盲目の心

石野 章(坂月タユタ)

盲目の心

 生まれ落ちたその時から、僕のこの目には何も映らない。世界を構成するのは音と匂いと触覚と、口の中で広がる味覚だけだ。そう聞くと、多くの人は同情の言葉を並べ立てる。だが、僕の人生は決して“見えなくて不便”だけでは片づけられないほど、豊かな情報で満ちていた。


 たとえば、部屋のドアを開ける際の風圧や、誰かの足音にまじる固有の癖(かかとの擦れる音が強いとか、ほんの少し足を引きずっている感じがする、とか)。僕はそれらを手がかりとして、人よりも繊細に周囲を認識する。視覚を欠く代わりに、空気のわずかな乱れや足元の微妙な傾斜まで嗅ぎつけるのだ。


 とりわけおもしろいのは、声の調子や吐息に滲む本心だった。見えていないのをいいことに、あからさまに鼻で笑ったり、上辺だけの優しさを向けてくる人間は、得てして吐息が浅く、会話のテンポもどこか嘘くさい。健常者にはわからないだろうが、そこには生臭く、鉄錆のような味が混じり、時には獣の唸りを思わせる濁った波動がある。人々は視覚による情報に頼りながら、それらの機微を見過ごしているのだろう。その点においては、僕は他の人よりも間違いなく"見えている"と胸を張れた。


 大学生にもなると、そうした思いは一層強くなる。僕は都市部の大学の寮で一人暮らしをしていた。薄暗い夜道だろうが、活気ある大通りだろうが、杖を器用に操り、難なく目的地にたどり着く姿は周囲の学生にも印象的だったらしい。先輩・友人を問わず、誰もが口にする。「目が見えないのに、どこへでも行けてすごいね」と。


 一見すると友好的にも聞こえるその言葉の裏に、かすかな嘲笑や偏見が混じることもある。彼らは悪気がないと言い訳するだろうが、悪意というものは往々にして“悪気がない”ときにもっとも強く放たれる。そのことを僕は嫌というほど感じ取ってきた。


 それでも大抵のことに聞き流すようにしている。何を言われても、努めて穏やかな表情でやり過ごす。自分の存在への好奇も、憐憫を装った軽蔑も、すべては通り過ぎる風のようなもの。気にしていても仕方がないのだ。


 とはいえ、すべての人がそうではない。大学のサークル仲間である龍太と勇佑は、盲目である僕に対して過剰な気遣いをせず、対等に扱ってくれた。二人とも元気で快活、言いたいことをズバズバ言う性格で、誰に対しても分け隔てなく接する。“見えない”僕を特別扱いせず、当たり前のように「一緒に行こうよ」と言ってくれるのは、この二人くらいのものだった。彼らの声色に滲むものは、憐れみでも見下しでもなく、風鈴の音のような爽やかさであった。


***


 そんな三人の間である日、ちょっとした冒険をしようという話が持ち上がった。きっかけは何気ない雑談だ。夏も終わりが近づくにつれ、サークル仲間の間で“心霊スポット巡り”が流行っていた。みんなスリルと非日常感を味わいたくて、そうしたところへ足を運ぶ。僕らも、そんな無垢な大学生の一員だった。


「ここが良さそうじゃない? 近いし、結構怖そうだぜ」


 龍太が語ったのは、僕らの大学からほど近い場所にある廃墟だった。そこが曰く付きの怪談スポットになっているらしい。龍太は楽しそうに「明日行ってみねえ?」と声をあげ、勇佑も「面白そう。うちのサークルではまだ誰も行ってないらしいぜ」と乗り気だ。僕は「僕は行っても幽霊見えないぞ?」と茶化したが、二人は「こういうのは雰囲気とかを楽しむんだよ」と笑って返した。


 もっとも、その心霊スポットには恐ろしい呪いがあるとも噂されていた。なんでも、数十年前に施設に勤めていた人が全員惨殺されるという事件が起こったらしい。そのときの怨霊が今も現れるというのが、巷で広がっている与太話だった。そんなものを本気で信じる人はほとんどいないが、一部のオカルト好きやユーチューバーの間ではそこそこ有名らしい。


