伝えたい言の葉は、約束の音色と共に

 三月も大分過ぎて、かなり積雪量が減って来た。

 道路が見えているところも出てきたが、いきなり大雪が降ることもあるし、積もる可能性もまだまだある。

 だから車を持っている人間は、タイヤ交換の時期をどうしたものかと頭を悩ませる。

 依然として寒さはあるものの、日中に少しずつ春の兆しを感じることが増えた。

やがて訪れるであろう春を徐々に感じさせつつある函館において、今日も自鳴琴は客で賑わっていた。

 穏やかでノスタルジックな音楽が流れる温かな空間で、人々は飾り気こそないもののほっと一息つける懐かしいメニューに笑顔を見せている。

 常連達も、それぞれに顔を出して定位置であるカウンターに腰を下ろして話に花を咲かせている。自鳴琴というカフェの日常風景がそこにある。

 ただ、違うのは少し前まで居たはずの一人の姿が、居ないということだ。

 故に、今日も今日とて休みのはずの祥也が、一人で店を切り盛りする詩織の手伝いをするべく店内に居る。

 奏があるべき場所へ還った、三日後のこと。

 臨時休業に驚いていた狭山や可賀は、奏が姿を見せないことに首を傾げて、当然ながらどうしたと問いかけてきた。

 だが、奏の正体に関して本当のことを伝えるわけにはいかない。

 信じてもらえるとも思えないし、彼の真実については自分達の中だけに留めておきたいと思ったのだ。

 だから、詳しくは言えないけれど、素性に繋がる情報がわかって記憶が戻り、元の居場所に戻っていったことだけを伝えた。

 狭山達は驚いていたものの、寂しいけれどそれなら仕方ない、と苦笑し。最終的には、良かったと笑ってくれた。

 多分、それぞれに思うところはあるのだと思う。複雑な事情があるとも、狭山達なら察しているはずだ。

 でも、常連達はそれ以上を聞こうとしなかった。いつかまた会えたらいい、という言葉に全ての思いをこめて、深く探ろうとはしなかった。

 詩織達は、そんな彼女達に深く感謝する。

 きっと、奏が最後に紡いだ感謝の言葉は彼らにも向けられていたから。急な別れになったが、奏が皆に感謝していたことを伝えた。

 そして、もう一つ詩織達には常連客に伝えることがあった。

 他でもない、二人の結婚である。

 祥也の求婚を受け入れて、二人で今後の人生を歩んでいくと決めた後。それを詩織達のことを知る人々にどう伝えたらというのは悩んだ。

 共に生きて行くという決意に迷いはないが、他者にどう伝えたものかというのは迷う。

 二人は社会的には義理とはいえ兄妹として知られていたのだ。

 いかに連れ子同士とはいえ、兄妹で結婚すると発表したら、何と言われるか。

 人によっては眉を顰めることだろう。だが、後ろめたいことのように隠しておくのは嫌だし、結婚を止めるのはもっと嫌だ。

 だから、覚悟を決めて二人並んで。カウンターに腰を下す三人に話を切り出した。

 何を考えているのと、呆れた声が返るかもしれない。

 そんな懸念を、してはいたのだが……。


「あら、やっと?」

「漸くか。随分もどかしい思いをさせられたものだなあ」


 本日のケーキであるパウンドケーキをつつきながら狭山は朗らかに笑いながら言うし。

 ナポリタンを食べ終え珈琲を口にしていた可賀は肩を竦めながら随分待たされた、などと呟いている。

 反応は、詩織達にとっては実に意外なものだった。

 拒否を示された時の対応なら考えていたが、このような反応に対する問答の想定はしていなかった。

 思ってもいなかった反応に、思わず目を見開いて絶句してしまっている二人を見て、時見が苦笑する。


「少し見ていれば、二人がお互いを想っているのはわかるからね。正直、いつまであのままなのだろう、って話していたよ」


 常連達の間では、あの二人はいつになったら素直になるのか、と時折話題になることがあったらしい。

 詩織は、本人は気付いていないが祥也に対して想いを寄せている様子があるし。祥也は、自覚はあるものの兄妹だと自分に言い聞かせるように耐えているし。

 いっそ誰か背中を押したらと狭山は溜息を吐き、可賀はそれじゃあ儂がと名乗りでようとする。それを時見が、まあまあ、と笑って窘める。

 そんなやり取りがされていたことに、全く気付かなかったことに詩織は愕然とした。


「正直に言いますと、職場の皆も概ね気づいていますよ? あいつ、いつになったら踏ん切り付けるんだろうなって、先生がたも話していましたし」

「そうなのか……」


 狭山によると、祥也の職場の同僚やよく関わるスタッフも、祥也が詩織を想っていると気付いていたらしい。

 妹に対する情としては行き過ぎている。義理というなら、早くくっついてしまえばいいのに。とは狭山の亡き恋人は語っていたとか。

 人間観察が物を言う現場の人々の観察眼を改めて恐ろしいと思いながら詩織が黙ってしまっている横で、祥也はひきつった笑みを浮かべて呆然と呟いた。


「うちの女房はなあ。詩織ちゃんはきっと祥也君のお嫁さんになるから。その時は支度の準備を手伝ってあげたいわね、って言っていたぞ」

「そんなに前から……」


 うちは息子しか居ないからなあ、と呟く可賀の言葉が半分ほどしか頭に入ってこない。

 可賀の妻が生きていた頃は、詩織達はまだ学生だった。そんな頃から自分は無自覚に祥也を想っていたし、祥也も詩織を想ってくれていて。

