六畳の宇宙

@tsubaki_1210

第1話

「ざっけんなよ!!」

 怒号が鼓膜を刺激するのと同時に、ミキの腹につま先がめり込む。せりあがってくる不快感に耐えられず、透明な空気と液体が口から漏れた。苦しい、と口にも出せずにうずくまっているとつま先の持ち主がしゃがんで顔を覗き込んできた。

「大丈夫か」

「……ん」

 誰がどう見ても嘘だとわかるその首肯に、彼は満足げな笑みを浮かべて「じゃあ立とうな」と襟元を引っ掴む。ああ、伸びてしまう。などと的外れな心配をしながらその手に従った。

「俺何たのんだっけ」

「ごめんね、でも」

「なぁ、何たのんだっけ!?オイ!」

 ガンッ

 彼のつま先が壁を蹴り上げる音に首をすくめる。

「拾った猫を、捨ててこいって」

「じゃあこいつはなんだ」

 ピンと伸ばされた人差し指の先には、ぐったりと横たわる猫。

「捨てられなかった」

 涙をこぼしながら首を振ると、襟元を持つ彼の手が震えた。怒りを抑えこむように小刻みに揺れるその腕に手を添えた瞬間、虫でも止まったかのように大きく振り払われる。

「チィッ」

 大きく舌打ちをして、今度は猫の首元を掴んで持ち上げる。ニャンとも言わない猫を持ったまま、狭いワンルームの扉を開けて出て行った。お前は出るなよ、と捨て台詞のように残して。

「……だってさぁ」

 誰もいなくなった部屋の中で、ミキは一人呟く。律儀に閉められた鍵は真一文字に、玄関はその口を閉じたまま。

「あんな寒い場所で一匹ぼっちだなんて、可哀想だよ」

 同じことを言って、君は僕を拾ってくれたじゃないか。その日のことを思い出して、サイズの合わないTシャツの裾を固く握りしめた。


「おかえりなさい」

 気づいた頃には日も暮れていて、慌てて夕食の準備をしているところだった。キッチンの前で時間を測るミキに、帰ってきたヒロは困ったように眉尻を下げた。

「ただいま」

 そういう彼の手にはもう猫はおらず、代わりにコンビニの袋がぶらさがっていた。

「電気くらいつけろよ、いつも言ってるだろ?」

「あぁごめん、気づかなかった」

「お前なぁ」

 カチッと紐を引く音がして周囲が白くなる。同時に、ラップの上に置かれたキッチンタイマーが規則的な鳴き声を上げはじめる。

 ピッ

「今日の晩飯何?」

「鯖の塩焼きだよ。変わり映えなくて申し訳ないけど」

「まさか、いつもありがとうな」

 狭いワンルームの中、ちゃぶ台の上の雑誌を床に置き箸を並べる音と、優しい声音の礼が背後から聞こえる。彼のそうした一面を見るたびにミキは胸の奥がじんわりと温まるのを感じる。

 皿の上に鯖を置き、付け合わせにきんぴらごぼうを乗せる。初めて作ったにしては中々の出来だと自負している。

「お待たせ、今ご飯よそうから待っててね」

 あぐらをかいたヒロの前に皿を置き、差し出された空の茶碗を持ってキッチンに戻る。今日は疲れただろうから少し多めにしておこう、と山をつくって一人でニンマリした。

「はいどうぞ」

「いただきます」

向かい合って座り、机に体重を預けながらご飯をかき込むヒロをじっと見つめる。咀嚼もそこそこに飲み込んで、鯖へ箸を伸ばした。飯を食ってるから話しかけないでくれ、と言われた日から食事中は話しかけないようにしている。ただ、静寂の中響く食器の音も、不躾な視線を気にもせずがっつく姿を眺める時間も、ミキは存外嫌いじゃなかった。

