐるりと一回りして夫の残したものがないのを確認すると、そのまま引返す。

 海には、大きなヒヨコのオブジェがぷかぷか浮かんでいる。それさえも悲しい。いままでそんなこと考えたこともないのに。私も夫もあえて子どもが欲しくないわけではなかった。ただ、恵まれなかった。もしも、彼との子がいたら、こんなに悲しまずにすんだだろうか。そんな詮無いことを思う。

 ううん。子どもがいなくても、私たち夫婦は幸せだった。愛し合い、互いを大切にしてきた。私は、彼といられて幸せだった。

 心当たりの場所は全部見て回った。けれど、見つからなかった。

 もしかしたら、誰かが持っていってしまったのかもしれない。けれど、その誰かが欲しいと熱望したのだとすれば、夫も本望かもしれない。

 そうやって諦めようと決めて、うしろ髪を引かれながら駅の方へ戻っていく。

 こんなに歩いたのも、ずいぶん久し振りかもしれない。夫が元気な頃には、休日に回れるだけの美術館を回ろうと、足が棒になるまで歩いたものだ。そうして、二人ともへとへとになって、カフェに入り、甘いものを食べながらあーだこーだと展覧会の感想を述べ合う。意見が一致して盛り上がるのはもちろんのこと、意見が合わない時もまた一興だった。そんな見方があるのかと、互いの感性に素直に感動したりした。

 もう、北加賀屋に来ることもないかもしれないな。

 そう思いながら、夫とよく訪れたカフェに入る。いつものケーキと紅茶を注文する。

 フォークを口に運ぶと、変わらずとろけるように甘くて、つい気が緩んで泣けてきた。こんなところで一人で泣いちゃいけない、と俯いて涙を堪える。

 すると、すっと目の前に差し出される。

 ハンカチかと思ったが、違う。店員さんが、白い小箱をテーブルの上に乗せる。

「旦那さんからお預かりしていました」

 どうやら倉庫の契約を解約した足で、夫がここを訪れて小箱を置いていったらしい。人の手を煩わせるのは苦手な人なのに、めずらしい。そんな信念よりも、奥さんのことが大事だったんでしょうね、と店員さんがやさしく微笑む。その時夫はすっかりげっそり痩せてしまっていたはずだから、彼女も病気のことを察していただろう。

 小箱を私に渡すと、店員さんは厨房へ引っ込んだ。

 箱の隅には確かに夫の筆跡で、私の名が書かれている。思わず確認したのは、巨大アート専門の夫に、こんな小さな箱は似合わないと思ったからだ。指輪にしては重いし。

 ひとり、そっと小箱を開ける。

 中には、夫の作品が入っていた。

 小さな小さなミューズ像。夫がこんなに小さな作品をつくっているところ、私は見たことがない。私がいない間に、病室でこつこつ作成したのだろうか。小さな小さな小さな作品、なのに夫のものだと分かる。

 大きなおおきなおおきなおおきなおおきな想いが込められた作品は、私の穴をすっかり埋めて、それでも収まりきらずに溢れて溢れて、私は嗚咽した。

 他にお客さんがいなくてよかった。店員さんも聞こえないふりをしてくれて、私は思う存分泣いた。

 夕日が沈む前に、店をあとにした。

「また来てくださいね」と声を掛けられ、「はい」と答えた。

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