皇后アストリンデは二度、純白の花束を拒む
八色 鈴
第1話 守られなかった月夜の約束
「第十四代皇帝ヴェスカルド陛下。並びに皇后アストリンデ陛下。帝国評議会は先帝の遺志に基づき、両陛下の即位を承認いたします」
重々しい議長の宣言が、大聖堂に響いた。
一瞬の静寂。のち、貴族たちが頭を垂れる衣擦れの音が、さざ波のように広がっていく。
「おめでとうございます。兄上、義姉上。これからは臣下として、おふたりを誠心誠意お支えして参ります」
(心にもないことを)
慇懃な笑みを浮かべて近づいてきた義弟を、アストリンデは冷ややかな思いで見据える。
(お前が腹の底で何を考えているのか、わたくしはすべて知っている)
しかし、それを表に出すような愚かな真似はしない。
「ありがとう、テネブロス。お前が力になってくれるなら心強い」
差し出される弟の手を握りしめ、ヴェスカルドが頷いた。
アストリンデも、そんな夫の隣で淑やかに微笑む。
「夫共々、あなたのことを頼りにしているわ」
心の奥底に秘めた憎しみを、決して表に出さぬように。
今すぐにでも相手を地獄に落としたい衝動を、決して気取られぬように。
(お前だけは、決して許さない)
――星辰暦1520年、春。
その日、アストリンデは
心の中に密かな、そして確かな復讐心を燃やしながら。
§
アストリンデにとってヴェスカルドの側は、日だまりのように温かな、安心できる居場所だった。
いわゆる政略的な婚約だったが、たった十二歳で異国に送られた孤独な彼女にとって、いつも傍で優しく見守ってくれる存在がどれほど心の支えとなったか。
ヴェスカルドはいつも穏やかに微笑んでいた。
だから、アストリンデは気づいていなかった。彼が心に抱えている、深い傷に。
「やはり皇帝陛下は、第一皇子のヴェスカルド殿下をお世継ぎに決めるおつもりかしら?」
「受け入れがたいわ。だってあの方は、身分の低い愛妾の産んだ子でしょう?」
「いくら隠そうとしても、やはり皇后陛下の実子であるテネブロス殿下と比べると一目瞭然よねぇ」
それはアストリンデとヴェスカルドの、婚約お披露目式でのことだった。
外の空気を吸うため庭園に出たアストリンデは、聞こえてきた噂話に思わず凍り付いた。
すぐ隣に、ヴェスカルド本人がいたからだ。
おずおずと隣を見上げようとすると、ヴェスカルドがそっとアストリンデの手を引く。
「行こう、リンディ。ここにいるのはあまり良くない」
静かにその場を離れる彼に、アストリンデは無言でついて行くことしかできなかった。
「――嫌な話を聞かせてしまったね」
ひとけのない一角――小さな噴水の傍で足を止めたヴェスカルドは、アストリンデを見つめて微笑んでいた。
しかしその琥珀色の瞳の奥には、確かに傷心の色があった。
普段の彼が決して見せない、暗い表情。
これまで『立派な皇子』の仮面で隠してきた彼が、初めて見せてくれた素の表情。
何も知らず、ただ彼の優しさに甘えるばかりだった自分が恥ずかしい。
押し黙ることしかできないアストリンデに、ヴェスカルドは弱々しく告げる。
「ごめん……。落胆させてしまったね」
どうして彼が謝るのかわからず、アストリンデは何度も首を横に振る。
確かに驚きはした。そんな話を耳にしたのは初めてだったから。でも決して、落胆なんてしていないのに。
「わたしは、ヴェス兄さまが大好きよ」
ヴェスカルドが軽く目を見開き、アストリンデをじっと見つめる。
まだ幼い彼女にとって、それは恋愛というにはあまりに幼い、家族愛のような感情だったかもしれない。
その違いすらわからないままに、アストリンデは一生懸命に言葉を紡ぐ。
「ヴェス兄さまは優しくて、側にいるとあったかい気持ちになって……。だから、生まれなんてどうでもよくて……」
どんな言葉を使えば、ヴェスカルドの苦しみを和らげることができるのだろう。
幼いアストリンデには、自分の伝えたい思いをうまく言い表すことさえできない。
「だから、だからね。ヴェス兄さまのことは、私が守るわ」
もどかしい思いをかかえ、ようやく絞り出せたのがその一言だった。
ヴェスカルドはきゅっと唇を引き結び、アストリンデの頭を優しく撫でる。
「ありがとう。リンディは、優しい子だね」
月の光に照らされる中、ヴェスカルドが浮かべたその泣きそうな笑みを、アストリンデはきっと永遠に忘れることはできないだろう。
元々仲の良いふたりであったが、互いをかけがえのない存在として意識し合うようになったのは、その夜がきっかけだったように思う。
ゆっくりと深め合った絆はやがて恋として花開き、ごく自然に男女の深い愛情へと変化していく。
