今を生きる私として
残された二人は、暫くの間言葉なく見つめ合ってあっていた。
もう、けして相手から目を逸らしたくないというように。真っ直ぐな眼差しが、静かに交錯している。
「もう、お互い隠し事はなしにしよう」
祥也の瞳には、詩織の姿がある。
確りと詩織の瞳を捉えたまま、祥也は優しい苦笑いを浮かべながら告げる。
「抱えていたことを、ここで全部出してしまおう。……伝えたかったことを言えない後悔を、もう、しない為に」
静かに詩織の両手をとり、温かな両の掌で包み込みながら。祥也は、自らにも言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
伝えたい言葉を、想いを、自らの内に閉じ込めたまま永き別れとなってしまって、二人は後悔を魂に抱え続けている。
だから今、全てを伝えて。今こそ、本当の意味で約束を果たそう。そう告げる祥也の眼差しを感じながら、詩織は逡巡を含んだ僅かな沈黙の後、口を開いた。
「私は、夢を追い続ける兄様が好きだった。夢を語る時の兄様を見るのが、好きだった」
芽依子は、海を見るのが好きだった。
海を見つめながら、遥か海の向こうの異国への憧れを語る彰俊の横顔を見るのが好きだった。好きな人が夢に瞳を輝かせているのを見ていられることが、とても嬉しかった。
しかし、そんな彼が夢を追えることになって。芽依子は、自分の心の中にある矛盾に気付いてしまう。
「兄様の留学が決まって嬉しかったのは本当だけど。でも、それと同じぐらい。行かないで、って言いたかった」
相反する二つの気持ちは、どちらも芽依子にとって真実だった。
夢を追って欲しいという想いと行かないでという想いは、芽依子の中で鬩ぎ合っていた。
心は二つの方向に引かれ続け、結果として本当に抱いた想いを口にさせてくれなかった。
「本当は、離れたくなかった。ずっと、一緒に居たかった」
離れたくなんてなかった。ずっと、一緒に居たかった。
彼が夢を追い続けるなら、共にその夢を追いかけていけたならと痛い程に願っていた。
自鳴琴の奏でる音色を共に聴いて居たかった。互いを隣に感じて、いつまでも共に生きていきたかった。
彰俊に進んで欲しいと願いと、共に居たいという願い。どちらかしか叶わないことが、哀しいけれどわかっていたから。結局、片方の願いを封じた……。
透明な雫が一つ、また一つと詩織の頬を伝う。
それを指で静かに拭いながら、祥也は哀しげに微笑んで見せた。
「俺も、お前と離れたくなかった。お前といる時間が、俺にとっての幸せだった」
彰俊は、この家を訪れる時間がとても好きだったという。
裏表のない一途な愛情を向けることができて、同じものを返してくれるかけがえのない存在だった。
異国を感じさせる部屋で、いつも彼を笑顔で出迎えてくれる従妹と過ごす時間は、彼を支えるよすがだった。
無邪気に自分を慕ってくれる芽依子と共にある時間が、夢を追う原動力ともなった。
「異国で学び、お前を元気にしてやる術を、見つけ出したかった……。名をあげて。お前に相応しいひとかどの男に、なりたかった……」
幼い頃から触れることの多かった異国への憧れは、様々なことを知れば知る程強くなる。
進んだ知識や技術があるという異国には、もしかしたら身体の弱い芽依子を元気にしてやれる術があるかもしれない。
それを見つけ出したいと思った。強い期待を抱いて、彼は遥かな地へ渡った。
そして、学び、人と関わり、名をあげることで。愛しい少女に相応しい男となりたかった。彼女に見合う存在になりたかった。
芽依子を幸せにするに足る人間になりたいと、思っていたのに。
「それなのに……一番大切なお前の手を離してしまった」
今ひと時だけと思い手を離したのが、永の離別となってしまった。
芽依子の死を知って、彼は目的を見失う。何の為の夢だったのか。夢の根源にあった原動力を失ってしまった。
それから先は、何を考えていたのかもはやあやふやで。