 それでも、僕たちはその心霊スポットに行くことを決めた。変わり映えのしない毎日が退屈だったのかもしれない。僕自身も、生まれて初めての肝試しに心が舞い上がっているのを感じていた。


 そして迎えた次の日の夜、三人は大学の講義を終え、サークルの部室に集合する。龍太が車を走らせ、目的地近くの駐車場についたときには、すでに午後九時を回っていた。夏の終わりとはいえ、まだ外はじっとりと湿度を伴う熱気がこもり、周囲から樹木のざわめきやモスキート音のような虫の羽音が聞こえてくる。


 そこから歩いて二十分ほど離れた場所に、例の廃墟がある。もともとは立派な建物だったそうだが、今では雑草が生い茂っているようだった。龍太が先頭を行き、勇佑が後ろを歩き、僕は真ん中で杖を巧みに動かしながらついていく。普段から使っている道とは違うので若干緊張感があるが、龍太が「ここ、やたら道が狭いな」「あ、そこの角は段差があるから気を付けろ」と注意を促してくれるので助かった。


 僕らは建物の入り口を探し、内部へと踏み込む。途端に床面がでこぼこに変わり、足裏に細かい石の感触が伝わってきた。杖を慎重に動かし、転倒しないよう注意を払いながら歩く。そっと鼻をすすってみると、鉄が酸化したような錆くさい匂いと、水が腐ったドブ臭さが混ざっていた。さらに奥に進むにつれ、淀んだ空気が鼻孔を襲う。


「うわ、こりゃ酷いな…」


 龍太が苦笑い混じりの声を上げる。どうやら壁は塗装が剥がれ、鉄筋がむき出しになっているらしい。勇佑も「外観も古そうだったけど、中は余計にヤバいな」と続けた。


 僕は頭の中で地図を描きながら二人の位置を確認する。龍太が少し先行して歩き、勇佑はその後ろを並走している。彼らの足音が散漫に広がっているのは、地面にいろんなものが落ちていて、思うようにまっすぐ歩けないからだろう。しばらく進むと、何かの研究室らしきところへ到達した。扉は外れていて、金属製の何かの残骸を杖が掠めて、ジャリリと嫌な音を立てる。


「ここが一番奥の部屋だな、入ってみるか。おーい、幽霊さんいらっしゃいますかー?」


 龍太がおどけた声を出し、勇佑は「まだ十時半くらいだけど…幽霊の就業時間は深夜からじゃないのか?」などと冗談を言う。僕は呆れながら笑いつつ、慎重に部屋の内部へ足を踏み入れた。


 鼻を刺す強いかび臭は、想像以上だった。冷たく湿った空気が肌にまとわりつき、まるで地下室にいるような閉塞感を覚える。木製の扉や床材が腐食しているのか、酸っぱい腐敗臭もかすかに漂い、酸素が薄いように感じられるほど息苦しい。龍太が小声で「足元気をつけろよ」と声を上げた。勇佑が頭を下げる気配がして、「そうだな、床が抜けてるかもしれないし」と続ける。実際、足元の軋む音が耳には届いていたので、僕はいつも以上に慎重に歩を進めた。


 数分ほど奥へ進んだ頃、龍太が懐中電灯を落とし、カラカラッと転がる音が響いた。「あ、悪ぃ悪ぃ」と笑いながら拾い上げるが、その拍子に勇佑が「びびらせんなよ」と冷やかに突っ込む。二人ともまだ余裕があるらしく、たまに軽口を叩き合っている。しかし、僕はそのやりとりを聞きながら、集中して周囲の気配を探っていた。うまく言葉にはできないが、部屋の外とは明らかに何かが違う気がする。


「なあ、なんか、血みたいな匂いしないか?」


 僕が呟くと、龍太が少し身を強張らせた様子で「え? 嘘だろ?」と反応する。勇佑も「おまえ、鼻いいからなあ。でも、さすがに血の匂いって…」と疑いつつ、懐中電灯を床に向ける音がする。すると、二人が息をのむような気配があった。「うわ…なにこれ。錆なのか? それとも…」龍太の声が震える。