 そして、それは周囲が察する程に分かりやすかったのだろうか。

 そうだとすると、とても恥ずかしい。気付いてなかったのが自分たちばかりというのは、何ともはや。顔から湯気を吹きそうな心持ちである。

 何とも形容しがたい表情になってしまっている詩織の横で、祥也は何とか平静を保とうとしているが成果は芳しくない。

 二人並んで続く言葉に困っているのを見ながら、とっておきの千佳子ブレンドの珈琲を飲み終え、カップを静かに置きながら時見が言う。


「もしかしたら、お父さんが養子縁組をしなかったのは何かを予感していたからかもしれないね」


 そう、両親は再婚したものの。父と詩織は養子縁組をしていない。

 養子縁組をしていても連れ子同士の結婚は例外的に認められるようだが、元々していないなら二人の結婚に法律的な問題はない。

 両親と詩織達の関係は良好で、時折親類から縁組について聞かれることもあったらしいが。父達は何か考えがある様子だった。

 亡くなってしまった今となってはその真意を問うことはできないが……。

 考え込んでいた詩織は、ふと少しだけ視線を動かして時見の様子を伺う。

 詩織は、一つ気になることがある。時見という人間についてある。

 無論、異性として気になるなどといったものではない。いくら魅力的とはいえ、詩織には祥也以外の男性など目に入らない。

 時見の声が、どうにもかつて聞いたことがある気がしてならないのだ。

 そう、詩織がかつてこの家に違う名前で暮らしていた時に、今わの際に訪れた『魔術師』に似ている気がする。

 だが、あくまでそんな気がするだけだ。

 あの時は確かに顔を見たはずなのに、今思い出そうとすると靄がかかったように曖昧だ。声も、似ている気がする、程度である。

 たまたま似ているだけと言われても反論できない。

 それに、である。

 そもそも、あれは明治という時代の話であり。時見はどう見ても三十代がいいところだ。そんな頃から生きているようには到底思えない。

 子孫という可能性もあるが、声が似通っているだけで血のつながりを推測するのは正直理由として弱い。

 いや、でも人間の枠を超えた存在なら……? と思いもするけれど。詩織は、そこで考えるのを止める。

 本人に確かめたところで笑われるだろうし。無理に明らかにしたいとも思わない。

 詩織と祥也のこれからに、それは必要なことではないから。

 この男性は、自鳴琴の常連さん。それでいいのだ。


「あ、そろそろ今日の時間だ」


 ふと時計を見て気づいた詩織は、動かしていた手を一度止めた。

 そしてカウンターを出て、オルゴールへと歩みを進める。

 店内に居た客はもしかして? と気になった風に詩織の挙動に注目し。常連達は待っていました、という様子で頷いた。

 オルゴールが音を取り戻したことは、自鳴琴の客に驚きと共に伝わった。

 詩織としては店にいる間はずっと聞いていたいが、何せ年季が入ったアンティークである。常に動かしていれば負担が大きい。だから、時間を決めることにしたのだ。

 時を経た異国生まれの楽器に対して詩織が幾つか操作すると、店内に高く澄んだ旋律が流れ始める。

 紡がれる音を耳にした人々は聞き入るように瞳を閉じて、微笑みながら。口を揃えて言うのだ。

 聞いたことがないはずなのに、何故か懐かしいと。

 長い時を経て戻ってきた音色を聞いた人々は、自鳴琴という店をこう語る。

 何時だったか、訪れたことがある気がする。

 何処でだったか、見たことがある気がする。

 一歩店内に足を踏み入れて、空気を感じた瞬間。気が付けば、安堵したように一つ息を吐いている。

 何時の間にか人々の日常の隣にあるような、そんな自然な場所だと。

 気付いたら、人々は安らいだ表情で奏でられる曲に静かに耳を傾けている。

 優しくオルゴールが鳴り響く中、カウンターの祥也の元に戻った詩織は、あ、と小さな声をあげた。

 一体どうしたという風に視線を向けた祥也へ、詩織は少し照れた様子で、心に抱いたとある願いを伝えた。


「あのね。結婚式……このお店でしたいなって思って」


 はにかみながら伝えられた言葉に、一瞬目を瞬いた祥也だったが。

 すぐに嬉しそうな笑顔になり、そっと頷いて見せた……。




 音を失った自鳴琴の中で、長い、長い間眠り続けた想いがあった。

 伝えたい言葉があった。

 果たせなかった約束があった。

 それは時を越えて伝えられ、約束は巡りを越えて果たされて。かつての二人は在るべき形へと還り、今を生きる二人は歩き出した。

 果たされた約束を超えて、音を取り戻した自鳴琴が懐かしい音を紡ぎ続けるこの場所で。

 もう離れたくないという願いを叶えて。何時までも、二人で。ずっと一緒に。

 想いを託し、想いを託され、人はまた歩き出す。

 失っても、立ち止まっても、また先へと進みだす。

 そして、紡がれ続ける新たな伝えたい言の葉は、いつまでも約束の音色と共に――。

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伝えたい言の葉は、約束の音色と共に 響 蒼華 @echo_blueflower

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