第31話

 いつもより早く登校して、唯華は佳奈子と一緒にベランダに出て他愛もないことを話しこんでいた。佳奈子には蒼人とのことについてほとんど話すことができなかったので、状況を楽しもうとしていた佳奈子は少々ふてくされ気味だ。いや、友達で楽しもうとしないでほしい。

 蒼人はまだ、登校していなかった。今日は聡一郎が週番のために少し早く登校しており、聡一郎がいる輪の中に蒼人はいない。

 太陽が熱くなってきた。空には入道雲が浮かんでいる。

 佳奈子は日に焼けるから中に入ろうと腕を引いてきたが、唯華はもうちょっとと言って、蒼人が登校するまでベランダで粘った。

 八時十五分過ぎ、蒼人が校門に続く煉瓦でできた道を歩いてくるのが見えた。他にも生徒の姿が見えたが、唯華の目には蒼人の姿しか映っていない。

「あっ、蒼人君だ」

 ベランダの柵によりかかった佳奈子が大儀そうに彼を指差した。暑さでだんだんまいってきたようだ。頬がうっすら汗ばんでいる。

 唯華は蒼人の顔を見つめた。すると視線に気づいたか、蒼人がふと顔を上げる。しかし、彼はすぐに顔をそらしてしまった。

 蒼人がどこまでも唯華と関わろうとしないのならば、こちらから関わりに行けばいいだけのことだ。

 唯華は決心した。

「え…ゆ、唯華ちゃんっ?」

 唯華はベランダの柵によじ登った。柵の上に絶妙なバランスを取って立ち、下にいる蒼人を見下ろした。

「あっ、あぶ、危ないよ唯華ちゃん!」

 佳奈子の顔は真っ青だろうと容易に想像できる。佳奈子の叫び声に気がついたか、蒼人がまた上を見上げた。

 蒼人は一瞬、何してんの唯華、と言いたげな顔をして、それからやっと唯華が危機的状況にあると認識したか、白い顔を青くした。

「落ち着いて唯華ちゃん、危ないから降りようっ?」

「大丈夫、主人公は死なないって決まってるから」

「ごめん唯華ちゃんを萌え系ライトノベルの主人公みたいって言ったことは撤回するから!」

「物語はハッピーエンドじゃなきゃ、私は認めない!」

「唯華ちゃ…」

 佳奈子が足をつかもうとするのが分かったが、それは一瞬だけ、間に合わなかった。

 唯華は柵を蹴った。

 体が宙に踊る。

 もちろん重力に従って、体は地面に向かってすぐに落下を始める。

 大丈夫、二階からだ。死にはしない。

 きっと真下にいる蒼人にはパンツ丸見えだろうな。そんなことを考えた。

 蒼人が鞄を放り投げ、両腕をいっぱいに広げた。

 唯華は彼の腕の中に、すっぽりと収まる。

 勢いを殺せず、二人で煉瓦道の上に倒れ込んだ。

「…いっ…て。あっ、ゆ、唯華、大丈夫っ?」

 痛い思いをしたのは自分だろうに、蒼人は青い顔のままそう聞いてきた。

「…大丈夫」

 うまく受け止めてもらえたおかげで体に痛みはなかったが、いまさらやってきた恐怖で胸がどきどきいっていた。蒼人はほっとした後、いきなり厳しい表情になった。

「何やってんだよ馬鹿っ! いくら二階でも、大怪我してたかもしれないんだぞ!」

 蒼人に怒鳴られたのは、後にも先にもこの一回だけだった。

 怒鳴られたことで、唯華は何のために飛び降りを決意したか思い出した。

 むくむくと怒りが首をもたげる。

「…馬鹿はどっちだ、この馬鹿野郎!」

「えっ?」

 怒鳴り返されて、蒼人はびくっと体をすくませた。彼にしてみれば、なぜ怒鳴られたか分からないだろう。唯華を助けた英雄のはずなのに。蒼人が体を起こして立とうとしたため、唯華は体重をかけて蒼人を立たせないようにした。

「私、蒼人は、私のこと、分かってるって思ってた」

「…え?」

「もし、蒼人が私から離れたいと思った時は、理由をちゃんと話してくれるって思ってた」

 蒼人は困ったような、泣きそうな顔をした。

「本当は、一人ぼっちになってた私に同情してくれたのかな。それともほかに心からそばにいたいって思う人がいた? それとも私は蒼人に嫌われたの?」

 目が熱い。ぽた、と一つ、涙が落ちた。

「いくら自分に聞いたって、蒼人に聞いたわけじゃないから答えなんて出ない。すごく怖いよ、蒼人に、嫌われたなんて」

 蒼人の手が一度持ちあがって、下がった。唯華に触れようとしたところを躊躇したようだった。

 「誰だっていいじゃないか。そばにいるなら、俺じゃなくても。唯華のそばにいたいと思う男なんか、きっとたくさんいるよ」

 思いつめて、吐き捨てるように蒼人が言った。彼は目も合わせてくれず、初めて唯華を傷つけたのだ。

 涙腺が壊れたかのように、一気に涙が溢れ出した。

 確かに唯華は、蒼人にそんなことを言ったような気がする。

 蒼人じゃなくてもよかったと。誰でもよかったと。

 だが、今ではそんなことをちっとも思っていない。

 離したくないと思うほどに、唯華は蒼人が好きだった。

「俺よりもいい男なんて、この世に五万といるよ。自分で自分がいいと思った人を見つければいい。誰だっていいんだろ、そばにいてくれる、優しい人なら誰だって」

 つらつらと流れるように言葉を紡ぐ蒼人に、だんだん腹が立ってきた。いや、これは蒼人への怒りではない。思いが伝えられない焦りと、思いの伝え方を知らない自分への憤りだ。

 どうすれば気持は伝わるだろう。

 どうすれば彼が紡ぐ未来のない言葉は止まるだろうか。

 唯華はとっさに蒼人の胸倉をつかみ上げた。

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