そんなふたりのもとに喜ばしい知らせがもたらされたのは、結婚して一年後のこと。
アストリンデの懐妊を、ヴェスカルドは心の底から喜んだ。早くからいくつもの名前候補を考えたり、たくさんの産着を用意させたり、周囲が呆れるほどの浮かれぶりだった。
アストリンデも幸せだった。
今思えば、あの時が人生で最も幸せだったかもしれない。
ヴェスカルドが傍にいてくれて、無邪気に子供の誕生を待ち望んでいられたあの時が。
――悲劇が起こったのは、それからさらに二年後のことだった。
アストリンデの故郷パルシア王国が、ゼファーとの同盟破棄に向けて動いている。
その報を受けて急遽パルシアとの会談に出向いたヴェスカルドが、何者かによって暗殺されたのだ。
ヴェスカルドの護衛から訃報を告げられた時、アストリンデの世界は光を失ったように真っ黒に染まった。
「う……っ」
下腹部が、強く痛む。
切り裂かれるような強烈な痛みと共に、太ももに何か熱いものが伝うのを感じる。
それがなんなのか、知りたくなかった。
「義姉上! しっかりするんだ、義姉上! 誰か、すぐに医者を……!」
遠くで、テネブロスの切羽詰まった声が聞こえる。
強烈な痛みと、ざわめき。
それを最後に、アストリンデの意識は途絶えた。
――次に目覚めた時、アストリンデの突きつけられたのは、自分が夫だけでなく腹の子をも喪ったという辛い現実だった。
絶望の中で床に伏せるアストリンデの元には、義弟のテネブロスが頻繁に訪ねてきた。
「義姉上、兄上の仇は俺が必ずとる。だから、今はただ身体を休めることだけを考えてくれ」
きっと、夫を亡くし子をも喪った義姉を、哀れに思って励まそうとしてくれているのだろう。
多忙にも拘わらず気遣ってくれるテネブロスの優しさに、感謝さえしていた。
けれど違った。
すべては彼の陰謀だったのだ。
ヴェスカルドが亡くなって三ヶ月。
大分快復したアストリンデは、ヴェスカルド暗殺について調査の進捗を聞くため、ひとりテネブロスの私室を訪れていた。
そこで信じられない光景を目にすることとなる。
かすかに開いた扉の隙間から見えたのは、ここに決しているはずのない人物の姿だった。
(……ジルヴェナお姉さま?)
パルシアの女王。アストリンデの異母姉。
ゼファー帝国との同盟破棄を宣言し、ヴェスカルド暗殺に関わっているかもしれない彼女が、なぜここに。
何か、嫌な予感がした。
気づかれないよう扉に近づき、そっと室内の様子に目を凝らす。
ジルヴェナの目の前には、テネブロスがいた。
「ナナ、こうして訪ねてこられても困る」
聞こえてきた言葉に、アストリンデは言葉を失い凍り付く。
テネブロスは扉に背を向ける形で立っており、表情までは見えない。
しかし。
――ナナ。
それはごく親しい者のみに許されたはずの、姉の愛称だった。
「だって、我慢できなかったんですもの」
聞いたことがないほど甘ったるい声を上げながら、姉はテネブロスの首に両手を回す。
テネブロスも慣れた様子でそれを受け入れており、その様子は、ふたりの関係を裏付けるにあまりある親密さだった。
「一体いつになったらわたくしを、ゼファーの皇后にしてくれるの? あなたとわたくしが一緒なら、世界を手にできるのに」
「焦るなと言っただろう。まだ兄の喪もあけていないんだ」
テネブロスの言葉に、ジルヴェナが軽やかな笑い声を上げる。
まるで、心底楽しい冗談を聞いた時のような、無邪気な笑い声を。
「その兄君を殺すよう指示したのは、あなたなのにね」
喉の奥で、悲鳴になりきれなかった空気がひゅっと音を立てる。
「……迂闊なことを言うな。誰かに聞かれたらどうする」
「そうしたら、そいつも殺してあげる。ヴェスカルドを殺した時のようにね……」
ジルヴェナがキスをねだるように、テネブロスの顔をぐっと己のほうへ近づける。
アストリンデは震える足でその場を離れた。
やっとの思いで部屋にたどり着くなり、嘔気が込み上げてくる。
唇を押さえて我慢しているうちに、悔しさと悲しみと怒り。さまざまな感情の交ざった涙が滂沱のごとく溢れてきた。
(わたくしが守ると言ったのに。約束を果たせなかった。ヴェスカルドは……わたくしの大切な夫は、あんな卑劣な者たちに……)
優しかったヴェスカルド。
聡明で、努力家で、いつだって他人のことばかり。
そんな綺麗で実直な心の持ち主だったから、薄汚い裏切り者につけいる隙を与えてしまったのだろうか。
(いいえ……。彼は決して、こんな死に方をしていい人ではなかった。彼を慕う大勢の人に囲まれ、穏やかに暮らせる未来があったはずなのに……!)