 そのときだった。奥の方から、何かがひび割れたような音を立てた。乾いた空缶を踏み潰したようでもあり、ひび割れたコンクリートがさらに砕けたようにも聞こえる。三人は一気に硬直し、足音を止める。すると、その音はピタリと途絶え、代わりに風が吹き抜けるような低い唸りが耳を掠めた。ゴオ――というかすれた音。まるで獣の鳴き声を遠くで聞いているようでもあり、あるいは空気が流れ込む隙間から生まれたトンネル音のようでもある。


「な、なんだよ…今の…」


 龍太がぽつりと呟くが、誰も何も答えなかった。先ほどまでの轟音が嘘かのように、今は建物内で物音ひとつしない。

 

 しかし、それが最後の静寂になるとは誰も思わなかった。


 突如、建物の上階あたりからバシンッという激しい衝撃音が落ちてきた。まるで大きな金属板を叩きつけたような重低音が、廊下全体に反響し、砂埃が舞い散る。三人はほぼ同時に身をかがめるようにして、咄嗟に上を見上げた――といっても、僕には何も見えない。


 それからは悪夢の連続だった。奥で何かが走るような、もつれる足音が聞こえたかと思うと、龍太が「やべえ…!」と叫び、勇佑が「うわっ!」と驚愕の声をあげる。両者の声は恐怖に満ち、明らかに普通ではない。何か信じられないものを見たときの絶叫に近い。そしてその直後、怒涛のような衝突音が起き、コンクリート壁がずれ動くような軋みがあたりを包む。


 僕は訳がわからず、必死に二人の方向へ駆け寄ろうとする。しかし、床の凹凸や散乱した破片が行く手を阻み、何度かつまずきそうになった。杖で確認する余裕がなく、手探りで壁を頼りに進むうち、龍太の悲鳴が薄闇を突き破るように響いた。


「うああぁあ…や、やめろ…っ!」


 その声は途中で掻き消え、代わりにズシャリと肉が裂けるような湿った音が響いた。鉄に爪を立てるきしみも混ざっているようで、僕は胃の奥がひっくり返るほどの嫌悪感を覚える。まるで屠殺の場に放りこまれたかのような血生臭さが一気に漂い、息が詰まる。


「龍太! 龍太……!」


 声を上げるが、返答はない。そのかわり、ついさっきまでそばにいた勇佑の足音も狂ったように乱れている。


「くそっ、なんだこれ…! 龍太、待ってろ…!」


 勇佑の声は涙声に近く、パニックの境地にあるのが手に取るようにわかる。重い衝撃音が連続し、そのたびに壁か天井のどこかが崩れるような砂落ちの音が追随する。血と砂埃が混じった空気が、口の中にざらざらと広がり、呼吸もままならない。


 そのとき、ゾワリとした戦慄が頬を撫でた。目の前を横切ったのは、ひらりと舞うかのような風圧――しかし硬い。鳥の翼とも違う、布とも違う、もっと生々しい筋肉と骨格を感じるような“羽”のようなものが、顔の皮膚をくすぐったのだ。


(羽……? いまのは……)


 頭で疑問を抱くより先に、言いようのない恐怖が脊髄を駆け抜ける。血飛沫が鼻先をかすめ、鉄分の濃い生臭い匂いが一気に充満した。今にも吐きそうになるが、必死にこらえる。


 次の瞬間、勇佑が断末魔の悲鳴をあげた。


「うああぁああっ……助けっ……」


 その声は、途中で濁音に変わり、血を吐き出すかのような苦しげな響きを伴って終わる。耳を切り裂くような衝撃音がとどめを刺したのか、続けてゴリリという骨ごと砕くような嫌な音までもが聞こえ、僕は喉元まで上がってくる嘔吐感を抑えきれない。


「ゆ、勇佑…っ!」


 衝動的に叫ぶが、その返事は二度と返ってこない。かわりに、バサリ…と風切り音が大きく唸り、廊下全体を揺さぶるような気圧変化を起こす。

 風――というより、動物が巨体を躍動させたときに発生する一陣の乱流。視えない僕は、ただ立ち尽くすしかなかった。仮に走って逃げようとしても、瓦礫に足を取られ、得体の知れない"何か"の餌食になるのがオチだろう。にもかかわらず、その“何か”は僕を襲ってこない。むしろ、すぐそばをかすめ、頬や首筋をわずかに撫でるだけだ。まるで品定めをするように。