「ごちそうさま」

「……美味しかった?」

「おいしかったよ」

 カチャカチャと皿を重ねて立ち上がる。その重なった皿を受け取りながらふと皿の上に残ったきんぴらの存在が目についた。

「あ、ヒロ。食べ忘れがあるよ」

「あー俺ごぼう嫌いなんだよな。お前食べていいよ」

 ヒラヒラと手を振りながら、万年床へ座り込む。

「食べていいよって……僕も食べれないのわかってるだろ」

 頬を膨らませて抗議をするも、すでにイヤフォンを取り出して耳につけてしまっていた。ため息をついてゴミ箱にきんぴらを放り込む。冷蔵庫を開け、作り置きしておいた分も容器ごと放り込んだ。

 

 すでにくつろぎモードに入ったヒロの隣に座ると、遠慮なく体重がかかる。チラリと手の中の板を覗き見ると、ミキには読めない字でたくさんのことが書いてあった。

「ヒロはすごいね」

「ん?何が」

 ヒロの耳に繋がる紐を引く。つられて少しだけヒロもこちら側に傾く。それが少しおかしくて、ふふっと吐息が漏れた。彼の鼓膜と自分の声の間にある栓をといて「いろんな字が読めて、いろんなことを知ってるから」と伝えると、今度はヒロからハッと吐息が漏れる。

「お前ほどじゃないよ」

「なんで?魚の焼き方も動物の種類も、喋り方も。教えてくれたのはヒロじゃないか」

「でも、宇宙には口に出さなくても会話ができる生物がいることを知らなかった」

「謙虚だね、僕だってこの家に君がいることを知らなかったのに」

「知ってたら怖いだろ。それともお前の産まれたなんたら星にはプライバシーの概念が無いのか?」

 呆れたように笑うヒロに、何が面白いのかわからないがつられて口角が釣り上がる。

「あるから共有するんだ。誰も誰かの場所に勝手に入らないように、全員が全員の家を見守るんだ」

「わかんない価値観だな」

「僕からしたら簡単に自分の家に僕を入れるヒロの方がわかんないよ」

 一枚しかない薄い布団を分け、彼にとっては価値のあるお金や本を置いたまま留守を任せ、一人の時間と自分のテリトリーを削り取って行き場のないミキを泊めて。

「お前が雨なのに服も着ねえでブランコ乗ってるもんだから……」

 天井を見上げながらそう呟く。ミキに言っているようでもあったし、自分へ言い訳しているようでもあった。

「君のそういうところが僕は大好きだな」

 眩しそうに薄暗い電灯を見上げるヒロの横顔に、そうぶつける。横顔は噛み締めるように口元を歪めて、次いで振り払うように眉を顰めて首を振った。

「だからかな、僕も少しずつ君に影響されてる気がするよ……誰かに手を差し伸べてみたかったんだ」

 勝手なことをしてごめんね、と床に落ちたイヤフォンを拾って彼の手に置く。受け取られず、すり抜けるようにそのまままた床に落ちた。

「だから猫を殺したのか」

 落ちたイヤフォンを目でおって、こちらを見ないまま喉を締められているみたいな声で絞り出す。いつの間にか二人の間には隙間ができており、ミキの髪の毛が寂しげに揺れてヒロの肩に乗った。

「うん」

 ポンと置くように出されたその答えに、文字通り頭を抱えながらヒロが小さくうずくまる。あぐらをかいていた足を閉じ、ギュッと玉子のように丸くなった。

「わかんねぇよ、本当に」

「僕もだよ、だから君が好きなんだ」

 いつの間にかヒロの体を一周した髪の毛で、コテン、とミキの方へ重心を崩す。立てかけるようにしてミキの肩にヒロの頭が乗る。

「明日はバイト休みだよね?前教えてくれたゲームをしよう」

「……」

 グシャリと自身の髪の毛を掴んでいた両手を離して、そっと胴体に巻き付くミキの髪に触れた。手櫛で解くようにして撫でながら、久方ぶりにミキと目を合わす。

「ああ、そうしよう。楽しみだな」

 6畳のワンルームに、じんわりとヒロの返事が響いた。

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