少しでも余裕が出来てしまえば芽依子を失った後悔に苛まれるから。逃れるように必死に、ただがむしゃらに。もはや目的を失ったまま進み続けた。
歩いた軌跡は功績として語られるようになったけれど、空虚な彼の中に残っていたのは、ただ後悔だった。
伝えたい言葉があっても、それを聞いてくれる相手はもう居ない。
「約束を守れなくてすまないと、謝りたかった……」
ここで待っていてくれるという芽依子に対して、必ず戻ると約束した。結局は、その約束すら果たせずに。
俺は何のために、と呟き俯きかけた祥也は、ふと驚いたように目を見張る。
詩織は、自分を見つめる祥也に向かって泣き笑いにも似た表情を見せながら。そっと片方の手で彼の頬に触れていた。
確かに感じる愛しい人の温もりに目を細めながら、詩織は緩やかに首を左右に振る。
「兄様は帰ってきてくれたもの。今、ここに、こうして」
芽依子は詩織という名前になり、彰俊は祥也という名前になり。全く同じ形ではなく、時は巡り、命は巡ったけれど。
想いは確かにここにあり。二人は、確かにこの場所にて再び巡り合った。
ここで彼を待つという約束は。彼女の元に戻るという約束は、今ここに。
「約束を、守ってくれたもの」
その言葉に応じるように、二人の周囲に光が走ったかと思えば。目に映る周囲の光景が変化していた。
異国の香りを感じさせる、美しいものに溢れた部屋。自鳴琴が音を紡ぎ続ける、二人が共に時を重ねた幸せの象徴である空間に。
かつて確かにそこにあった想いを受け取り、ひとたびの夢を映し出した場所で、着物の袖を揺らしながら愛らしい少女が笑う。
――彰俊兄様、お帰りなさい。
溢れる程の愛情に満ちた場所で、少女は愛しい人を出迎える。
その腕に飛び込みながら、眩い程の笑顔を見せる。
受け止めた青年の顔にも、幸せそうな満ち足りた笑顔がある。
――ただいま、芽依子。
長い、長い時を渡って来た。
酷く哀しく、寂しい道のりを辿って来た気がする。
けれど、それももう過ぎし日と笑うことが出来る。
だって、今、約束は果たされたのだから。
少女は、青年を見つめ。青年もまた少女を見つめ。そして、どちらからともなくその言葉を口にした。
――今度こそ、ずっと一緒に。
二人の口から紡がれた想いの言の葉は、くるり、くるりと巡って重なって。
そして、あるべき場所へと戻っていく。
光に満ち溢れた空間に、二人の影は寄り添い。
音を取り戻した自鳴琴が、静かに叶ったいつの日かを祝するように音色を奏で続ける中。光も二人の姿も、徐々に消えていく。
長い間離れ離れだった芽依子と彰俊が、再び手を取り合うことが叶い。果たされた約束を喜びながら、眠りにつく。
しあわせな空間が、余韻を残して緩やかに今という時間へと帰ってくる。
やがて、周囲の光景は元の自鳴琴の店内へと戻り。寄り添い佇む、詩織と祥也の姿が戻って来た。
暫くの間、二人は惚けたように無言のままだった。
夢を見ていたような感覚があるけれど、詩織も祥也も分かっていた。夢ではなかったと。確かに、自分達は今奇跡と見たのだと。
詩織は、自分の中に不思議な満たされた心があることに気付く。
表情からして、祥也も同じ想いである気がする。
もう祥也から欠けているが故の不安も。それ故に自分を責め続ける罪の意識も感じない。
音を失った自鳴琴に眠り続けた約束は、かつての二人が本当に伝えたかった言葉によって果たされた。
自分は確かに結城詩織であり、目の前にいる人は確かに結城祥也なのだ。
無言のままの二人の間に沈黙が満ちるけれど、それは不思議な温かさを帯びている。
祥也の息遣いを感じると、詩織の胸に明かりが灯るような感じがする。
ここに彼が居ることが。生きていて、傍に居てくれることが、嬉しくてたまらない。
何故、祥也と一緒にいると思うだけでそんなに胸に温かで幸せなものが満ちていくのか。離れたくないと、あれほど思ってしまったのか。
それに、芽依子の想いを通して、漸く気付けた。