 指先が震え、頭の中が真っ白になっていく。遠くで何かが崩れる音がして、それを合図にしたかのように、再びあの羽ばたきが強烈な風を巻き起こした。ビリビリと空気が振動し、重金属的な不協和音が耳鳴りのように膨れ上がる。骨の軋みや血潮の生臭さが入り混じり、まるで死神に抱かれたような感覚が体を覆う。だが、不思議なことに何の痛みも感じない。血の匂いと生温い粘液の感触があるのに、自分は無傷なのだ。


(どうして、僕だけ…)


 やがて、音は完全に消え、廊下を漂う異臭と静寂だけが残った。恐る恐る呼吸を整えながら、僕は膝から崩れ落ちる。床には何か温かい液体が広がっている――それが友の血であることは考えたくないが、現実からは逃れられない。足元をほんの少し動かすだけで、じゅっと肉のような生々しい感触が粘りつき、心が折れそうになった。


 それからの出来事はうろ覚えだ。真っ白な頭で警察に通報し、すぐにサイレンと慌ただしい足音が近づいて来るのが聞こえた。警察官が「うわ…何だこれは…!」と叫び声をあげ、無線で応援と救急車を手配する。ほどなくして廃墟の中は様々な音で溢れかえり、僕も肩を抱かれて担架のようなものに乗せられた。


 救急隊員が僕の体をざっとチェックし、「外傷は…見たところ、ないようですね。ただ、血がかなり付着している」と困惑気味に呟く。腕や顔についた粘つく液体が人間の血であることを意識し、改めて吐き気を覚えた。指の関節の隙間まですっかり汚れているのが気持ち悪く、シャワーを浴びて洗い落としたい衝動が強まる。


 そのとき、隊員の一人が「あれ? 羽みたいなものが……」と訝しげな声を上げた。背後の警官たちが「羽?」と訝る空気に包まれる。僕には見えないが、自分の体中に何らかの羽毛らしきものがべっとり付着しているらしい。まるで大きな鳥か、あるいはそれに類する生物の羽が散乱したように。


「こんな羽、どこから…? 鳥にしては大きすぎないか?」


「血も付いてる。いや、血だけじゃない、なんだこれ、粘液…?」


 周囲のざわめきが騒音のように膨れ上がった。警官たちはさらに怪訝そうな空気を漂わせる。そのうち誰かが「ちょっと、話を聞かせてもらえるかな」と言って、強引に僕を車に押し込んだ。


 こうして、僕は警察署へ連行された。救急車で搬送されるほどの負傷はなく、参考人――というよりむしろ容疑者として事情聴取が行われた。龍太と勇佑は遺体で発見され、その損壊ぶりが凄まじく、現場には彼らのものと思われる大量の血痕や肉片が散乱していたという。となれば、これほどの惨殺事件を起こしたのは誰なのかという話になり、唯一の生存者である僕が疑われるのも無理はない。


 深夜から明け方にかけて行われた取り調べは、悪夢のように過酷だった。狭い部屋に通され、机と椅子が一つずつ。周囲を警官に囲まれ、時折くぐもった足音が廊下を通り過ぎる。明るさのほどはわからないが、妙に耳がキーンとする嫌な空間だった。


 僕は起きたことをありのままに答えるが、全く信じてもらえる気配がなかった。それどころか、捜査官は苛立ちを隠そうともしない口調で「本当に目が見えないのか?」「嘘をつかないで話してくれないか」「彼らに一体何があったんだ?」と畳みかける。確かに、得体の知れない"何か"が突如現れて二人を襲ったというのは、我ながら出来の悪い作り話のようだった。


「二人を殺したのは、おまえじゃないのか?」


 低く荒い声が投げかけられ、僕の心は激しく揺さぶられる。そんなことがあるわけない。しかし、警察官から向けられる疑いはなかなか晴れず、最終的に釈放されたのは次の日の昼頃になってからだった。