固く拳を握りしめる。
爪が皮膚を傷つけ、床に血が垂れる。けれど、痛みは感じなかった。
何も知らないテネブロスがやってきたのは、その日の晩だった。
普段は滋養にいいスープや、みずみずしい果物などを差し入れる彼だが、その晩は様子が違った。
きっと、快気祝いのつもりなのだろう。彼の片手には、豪奢な白い花束が携えられていた。
「義姉上は白い花が好きだったろう」
彼はアストリンデの冷ややかな眼差しに気づいていないようだった。あるいはまだ、薬の影響でぼうっとしているとでも思ったのかもしれない。
「今日は君に、大切な話があるんだ」
ソファに座るアストリンデの隣に図々しくも腰を下ろし、彼はそう切り出した。
――君。
常より親しげなその呼びかけに、全身が総毛立つ。
この期に及んで、一体どんな話があるというのだろう。
しらけた思いで無言を貫いていると、テネブロスが何度か咳払いをする。そして――彼が口にした言葉のおぞましさに、あまりの屈辱と怒りに、アストリンデは目の奥が真っ赤に染まる思いだった。
「……評議会が、俺と君との血脈継承婚を望んでいる」
血脈継承婚とは、簡単に言えば夫を喪い未亡人となった女性が、夫の兄弟と新たに婚姻関係を結ぶことだ。
未亡人となった女性の立場を守るためでもあり、財産の流出を防ぐなどの目的を主とする。古くから、王族などの間では当たり前に行われてきた制度。
「俺は、君となら喜んで夫婦になりたいと思っている」
はにかんだような遠慮がちな笑みと共に、テネブロスが花束を差し出してくる。
「もちろん、返事を急ぐつもりはない。君の心が癒えた時に受け入れてくれれば……」
(汚らわしい、汚らわしい、汚らわしい……!)
どうして気づかなかったのだろう。
こんなにも、自分を見るテネブロスの目は『雄』そのものだったのに。
気づけば、花束を手で払いのけていた。床にたたきつけられ、白い花びらが無残に散る。
容赦なくそれを踏みつけながら、アストリンデは甲高い声でテネブロスを糾弾した。
「おぞましい……! こんなもの……っ」
「落ち着け。病み上がりで、気が立っているんだな」
「近づかないで!」
気の立った子供をなだめるような声と仕草に益々嫌悪感を募らせながら、アストリンデはじりじりと後ずさりした。
その先にあるのがバルコニーであることに、テネブロスが気づかないはずがない。
「危ないからこっちに来るんだ。夜風に当たっては身体に良くない。ほら、早くこちらに来て。話し合おう」
話し合いなどに意味はない。
これから先、テネブロスはアストリンデとの結婚を強引に推し進めるだろう。
どんなにアストリンデが拒んでも、皇帝であるテネブロスが望めば叶えられぬことはない。もう既に、評議会の大半は彼に掌握されているだろう。
(皇后とはいえ、わたくしは力なきただの女。そうなれば抵抗するすべはもうない。――仇の妻になるくらいなら)
アストリンデはためらいなく、バルコニーの柵から身体を乗り出す。
「リンディ、やめろ。やめるんだ……!」
青ざめたテネブロスが、絞り出すような声と共に手を伸ばす。
「――わたくしが愛するのは、生涯ヴェスカルドただひとり。絶対に、お前などに〝わたくし〟を渡すものか――」
そう言い残し、アストリンデは一瞬の後、躍るように柵の向こうへ身を翻した。
「リンディ――――――――!!!!」
駆けつけたテネブロスが必死で手を伸ばすが、その手はアストリンデの指先をほんの少しかすめただけだった。
身体が落下し、地面に叩きつけられるまでの間、アストリンデの心は不思議と凪いでいた。
(これで、愛する夫と子の元へいけるのね……)
脳裏には走馬灯のように、ヴェスカルドとの楽しい思い出が駆け巡る。
初めてのお茶会で、誤ってヴェスカルドのコーヒーを飲み、あまりの苦さに悶絶して笑われたこと。
お忍びで祭りに出かけ、ランタンの光の下でダンスを踊ったこと。
初めてのキスで、歯がぶつかって互いに気恥ずかしい思いをしながら、苦笑を交わしたこと。
バルコニーから地面に落下するまでの、ほんの短い時間。しかしそれはアストリンデにとって、とても長い長い、幸せな時間だった。
やがて永遠の静寂が訪れ、彼女の物語は終わる――はずだった。
見知った部屋で目を覚まし、困惑に包まれたまま鏡に映った幼い己の姿を見るまでは。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【あとがき】
いつもお読みくださりありがとうございます。
これまでアップした分を一旦非公開とし、改稿した上で一話から順に公開していくことにいたしました。
詳しくは12/23の近況ノートをご覧いただければ幸いです。
また、とても素敵なイメージイラストを一緒にアップしておりますので、併せてご覧いただけると嬉しいです!
皇后アストリンデは二度、純白の花束を拒む 八色 鈴 @kogane_akatsuki
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