身じろぎの気配を感じて詩織が視線を向けると、祥也が真っ直ぐに詩織に向き直り、詩織の瞳を見つめている。
その眼差しに宿る真剣さに詩織の鼓動が一つ跳ねた。
祥也は、頬に添えられたままだった詩織の手を優しく握りながら、静かに口を開く。
「深山彰俊ではなく。今を生きる、結城祥也としてお前に伝えたい」
芽依子と彰俊は、果たされた約束に眠りについた。今ここにあるのは、今という時に生を受けた二人。
過去の哀しみを超えて立つ人間として伝えたいことがあると、祥也の真っ直ぐな眼差しは告げている。
詩織は、言葉を紡がぬまま。続きを促すように一度だけ頷いた。
そこで祥也は僅かに逡巡するように黙ったが。それは、ほんの一瞬のことだった。
「詩織、愛している」
祥也の口から紡がれた迷いのない言葉に、詩織の目が見開かれる。
胸の奥底から温かな想いが満ち溢れて、心の中を見る見る内に苦しい程に満たしていく。
言葉を返したいと思うのに、唇が震えるばかりで一つとして言葉に出来ない。
それでも必死に、何かを口にしようとした。
その瞬間、詩織の目に映る光景が変化する。
強く優しく自分の身体を捉える感触と共に、気が付いた時、詩織は祥也の腕の中に居た。
温かい祥也の胸に頬を当てると、鼓動を感じる。
確かに祥也が生きてここに居てくれる証を感じる。
そう思ったなら、胸が痛いくらい切なくて。あまりに幸せすぎて、もうここから離れたくないと思ってしまう。
「俺と結婚してくれ。俺と、これからを一緒に生きていってくれ」
抱き締められたま胸を満たす想いに目を伏せていた詩織の耳に、祥也の優しい言葉が静かに触れた。
それは、祥也が詩織に対して共に生きる未来を希う言葉だった。
咄嗟に何も言えず、目を見張って見上げてしまった先には。詩織の答えを待つ祥也の眼差しがある。
少しだけ不安そうで、けれどけして急かしたくないと気遣ってくれている表情の中。瞳には真剣な光と、溢れる程の詩織への愛情がある。
この言葉を受け入れたなら、自分達は今までとは決定的に違う形となってしまう。
それは詩織が恐れていた変化そのものだ。
かつてはそれを拒絶し、何も受け入れられなかった。変わることが恐ろしくて、自分の中にある想いにも見て見ぬ振りをしていた。
けれど、今は少しも怖くない。むしろ、変化のその先へ行きたいと思っている自分に、詩織は気付く。
今の詩織には、祥也に伝えたい言葉がある。
その言葉を口にして変わってしまうとしても、伝えないままでは居たくない。
「私も、今を生きる私として伝えたい。私も、兄さんを愛している」
自分を抱き締めていた腕が微かに身じろぎに揺れた気がした。
祥也の顔には期待と、微かな不安がある。聞いた言葉が本当だったのかと、自分に問いかけているような様子だ。
そんな祥也を見て、詩織の顔に恥じらいの滲む微笑みが浮かぶ。
漸く辿り着けた。やっと、気付くことが出来た。
かつて、芽依子が彰俊に抱いたものと同じ想いが、今、詩織の中にある。
祥也に対して向けられているこの想いをこそ、人は愛と呼ぶのだろう。
これは間違いなく、確かに現代に生を受けた詩織としての想いであり。今に生きる自分としての心だ。
だから、詩織は迷いのない声音で、確りと自分の中にある祥也への想いを紡いだ。
「ずっと、ずっと一緒に居たい。私も、あなたとこれからをずっと、一緒に生きて行きたい……!」
言葉を口にし終えた瞬間、詩織は強く祥也に抱き締められていた。
苦しいと思うけれど、それは嫌なものではない。むしろ、幸せすぎてもっとと思わず求めてしまう。
祥也の鼓動を感じながら、詩織は静かに両の腕を祥也の背に回して。自分からもそっと力をこめた。
長い時を経て果たされた約束を超え、今を生きる自分としての想いを伝えあった二人を。
約束と共に眠り続けてきた異国の楽器は、見守るようにして懐かしい音色を奏で続けていた――。
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