第32話

 花びらのような唇の柔らかさを自分の唇で感じる。まさかファーストキスを女の子に胸倉つかまれて奪われるとは思ってもみなかった。もうちょっとロマンチックな状況を考えていたのだが、奪われてしまったものは仕方がなかった。

 ロマンチックではなかったが、時が止まったような気がした。

 蒼人はキスの仕方なんて知らなかった。唯華もきっとそうだろう。ぎこちなく角度を変えて、深く唇を重ねようとする。

 夢のような時間は、すぐに終わった。

 唇を離した唯華は顔を歪め、瞳からぽろぽろと涙を零していた。

「…さみしいときに都合よく近くに来たのが蒼人だった。蒼人じゃなきゃダメだってことはなかった。でも、もう、誰でもいいなんて思ってない。思ってないよ蒼人」

 唯華は顔を隠そうとしたのか、蒼人の肩に額を押し付けてきた。甘い香りがする。いつもの香りに、何故かとても安心してしまう。

「…私は蒼人がいい。蒼人と一緒にいたい。私は、蒼人が好きなんだよ」

 唯華が絞り出した言葉は、幸せで辛かった。自分の二つの気持ちのはざまで、潰れてしまいそうだ。

 蒼人は唯華と出会った日から、ずっと唯華が好きだった。ずっとそばにいたいと思うくらいに。

 蒼人は唯華を死なせてしまうかもしれなかった。唯華が死んだら、蒼人は唯華のそばにいられない。

 唯華をなくしたくなかった。

 大切なものをなくす痛みを知っている。

 父はすごい人だ。ずっと妻を思い続けて生きている。

 唯華がいなくなっても唯華を思い続けるだけなんて、蒼人には出来そうもなかった。

「俺じゃ、だめなんだよ、唯華。俺、いつか唯華のことを死なせてしまうかもしれない。父さんが母さんをなくしたみたいに」

 唯華の手が、シャツを握り締めてきた。

「俺、そんなの嫌だよ。母さんみたいに唯華がどんどん弱っていって、それは唯華のことを好きになった俺のせいで。父さんみたいに、ずっと思い続けるなんて無理だ。死んでも心はそばにあるなんて思えない。俺は唯華とずっと一緒にいたいよ。体もそばにあって、話したり笑ったりして、そうして心もそばにあるって感じたいんだ」

 それなのに、蒼人は唯華を危険にさらす。そう思うと、なんだかとても情けなかった。

「俺、どうしてヴァンピールに生まれてきたんだろう。唯華のそばにいたいって思うのに、唯華に近づくのが怖いんだ。だから唯華が俺を友達だって思っているうちに離れようって決めたのに」

 唯華が顔を上げた。瞳からはもう、涙は流れていなかった。少し赤くなった瞳は濡れている。

「蒼人がヴァンピールじゃなきゃ、私は蒼人を好きになることはなかったよ」

 唯華は蒼人がそばにいることを許そうとしていた。

「でも、俺は唯華を死なせてしまうかもしれないんだよ。唯華に病気がうつる確率は低いけれど、それは保証にはならないんだ。母さんみたいに、唯華は死ぬかもしれないんだ」

「それでもいいよ」

「え…」

「だって蒼人は、そばにいられなくなるまでそばにいるてくれるんでしょ。そばに、いられなくなるまで。その時まで、一緒にいるって約束した」

「でも」

「ずっと、でしょう?」

 唯華が不安そうに見つめてくる。彼女の言わんとしていることを理解すると、蒼人は急に泣きたくなった。

 なんて優しくて、残酷な人だろう。

 甘くて苦い人。

 蒼人は唯華の体をきつく抱き締めた。

「そばにいる。ずっと、ずっと、そばにいる。大好きだよ、唯華」

 二人の世界が終るまで、きっと二人はずっと一緒だ。

 蒼人が放さないと決めたから。

 唯華がそれを許したから。

 ☆

 風に乗って、ふわりと何かが頬をかすめた。

 なんだろうと思って上を見上げると、ベランダからクラスメイトがルーズリーフをちぎって作った紙吹雪を降らしているところだった。

「なんだか良くわかんねぇけど、やったな蒼人!」

「ひゅーひゅー!」

「小野寺さんなら許ーすっ!」

「くそーっ、俺絶対蒼人から告白すると思ってお前に賭けてたのに!」

 などなど、クラスメイトから意味不明の祝辞が降ってくる。

 蒼人が立ち上がり、唯華のことも立たせてくれた。

「皆さん、ご心配おかけしましたー! 俺達幸せになりまーす!」

 すっかりいつもの蒼人に戻っている。蒼人はみんなに向かって笑顔を見せ、手を振った。

 唯華はクラスメイトが見ている前で、とんでもないことをしでかしてしまったことに気がついた。唯華がベランダから飛び降りたというのに、それに注目しないクラスメイトなどいるはずがない。

 人前で自分はいったい何ということを。

「唯華、教室いこう♡」

 ちゃっかり語尾にハートマークをつけながら、蒼人はにっこり笑って手を差し伸べてきた。

 だめだ、今教室に行けば、確実に自分のポジションが変わる。

「唯華?」

 蒼人が不思議そうにのぞきこんできた。

 急に顔が熱くなった。

「うわあぁぁぁっ! いやああぁぁぁっ!」

 なんだかもうどうしていいか分からずに、唯華は奇声を上げて走り出すしかなかった。

「唯華、どうしたのー?」

「ついて来るなーっ! 蒼人なんて嫌い! 馬鹿ーっ!」

「あらあら? 俺が好きなんじゃなかったの?」

「ううううるさーいっ!」

 蒼人に捕まっては終わりだ。唯華は必死に逃げ回ったが、足は速くない。すぐに捕まった。がっちりと腕を捕まえられる。

「捕まえたー!」

「放せーっ!」

 なんとか腕を取り戻そうとしたが、蒼人は全く力を緩めてくれない。

「やーだよ。絶対に放さない」

 別の理由で、唯華は泣きたくなった。

今日一日、いったいどんな顔でクラスメイトと接すればいいのだろう。

唯華は泣きそうな気持ちのまま、蒼人に引きずられながら考える。

蒼人は晴れやかな青空のように、とても幸せそうに笑っていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ヴァンピールとビターチョコレート 里内アキ @farewellmoon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画