 最後に捜査状況を少しだけ聞くことができたが、建物の内部や周辺に残る異常な爪痕や血痕の散り方は、とても人間業とは思えないらしい。しかし、警察は公に「怪物の仕業」とも言えないため、引き続き捜査は続けるのだそうだ。僕自身も捜査線上の容疑者から外されたわけではないだろうが、もう身柄を拘束する材料もないのだろう。


「しかし、唯一の目撃者が、"めくら"とはな…」

「あんなの、"目"撃者ですらねえよ」


 警察署を出るとき、誰かがひそひそと囁く声が耳にこびりついた。僕はすっかり疲労困憊で、外の空気に触れてもまるで開放感がない。むしろ、「これから先、どうすればいいんだろう」と暗澹たる気持ちが沸き上がる。


 龍太と勇佑はもういない。今になって光の無い目から涙があふれ出してくる。二人は、盲目の自分をまったく特別扱いせず、当たり前に一緒に笑い合ってくれる数少ない仲間だった。急に独りぼっちになってしまったような、どうしようもない喪失感が、軀の芯にまで喰い込んで来た。


 大学に戻ると、状況はさらに悪化する。龍太と勇佑が亡くなったことが世間を大きく騒がせ、学内でも取り沙汰されていた。にもかかわらず、唯一の生存者であり、なおかつ事件の当事者である僕が、容疑をかけられながら釈放されたという情報が飛び交い、様々な憶測が走り始める。「やはり彼が犯人なのではないか」「盲目っていうのは嘘かもしれない」「二人を嵌める動機があったんじゃないか」といった根拠のない噂話が、尾ひれも背びれもついて渦巻いていった。


 混乱と孤独から抜け出せていない僕には、そんな人の悪意が一層堪えた。話しかけてくる人も、「かわいそうだね」「大変だったね」と表向きは言いながら、心の底では面白半分なのが伝わってくる。中はわざと進行方向に足を出したり、僕の目の前で手を叩いたりして、本当に盲目なのかを確かめる輩すらいた。誰も僕をまともな人間として扱わず、見世物小屋の動物のように、好き勝手に自分の興味を満たすために消費していった。


 その後、捜査は決定的な進展もなく、時だけが流れていった。周囲はもう事件のことは忘れてしまったようで、今度は僕のことをいないものとして扱うようになっていく。色々と介助が必要な障碍者に、積極的に関わるような酔狂な者はいなかった。僕自身も周囲の人間関係をシャットアウトするようになっていき、キャンパス内を歩くときもできるだけ人の少ないルートを選び、誰かに声をかけられても最低限の応答しか返さない。今となっては、大学は澱んだ空気で呼吸をするだけでも胸が苦しくなるのだった。


 そして季節が過ぎ去ってまた夏が始まった頃、教室で一人でいた僕の耳に、あるグループの会話が聞こえてきた。


「ねえ、今度の週末空いてる? 肝試ししようよ」


「いいね! じゃああそこ行く? 去年うちの大学生が事件に巻き込まれたっていう、やばい廃墟とか」


 唖然とする僕をよそに、そのグループは和気藹々と計画を立て始めた。事件の当事者たる僕に気づいていないのか、あるいは存在を無視しているのか。


 彼らは知らない。あの場所にどれほど恐ろしい恐怖が待ち受けているのか。そんなことよりも、目先の楽しさが勝つのだ。かつての自分たちが重なる。止めるなら今だ。あそこに行ってはいけない、得体の知れない"何か"がいるんだと、叫べばいい。

 

 ――それでも、僕は何も言わなかった。彼らの声が遠ざかるのを、静かに机に座ったまま、耳をそばだてて確認する。扉を閉める音が、独りぼっちの部屋に弔鐘のように鳴り響いた。


 好きにしたらいいのだ。人を人と思わない、醜い者たちめ。善人の仮面を被って、平気で人を傷つける。それでも自分は悪いなんて微塵も思わない、著しく良識を欠いた、盲目の心たち。


 そんな奴らはみんな、死んでしまえばいいのだ。


(了)

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